ゴッホ、ゴーギャンの真実

ゴッホ、ゴーギャンを裏から見る

ゴッホとゴーギャン展
 現在名古屋市ではゴッホとゴーギャン展が開催されている。二人の友情に焦点を当てた様なキャッチコピーが目につくが真実はどうだったのか。30年以上にわたって調べた資料の中から二人に関する面白い裏話などをまとめてみた。講義のために作ったものなので箇条書きだが、ブログでもちょっと紹介させていただきたい。

<ゴッホ>
・1869年、16歳のゴッホは親類の紹介でパリの美術商グーピル商会のハーグ支店に就職する。その後ロンドン支店に。この折、弟テオに出した手紙―—「テオよ、この店はハーグより面白くないが、ここにいるのは僕にはいいことだ。そのうちに絵画の販売がさらに重要になって、接客がうまくなれば、僕も少しは役に立つようになってくるだろう。近頃店にはたくさんの油絵や素描があり、売る方もたくさんさばいたがまだ十分でない。絵はもっとたくさん永久的に売れる様にならなければだめだ。イギリスではまだ大いにやるべきことがある。」

写真下左:牧師をしていたゴッホの父  右:父が牧師を務めた司祭舘、これに付随する家でゴッホは生まれた
ゴッホの父 父の牧師館

・ゴッホはこのグーピル商会を1876年首になるが、その後グービル商会のオーナーに200〜300通の手紙を出している。内容は自分の絵を買ってほしいといった類のものだが、グーピル商会オーナーの息子のその後の証言では、親はほとんど読まずにストーブで燃やしてしまったとのことだ。オーナーの娘が亡くなった折にはお悔やみの文とあの『跳ね橋』の作品をお悔やみで送っていた。

テオ・1880年ブリュッセルにいたゴッホからテオへの手紙――「テオよ。父から今後は当分1か月60フランまで送ると言ってきた。ここの生活費はそれより少しかさむが仕方がない。絵の材料費や解剖学の研究で相当費用がかかる。これ以外に成功する見込みはない。いろんな衣装を調えていこう。その衣装をつけたモデルを描くのが楽しみだ。これが成功への唯一の道なのだ。」
写真右:弟テオ
・1885年11月、テオに出した手紙――「テオよ、僕はここでたくさんの写真を見た。写真屋にはその写真を見て描いたらしい肖像画作品もあった。だがどれも月並みな目と鼻を持ち蝋細工のように冷たい。どれも皆、生命が感じられない。本当に描かれた肖像画は芸術家の魂から出てくるものだ。この町には美しい女がたくさんいる。これらの女を描けば金が儲かるような気がする。」
・ゴッホのアルル滞在は、1年2か月しかない。このわずかな期間に油絵だけでも190点完成させている。(この折「タンギー爺さん」等の作品数点と油絵具の交換をやっていた。)
・ある画商は「ゴッホは金と出世の権化となり混乱した芸術家となっていく」と言った。

ゴッホの入った精神病院
・この後有名な耳切り事件を経てゴーギャンはアルルを去り、ゴッホは精神病院に入った後自殺する。
写真左:ゴッホの入った精神病院
・ゴッホの死は弟テオに無限の悲しみを与えた。全身全霊を傾けて支援してきた兄を失い、人生の目標を無くしてしまったかのようだ。兄の葬儀場で卒倒して以来、健康に優れずオランダに帰国後、妻と子供を残して半年で狂い死にをしてしまった。
・死後11年、ゴッホの回顧展が催され有名になっていく。そうするとゴッホの生家や教会の倉庫や廃品業者に売られていったデッサン等探す大ブームが始まった。
・ゴッホが死んだ時、テオの部屋にはゴッホの遺作がいっぱいあった。有名になり出したゴッホの絵に画商が目を付けた。作品の数が膨大だからヒットすれば大儲けできる。

※ここで言えることはどんなにうまい画家であっても作品の量がなければ近代以後の歴史には残れないということだ。ゴッホ作品は彼が生きている間ほとんど売れなかったのに現在は全て数億の値がついて売れる。
※私が名古屋芸術大学で教えていた時、東京芸大出身の同僚にこんなことを言われた。「山田先生は学生たちに『コンクールで賞を狙え、有名になれ、お金を稼ぐすべを身につけろ』と言っているけれどゴッホを見てごらん。有名になろうとか、売れる絵を描こうとか、お金を稼ごうとか言ったことなど全く考えず黙々と作品創りをしていた。しかし彼は有名になった。ゴッホを見習うべきだ」と。僕は美術教師である彼がゴッホの人生についてあまりに何も知らないことに驚いた。ゴッホは自分を売り出すべく、手紙を書きまくり、自分を売り込み(テオもそれに大いに協力する)絵を描きまくった。しかし生前は目が出なかった。彼のある意味頑固な性格が災いしたとは思うが、それでも画家として認められ、有名になって絵が売れる様に弟テオと全力を注いで努力したしていたことは間違いない。


