サンクトペテルブルク美術展 第3弾

サンクトペテルブルク美術展 第3弾
ロシアの食事

僕がとった朝食
 今回の美術展でサンクトペテルブルクに行く前、料理にうるさい参加者の女性から「3年前のクリミア併合以降、ロシアはフランスやイタリアから農作物の輸入をストップされているからおいしい料理なんで食べられるはずがないわ」と言われた。
写真右:僕がとった朝食の一部
 滞在の途中も、車から野菜類が降ろされるのを見つけた彼女は、即、「見て、あの野菜類、日本なら廃棄される野菜だわ。形も色も悪いし皆しなびてる」と叫んでいた。事前に日本のテレビ報道や雑誌で確認してきているとのことで説得力がある。僕には遠すぎてしっかり見えなかったが。
 「いい食材がないから、色々変わったことをして味を誤魔化している。何故スープにラッキョウが入っているの?しなびたサラダの上にマグロのフレークがのっかっているのは何故?これヨーグルトで味付?インチキだわ」。いくらでも悪口が出てくる。さすが名古屋の伝統ある女子大の出だけある。中学から食事作法の勉強が、大ホテルを使って行われたと言う。

豪華なレストラン入口
 参加した皆さんのほとんどは旅行後「料理はまあまあだったね。おいしかったわ」と言っていて引率した僕としては少し安堵した。僕自身はというと、まあ、おいしかったかな?レストランはほとんどが旧貴族の豪華な屋敷を再利用したところばかりだった。写真左:レストラン入口のホール
 だから豪華な装飾や家具、壁に掛った絵画など周りのことに気を取られ、実を言うと食事の味がどうだったのか思い出せない。口に入ったということはおいしかったということだろう。あるレストランではスパイスとして小皿に日本の醤油が出てきた。「これが一番おいしいわ」先ほどの食にうるさい彼女が言った。そう言われてみると僕も同感だった。慣れ親しんだ味はおいしい。

 僕は料理の味なんてほとんど気にしない。どこへ行ってもレストランのものならまあ食べられるに決まっている。まずかったら店は即、潰れてしまう。食通を自認する人はほんの数パーセントの味の差でおいしいとかまずいと言いあっているのだ。時間をかけていろいろスパイスや調味料を混ぜれば少し味はよくなる。僕はいろいろ混ぜることによって体によくない化学変化が起こるのではと恐れている。行列のできるラーメン屋の親父が早く亡くなるのはそこに原因があるのではないか。僕にとっては料理はシンプルなのが一番だ。

 ホテルの朝食のバイキングで積んであった青リンゴは色つやがよくとてもおいしそうだったが、食べたら水気がなく、パサパサして日本のとは全然違っていた。
次の日の昼食には焼きリンゴがデザートとして出た。

写真下左:デザートの焼きリンゴ  右:半分に切った焼きリンゴ
焼きリンゴ 半分に切った焼きリンゴ

 青くきれいな小ぶりのリンゴだった。キレイなのは一部しか焼いてなく生のリンゴの色が大半だったからである。昨日の青リンゴはまずかったが、今日の焼きリンゴはすごくおいしそうに見えた。だがまずかった。リンゴの中央をくりぬいて中に砂糖やバター、シナモン等が入っているようだがしっかり焼かれていないから半生の味だった。しっかり焼けばおいしいかもしれないが。

 味に無頓着なこんな僕でも、真にまずいと思ったことがある。インド、スリナガルでは水や洗剤が貴重だからか、食器をほとんど洗わず、自分の汗を拭いているタオルで拭いているようだった。皿を手で持ったらねばねばし、強烈な汗のにおいがした。たとえおいしい料理が出されても帳消しだ。でもここでは朝のトーストと胡麻がたくさんのったバターがおいしかったのでそれを選んでパンに塗って食べていた。4,5日泊まった後、おなかがすいたので昼に市場で買ったジャガイモを自分で茹でようと台所へ勝手に入ってみて驚いた。そこにはバターが蓋をせずにおかれており、なんとその上に無数の小型のゴキブリがうごめいていた。僕が喜んで食べたバターの胡麻はなんとゴキブリの糞だったのだ。おいしいと思って食べたトーストが気持ち悪くなった。これらは食物自体の味のまずさとは言えないが、人間の味覚なんていい加減だと思った。味は周りの状況が大きく作用する。

ボルシチ
 話をロシアに戻すと、トマト味のボルシチはまあだいたいおいしかった。これはロシア料理の代表と思っていたら、前出の彼女がウクライナ料理だと言った。
写真右:ビーツの根が入ったボルシチ
 おいしく感じたのは一緒に食べたパンのせいかもしれない。ここロシアのパンはどんな種類のパンでもとてもおいしい。主食となる小麦は一般市民が食するため、欧米は輸出を認めているのだろうか。まあパンがうまかったから料理はどうでもよかったとも言える。
写真下:おいしかったロシアのパン
朝食バイキングのパン

レストラン内部
 その後僕等はモスクワに移動したが、モスクワのレストランもかつての貴族の屋敷を利用しており室内装飾が超豪華だった。ここも室内が暗く何を食べたか定かでない。
写真右:レストランの暗い室内
「ピロシキもおいしかったでしょう」と尋ねられたがいつ食べたかも覚えていない。大金持ちの貴族の気分になれたのはよかった。トイレに入った折、便器の形がドーム型ピロシキのようなのが並んでいてその珍しさに、料理のことなどまた忘れてしまった。

写真下:丸い陶器の便器を備えたトイレ
丸い便器のトイレ

 トイレと言えばエルミタージュ美術館は広大な宮殿なのにトイレは1,2か所ぐらいしかなくそこにたどり着くのが大変だった。当時の貴族もトイレに苦労したのではないか。かのベルサイユ宮殿では貴族の女性たちはカーテンの陰で用を足したと言う。ベルサイユではそんなこともあり3年ごとに宮殿内の大掃除をしたと言う。「カーテン際でおしっこをしたら部屋中臭いのではありませんか」。この地域は空気が乾燥しているから我々が思うほどには臭くないようだ。フランス旅行中に夜洗ったジーンズを干しておいたら朝には乾いていて僕はびっくりしたことがある。

モスクワ赤の広場
 ところでモスクワ赤の広場のトイレでは大変だったと女性群が話してくれた。
写真右:モスクワ赤の広場、この写真のまさに右側にトイレがある
レーニン廟の並びにあるここのトイレにはたくさんの小個室があるが、利用者が多すぎて行列になっている。やっと入ったら便器があっても便座がない。他の個室に変わろうとしてもまた何十分も並ばねばならない。已む無く便座なしで何とか用を足したそうだ。僕に近い年齢のおばさん達は腰をかがめて戦後の農家のおばさんスタイルで、50歳以下の身の軽い人は便器に乗っかり、足