<ゴーギャン>
ゴーギャンの家族
写真右:ゴーギャンの妻と5人の子供たち
―ゴーギャンから妻メットへの手紙―
「君が僕に証券所に帰ってほしいと願っていることは知っている。最近の君の沈黙は異常です。」
妻からゴーギャンのもとには1か月の間、1通の手紙も来なかった。・・38歳頃。
「僕の画家としての評価は日に日に高まっている。それなのに3食も食べられない日が続く。だからパナマに行くのです。」
「出発する前に一度でいいから君と寝たい。まだ君を愛している愚かな男。2~3行でいいから手紙をください。」
「君に接吻を送ります。我々を別れさせた君の憎むべき性格を思い出すとき、私は君を憎まないわけにはいきません。」
「奇妙なことだが君の手紙にはいつも私の手紙の内容に関する文が欠けている。私の手紙を読んでないか飛び読みをしているのではないか。」
「愛するメットへ。船便が何回か着たが君からの便りはありませんでした。何も言ってこないのは君の愛情がないんだね。どんなに忙しくても30分もあれば書けるはずだが。君に書く気がないんだね。」

ポン=タヴァンの家
写真:1886年パリからブルターニュ地方のポン・タヴァンに移って住んだ家
―妻についてのゴーギャンの言葉―
「私は人民のもう一人の敵(妻)を知っている。その妻は夫に従わなかったが、父を知らぬ子どもたちを立派に育て上げた。その父(ゴーギャン)はオオカミの住む地にあって「お父さんと呼ぶ声が聞きたかった。だが一度も聞いたことが無かった。私が死んで遺産が入れば、きっと現れるであろう。もう愚痴はよそう」
「私は芯からデンマーク(妻の出身国)が嫌いだ。その気候も国民性も・・」

―ゴーギャンの日記から(ゴッホとアルルにて)―
「我々はカフェに出かけた。彼はアブサンを少しひっかけた。その時突然、彼は僕にそのコップを投げつけた。僕はさっと身をかわし彼を抱き止めた。その後広場を通り過ぎたと思った瞬間、僕が振り返ると髭剃り刀を持ったゴッホが僕にとびかかってきた。その後ゴッホは家に帰ってから自分の耳を根から切り落とし封筒に入れ、「これ僕の形見だよ」と言って、なじみの娼婦に渡していた。」
・ゴーギャンは、「私がゴッホと居てよかったのは自分より不幸な人間が身近にいるという安心感があったことだ」と言っている。

※最近はゴーギャンがゴッホとアルルで共同生活を始めたのはテオの支援を当てにしたためとはっきり言われている。

―画商からタヒチにいるゴーギャンへの手紙―
「あなたはタヒチから帰ってきてはいけない。あなたは偉大なる死者の特権を与えられているのです。今では歴史上の人物です。」 
・これに対するゴーギャンの言葉が残っている。「私の帰国をなぜ嫌がるのだ。私はパリを通り過ぎるだけでスペインに行きそこで数年生活したいだけだ。私の視力もおかしくなった。見えるうちにヨーロッパに帰りたい。」
だが画商はそれを許さなかった。パリから遠く離れた異国の地にいるから人々が作品に興味を示すのであって、帰国したらただの絵描きになり作品は売れなくなる。そう考えて画商は帰りの船賃を送らなかった。

※1906年にピカソの『アビニヨンの娘たち』が出るまでゴーギャンの技法はナビ派と言われその時代をリードした。画商にとってはゴーギャンがタヒチに留まる方がよかった。日本の荻巣高徳も似ていて、芸術の都パリ在住の画家ということで評価が上がった。逆にパリ時代は有名だった菅井汲は帰国したら騒がれなくなった。

―タヒチで暮らすゴーギャンから友達への手紙―
「毎晩のように不良娘たちが私の寝室に侵入してくる。昨夜はそのうち3人で用を済ませた。こんなでたらめな生活はやめて、一人の真面目な女を置いて仕事をしたい。この前の女は僕が帰国している間に再婚してしまった。ダンナから奪い返したが8日目に逃げ出してしまった。」
・1891年(43歳)でタヒチに移ったゴーギャンは、13歳のテフラを妻とする。その後も多くの女性と関係を持ち、生まれた子供も何人いたか定かでない。そのうちの一人の男子が成長してデブになり、毎日樹の下で酒を飲んで訪れる観光客に自分はゴーギャンの息子だと言って写真を撮らせお金を得ていたという有名な話も残っている。

―タヒチでのゴーギャンの言葉―
「おそらく私の姓を名乗っている4人の家族以外にも,同じ姓を名乗る女や子供が出るだろう。ゴーギャンは酋長であったからたくさんの妻や子供がいたと言って。お笑いだ。」
「希望を持つことは生きることだ」この言葉をゴーギャンは自分に言い聞かせたと言われている。
「土民たちがどうして何時間何日も、一言も言わず悲しげに空を見上げられるのか理解に苦しむ」

ゴーギャンの墓・1893年パリに帰国し、展覧会を開いたり、売り込みをし、ある程度絵も売れたが、ゴーギャンに対する批判もあり孤立し再び彼はタヒチへ戻る。その後梅毒に罹り、モルヒネを常に打たなければならなくなる。55歳で亡くなる少し前、大量のヒ素を飲んで自殺を図ったが、あまりにたくさん口にほおり込んだため、吐き出してしまい助かった。

「人生とはわずか一瞬の一コマにすぎない。それほどわずかの間に永遠の用意をしなければならないとは?私はむしろ豚であればいいと思う。人間だけがおかしくなるのだ。私の人生は芝居であった。」
写真右:ポリネシア、ビバオア島にあるゴーギャンの墓

―その他―
・ゴーギャンの別れた妻がクリスマスにコペンハーゲンで開かれるコンクールにこっそりゴーギャンの作品を出したが落選してしまった。

※これは日本でもいえる。日本の全美術館にコレクションされている荒川や河原温の作品を公募展や名古屋のコンクールに出しても名前が伏せられていたら落ちるであろう。藤田嗣治の1億円する作品を日展に出しても落ちるであろう。彼らには個性、独創性の意味が分からない。

・タヒチには女装をした男(レイレイ)が多い。ここは女系社会で家を継ぐのは女だから、男しか生まれなかった場合、家系を絶やさないために末の男の子を女として育てるからだ。

※僕がタヒチに一人旅をした時、当地の市場の入り口に数千円で入れてもらえる入れ墨屋があった。入れるかどうか迷っていた時に、レイレイの数人を見た。タヒチには蛇等、どう猛な生き物はいない。だから女社会になったとも言われている。

妖怪風人形作家、宮本美代子個展開催中

妖怪風人形作家、宮本美代子個展開催中

個展パンフ宮本美代子個展
時:2017年1月5日~1月29日(13時~19時) 
  月・火・水曜日休み
所:ブルーボックスギャラリー(写真下)
  〒444-0022 岡崎市朝日町4―98   
  TEL・FAX 0564-24-5884

ギャラリー玄関

 宮本さんは僕のニューヨーク妖怪個展に同行してくれた造形人形作家だ。僕の個展期間中、マンハッタンでハロウィンパレードがあり、僕らは彼女を応援して一緒にパレードに参加したりもした。このハロウィンパレードでは、宮本さんが制作した妖怪人形を仲間5人が一つずつ抱え、沿道に何万と集まった群衆の中を、緑色のカツラと真っ赤な着物を着て手を振り、投げキスをしながら堂々と行進した。ものすごく目立ったから、たくさんのカメラのフラッシュを浴びることとなった。 

左から宮本さん、近藤さん、作品、僕
 今回の人形作品はニューヨークに持ち込んだ作品よりはるかにでかく卑猥で、これを担いでハロウィンに参加していたら、ものすごい反響があったであろうと思われる。
写真右:左から宮本美代子さん、近藤文雄さん、宮本さん作品、僕

 その大きな卑猥な裸婦人形というのはデブの尼さん風で、体中に様々な小さな顔を貼りつけてある。まるで体中に般若心経が書かれた耳なし芳一のようだ。またバギナを巨大にして襞には大きな目が貼ってある優れもの(?)だ。

裸体人形、部分
尼さん風の人形の体に貼りつけられた様々な顔

裸体人形と僕
人形と僕、バギナの周りには目が貼り付けられている

宮本作品
写真右:腰の上に顔の乗った作品
 聡明で美人の彼女からこんな作品が生まれるなんて驚きだ。制作スタイルとしては四谷シモンに近いが、先輩の近藤文雄さん(三河では最高の画家。斎藤吾郎さんもいるが彼は一般人に強く、近藤さんは評論家等美術のプロに強い)がアドバイスしているから四谷シモンとは別の世界を醸し出すいい作品になっている。僕だったらもっと派手で卑猥にするよう指導をするが、まだ大人しく制作しているので、どこかに日常を吹っ切れない、殻から抜け出せないものを作品に感じる。

 彼女は豊橋に住んでいる。名古屋でもこれを作っていたら周囲から浮いてしまうのに、豊橋というもっとローカルな地で作り続ける彼女には喝采を送りたい。彼女が東京やニューヨークで生活して制作していたらすごい評価を受けたに相違ない。

 このブルーボックスギャラリーのオーナーはニューヨークで20年程ギャラリーを経営していた人だという。だからこの地のギャラリーオーナーとは選ぶ作家も違う。宮本さんの展示室の隣の部屋では、僕もニューヨークで知りあいになった現代美術作家である森川紗衣さんの個展が開かれていた。彼女の作品をニューヨークで見た折は何の違和感のなかったけれど、日本で見ると何か違う。
写真下左右:森川紗衣作品
森川紗衣作品 富士山 森川作品

 ニューヨークは技術的なうまさより作品の持つ個性を重視するが、日本は個性がなく誰かの真似であっても技術的にうまい方をよしとするのだ。彼女の作品を日本の美術関係者が見たら酷評するか、批評の価値もないと無視するだろう。 だからこの森川さんの作品を見てから日本のどこかの美術館へでも行ったら、その落差に驚かされるはずだ。勉強になるから一度このギャラリーへ見に行かれるといい。

 日本の美術高校や美術大学の受験ではデッサンのテストが行われるが、アメリカではやられていない。デッサンの練習が個性を奪ってしまうという判断なのだろうか。日本の美高や美大の先生が言っている。「石膏デッサンのテストなどしたくないがそれで振り分けないと入試はできない」と。個性や創造を重視するアメリカ美術と、定型の決まり事に沿って制作される日本美術の違いを感じさせる個展だった。

映画 『エゴン・シーレ 死と乙女』

映画『エゴン・シーレ 死と乙女』
エログロ画法を芸術に昇華、浮世絵の影響?

お正月飾り (300x225)
 明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。
 今年は我が家の玄関の正月飾りを妖怪屋敷風にしてみた。(写真右)お客を驚かせようと、僕のニューヨーク個展に同行してハロウィンにも参加した人形作家宮本さん制作の妖怪人形の頭部や「即身妖怪」のお札を並べてみた。

映画のパンフ
 さて今年の最初のブログは、画家エゴン・シーレ(1890~1918)だ。昨年暮れ映画の試写会に行ってきた。知り合いの美術館館長がたくさん観にきていた。美術関係者を招待して映画をPRしてもらうことを願っているのだろう。

 クリムトと並び19世紀末と20世紀初頭のウィーン美術界に異彩を放った画家エゴン・シーレ。『エゴン・シーレ 死と乙女』はスキャンダルに満ちた逸話と挑発的な名画の数々を残して28年の短い生涯を終えた異端の天才画家を描いた実話に近い映画だ。写真左:映画のパンフ

 物語はエゴン・シーレがスペイン風邪で熱にうなされながら、過去を回想する場面から始まる。シーレは鉄道官吏の子として生まれるが、14歳の時に父が梅毒で狂い証券等財産を全て燃やして死んでしまう。15歳くらいから油彩を描き始め、4歳下の妹ゲルティをモデルに裸体画も描いている。僕が思うに妹をモデルに使ったのはモデルを雇うお金がなかったこともあるだろうが、よく言われるように少女期の女性に興味があったことも理由の一つかもしれない。

ヴァリの肖像
 16歳でウィーン美術アカデミーに史上最年少で入学するも19歳には退学している。(ちなみに同時期にヒトラーがこのアカデミーを2回受験しているが2年連続で落ちている。)その間クリムトとも知りあい、シーレの才能を認めたクリムトが自分のモデル、ヴァリを無償でシーレに与えている。写真右:ヴァリの肖像1912年

 シーレはたくさんのモデルと同棲状態になるが結局結婚は良家の娘とすることになる。傷心のヴァリは従軍看護婦になり、戦地で病気になり亡くなる。タイトルの「死と乙女」はヴァリとシーレを描いている。モデルは一段低い階級と思われていた当時、結婚相手としては考えられなかったのだろうが、映画ではシーレが一番愛していたのはヴァリだったという視点から、シーレのエゴイスティックな面をも描いている。最後は夫婦共若くして28歳という若さでスペイン風邪で亡くなってしまう。

 芸術しか頭になく金がなくてもこだわらず、欲望の赴くままに次々と好きな女性を変えていく。何故か絵描きは貧乏でも女性にもてる。よくある定番の画家伝説だが僕には引っかかる。いくら昔の話とは言え、これだけ自分に甘えて生活できるなんて信じられない。現実の画家として僕がみると気恥ずかしくなる内容だ。おかしいよ、ほんとにこんなだったんかな、と訝るところも多かった。こんなことをしていた僕の女癖の悪い仲間もいたが、当然の如くみな数年で美術界から消えていった。

オルガの肖像画 
 この手の画家の話で僕が気になるのは食えない、食えなといいながら高いお金を払ってモデルはちゃんと使っていることだ。当時とっくに写真機はあったし、写実を否定する現代アートが始まっていた。なのにシーレをはじめクリムト、モジリアーニ、特に形なんて無視したような絵を描くピカソまで裸婦モデルを使っていた。
 ピカソの4番目の女で最初の妻となったロシア貴族の娘、オルガは「自分をモデルとして使う以上、自分と分かる写実的な絵にしてほしい」と要求し、実際にピカソはそういう絵を描いている。写真左:オルガの肖像画キュービズムの絵描きとして有名になった後のことである。
 ピカソは自分と出くわすほとんどの女に「僕のモデルになりませんか」と声をかけ口説いている。近代の絵描きがモデルを使うのは口説くための道具なのかと思ってしまう。

写真下左:ピカソが街で出会い「僕のモデルになって世界の美術の歴史を変えませんか」と言って口説いた娘(マリーテレーズ・17歳)写真下右:マリーテレーズを描いた作品。当時ピカソには正妻オルガがいて、彼女は生涯ピカソの愛人だったが子供まで生まれている。ピカソの死後、首つり自殺をしている。
マリーテレーズ 夢

 
 「山彊先生もそういって口説いたことはありませんか」。実は猛烈にこの手の口説きを使いたかった。けれど一度も使ったことはない。好きになった女性の裸なんて、手がふるってしまって描けない。では関係ができて落ち着いたら描けばいいのかとなるが、この時は今さら身体を見て描くなんて、となって興味がわかない。

 シーレに関して気になるのは彼が一般的に言うところの卑猥な絵も描いていたことだ。画家は昔から女性の裸体を描いてたが、性器まで描くのは、そんなに多くない。僕は多分彼が浮世絵春画の影響を受けたのではないかと思う。当時はジャポニズムがヨーロッパで大流行していたし、映画の中でもシーレが浮世絵を見るシーンが出てくる。

写真下左:二人の少女(恋人たち)1911年 写真下右:夢の中の女1911年 
二人の少女(恋人たち) 夢の中の女

絵を描くことが好きで、芸術のために欲望の赴くままにがむしゃらに描き、短い生涯を燃焼させたシーレが印象に残る映画だった。



クラーナハ展(国立西洋美術館)を見て

クラーナハ展(於国立西洋美術館)を見て
2016年10月15日〜2017年1月15日

上野駅のカフェテラスから
 クラーナハ(1472~1553)に興味があったので、東京の国立西洋美術館まで見に行った。上野駅を降りて公園周辺のラーメン屋やカレー店で腹を満たし美術館に向かうというのが、僕のかつての定番だったが、昨今は駅構内のラウンジでガラス越しに通り過ぎる人々を目で追いながら、コーヒーとサンドイッチで済ましている。東京で雑踏を眺めていると、若き日々とあの頃の葛藤を思い出してノスタルジックな気分になる。
写真右上:上野駅構内のカフェテラスからの風景。クリスマスツリーが飾られていた。

 国立西洋美術館は先ごろ世界遺産に登録されていて、改めて建物を見るとなかなか面白かった。これまで何とも思わなかったのが、そういえばすごいよなと思えるのだった。世の中、お墨付きをもらうことが重要かもしれない。世界遺産の価値があるというと皆が注目して、よりしっかり見るようになる。あのボブ・ディランも結局はノーベル賞を拒否しなかった。拒否したとしてもノーベル賞というお墨付きで多くの人が彼の歌詞をもう一度しっかり読み返したはずだ。

クラーナハ展パンフ
 ところで今回のクラーナハ展(写真左:パンフ)は世界10ヵ国以上から集めたクラーナハ作品が見られる日本初のクラーナハ大回顧展ということだ。僕はこれまで彼の作品を写真で数点しか見ておらず、何故たくさん見られないか気になっていた。それになんとも表現しにくい不思議な映像が頭にこびりついて、すごく興味をそそられる作品であることも気になる要因だった。
 
ヴィーナス(1532年)
 代表的な裸婦作品の「ヴィーナス(1532年)」(写真:右)など胸から腰にかけて異様に細く、ある意味で異常な作品だ。デッサンが未熟だったと言えばそれまでだが、写実的な表現を求められたルネッサンスの時代にあの作品は不思議だ。しかも彼は大きな工房を持ち、たくさんの弟子がいたからデッサン力が未熟だったとは信じられない。他の作家と違ってこういった作品を描く狙いが他にあったとも考えられる。男の性(さが)を頭にいれ、売るためにわざとあのような表現にしたのではないか。とすると日本の春画に似ているともいえる。もちろん巨大なペニスやバギナを描いた浮世絵ほど大胆で直接的ではないが、少しだけ淫靡なところがおもしろい。

写真下:正義の寓意(1537年)
正義の寓意(1537年)
 ルネッサンス時代は裸婦像が解放されていたとはいえ、神話や聖書に関するものに限られており、ポルノ本のように性欲をそそる裸を描くのではなく、自然で優美、理想的な身体を写実的に表現しているのが常であった。ルネッサンスの裸婦作品は陰毛表現がなくあの部分はパイパン状態であった。ところが写真でみるクラーナハの裸婦は陰毛があるように見えてしょうがなかった。このあたりにも僕は興味を持ちわざわざ上野まで足を運んだとも思える。目を皿のようにして、近くで確認したが黒くぼかしてあるが陰毛は確認できなかった。
 「山彊先生!そのために東京まで行ったんですか」「陰毛が描いてあるかどうかは美術の歴史にとって大きなこと。1,2本でも描いてあれば超卑猥になるし社会の通例への挑戦でもあり、それによって画家の評価がまた変わるからね。」陰毛のある実在の女性の裸婦が初めて描かれたのは(一般的に言われているのは)、ゴヤの「裸のマハ(1797年)」で当時大問題になり裁判沙汰になった。その結果100年間プラド美術館の地下にしまわれる破目になったのは有名な話だ。
 僕が思うにクラーナハは世の動きに挑戦する気はなく、男心を研究しわざとぼかして売れるような作品にしたのではないか。工房を作って大量の作品を世に送り出しているという。とするとそれらの大量の作品がもっと我々の目に入っていいはずだ。今残る作品数が少ないとするならば、卑猥で嫌らしいと人々が理解して、エロ雑誌が各家庭で早く処分されるように、歴史から追いやられてしまったのかもしれない。

 彼と同じ時代にはティツィアーノとかジョルジョーネ、同じ北欧ルネッサンスにはクラーナハが気にしていた1歳年上のデュラーもいたが全て正統派であり写実的であった。
写真下左:ティツィアーノ ウルビーノのヴィーナス(1538年) 右:ジョルジョーネ、眠れるヴィーナス(1510-1511年頃)
ティツィアーノ ウルビーノのヴィーナス(1538年)  ジョルジョーネ、眠れるヴィーナス(1510-1511年頃)
写真下:デューラー アダムとイブ(1507年)
デューラー アダムとイブ(1507年)
 クラーナハの作品は浮世絵でいうとあぶな絵(一般の美人画と春画との中間的な絵)と同じ効果を狙ったのではないか。まあ浮世絵がクラーナハの絵と大きく違うのは、浮世絵は庶民を狙い、クラーナハは金持ち相手の作品だったことだろう。

 僕は正統派の絵よりクラーナハの作品により面白さ楽しさを感じる。次の時代を作品から勝手に感じてしまう。会場を歩きながらふと、伊藤若冲を思い出した。狩野派や土佐派等から無視されていた若冲。同じく遠近法を使うルネッサンスアートからはじき出されたようなクラーナハ。このあたりも僕が確認したい課題だった。

森村泰昌
 国立美術館の展示もそれを意識してかピカソの作品を並べたり、中国、深圳の近郊にある似絵づくりの作家たち50人に同じクラーナハの作品を模写させて出したり、ご存知有名作品に自分をはめ込む森村泰昌のコラージュ作品(写真右)を展示したりして、クラーナハと関係のある現代美術の作品が展示してあるのも、その辺りを狙ってのことだろうか。

 美術館の帰りは若き日、夢を追いかけた銀座の画廊街を回ってみた。僕が50年ほど前毎年のように個展をしていた村松画廊、サトウ画廊、夢土画廊等はすでになく、知らない画廊ばかりであった。当時銀座の画廊には美術評論家やマスコミ関係者、美術雑誌記者などが頻繁に訪れており、彼らの目に留まり、新聞雑誌に取り上げてもらえればそれで一躍有名になれるという時代だった。友達がよく個展をやっていたシロタ画廊や樟画廊が現在も健在だったのがうれしかった。いま発表している作家たちは東北や北陸方面の人が多かったのにも納得した。彼らは終焉を向かえたといわれる現代美術にまだ白けていないのだ。
 
80歳の女性画家
 シロタ画廊では80歳前後の夫人(写真左)がアブストラクトの大きな作品を描いて個展をしていた。もし彼女がしわのない20代のような顔をしていたら、周りの雰囲気から僕は60年前にタイムスリップしたように感じたに相違ない。彼女はその若い日に思いをはせて個展を開いているのだろう。今では美術評論家は半ば死語となり、訪れる人もほとんどいない会場で、よく頑張っていると僕は感心した。彼女はまた公募展である自由美術協会の会員だとか。「自由美術協会なら当時の審査長の井上長三郎(美術界の当時の大御所)を知ってみえるよね」と声をかけたら、彼女の顔色がバラ色に変わって、当時の美術界のことに関する話が始まった。僕も相槌を打ちながら、若き日を思い出していた。

ニューヨークのトイレ

ニューヨークのトイレ

 今回、僕のニューヨーク個展期間中にはハロウィンパレードにも参加した。事前に調べた情報によれば、ハロウィンの仮装行列に加わってしまうとトイレに行くチャンスはないので、トイレの近い人はオムツの用意が必要とあった。僕は妻や仲間の女性5人を伴って参加した。見物客は歩道、仮装者は車道、その間は柵で仕切られ多くの警官が立っている。

仮装した人々写真右下:様々な衣装でパレードに参加する人々
 僕たち妖怪仮装者は沿道の観衆に手を振り愛嬌を振りまいて3時間ほど車の通行が遮断されている大通りを進んだ。緑色の鬘に赤い着物と草履姿で、妖怪の人形を掲げながらの行進をするわが妖怪軍団のおばさんたちは元気そのものだ。トイレが近い僕は何時小便がしたくなるかと気が気ではない。勿論オムツもしていない。だが合計して5時間ほど経てもなぜかいつもの自分と変わって全然もよおす気にならなかった。人は緊張すると小便を忘れてしまうのだろうか。

 となるとニューヨークの街中にトイレがほとんどないのはそれだけ人々が緊張して生きているからだろうか?地下鉄駅は無数にあるのにトイレのあるのは中央にあるグランドセントラルステーションぐらいだけだ。街中にトイレがあると犯罪の温床になるとの指摘もあり、それでトイレがあまりないと聞いたこともある。

 そんなこともあり僕のニューヨーク街歩きは図書館や大学を結ぶコースとなる。この場所には必ずトイレがあるからだ。ある時我慢できなくなってマクドナルドの店に入った。驚いたことにここのトイレは満員で並んで順番を待たなければならなかった。用を足してもコーヒーを飲むからまたすぐにしたくなる。ここでふと気付いた。コーヒーが1ドルなのは、これがトイレの借り料と思えば何のことはないと。けれどコーヒーの味は、この雰囲気ではまずく感じられる

トランプタワー 30年も前になるが5番街で小便がしたくなり入ったところが金ぴかのトランプタワーだった。そして驚いたのはトイレも金ぴかだったことだ。目立ちたがりの次期トランプアメリカ大統領がやったことだ。金シャチで分かるように名古屋人は金が好きと言われている。僕にもそのDNAがあって金の匂いに敏感なのだろうか。今回も玄関ホールに入ったが、大統領選の最中で警官がうようよいてそれ以上奥へ行こうとすると面倒なことになりそうだったので止めた。警察に金のトイレに行かせてくださいと言ったらどういい返すだろうか。
写真上:トランプタワーの前 車道と歩道の間に柵が置かれ警官が立っているのが見える。写真を撮影したのは10月26日、大統領の座を巡ってまだ両候補が争っている最中だったのでクリントン氏を批難するような等身大の写真が置かれていた。 

さて、ニューヨークのトイレ話のついでで僕のトイレ体験談を2、3披露したい。

モスクワ川 まずは1月に極寒のロシア、モスクワへ行った時のことだ。吐く息も凍るほどで、日本では経験したことのない寒さだった。日中でも零下5〜10度、夜は零下20度以下になった。クレムリンのすぐ裏を流れるモスクワ川はずっと凍りっぱなしだ。
写真右:表面が凍ったモスクワ川、氷が割れて少しだけ溶けているのはクレムリン宮殿からの温かい排水のためだ。

クレムリン宮殿 トイレが近い僕はクレムリン宮殿周辺を探したがトイレはなかった。地上をあきらめて地下を探すとクレムリン前のモールの地下2階、回転寿司店のある奥に有料のトイレがあった。使用料は200円ぐらいしたかな。小便の近い僕は、ここから放射状に街を歩き、小便がたまるとここに戻ってきていた。放射状に街歩きをしては戻ってくる自分の行動と、回転すしの回転を見ていると輪廻思想を思い出した。 
写真右上:クレムリン宮殿 ここを中心に僕は放射状に行ったり来たりを繰り返した。

 ところで輪廻思想といえばインドを連想する。僕はインドに何度も行ったが、40年ほど前に行った時のことはトイレと関係があるのでよく思い出す。現地の人は列車の線路わきや公園のすみで用を足していたが、驚いたことに男性が小便もかがんでしていた。ここインドは延べ3か月程もいたが、トイレに困ったことが一度もなかった。気温が高くすべて汗となって放出してしまうようだ。それにトイレを使いたくなったとしてもどこでもできるような汚い街だから、安心していて覚えていないのだ。

 ただ1回、ムンバイの東にある有名なエローラ石窟寺院に行った時のことは今でもよく思い出す。世界遺産にもなっている有名な寺院だからここでバスを降りる人も多いはず、ぎゅう詰めの状態でも絶対止まるだろうと思って油断していたら通過されてしまった。普通の観光客は、僕のように現地の人の利用するバスに乗らず、観光バスやタクシーで来るのだろう。片言の英語で大声をあげ、「エローラ、エローラ」と叫んだら降ろしてくれた。エローラのバス停車場所から1キロメートル程も過ぎてしまっていた。
 10キロ余の荷を担ぎ、炎天下を歩くのは大変だ。あまりに口が乾いたから近くにあったきれいなホテルに短パンとTシャツだけで 入った。普通はドアマンに阻止されるがホテルに近づいたら金持ちであることを示すため望遠付きのカメラを出して担ぐ。するとボーイはどんな格好をしていてもにこにこ顔で通してくれる。まあ大きなホテルだから紅茶と一緒に出された水を大丈夫と思って飲んでしまった。

エローラ寺院 30分後エローラの遺跡の前で腹がゴロゴロ鳴って下痢状態となった。観光客は誰もいなくて、近くにある木の下に駆け込んで用を足した。写真右:エローラ石窟寺院の一つ ここの木陰の下がその場所。

 だが何か人の目線を感じてふと上を見たら白い猿のハヌマンラングーンが2匹、木の上から僕をじっと見ていた。エローラの豊満な肉体の彫刻群と違って貧弱なおケツにきっと落胆したであろう。

写真下:エローラの彫刻群の一つ、ガネーシャの前で太鼓腹比べをする僕
ガネーシャと腹比べ

写真下:ハヌマンラングーン、これはタージマハールで撮った写真、ハヌマンラングーンは神の使いと言われインドのいたるところで放し飼いにされている。
 タージマハールのハヌマンラングーン
 こんなことがもし大都会ニューヨークの街中で起こったらどうするだろう。僕はこのインドの体験から常に注意しながら生きている。デレビ出演の前とかデートの前などは下痢をしやすいミルクとか冷たい飲み物は控えるようにしている。

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR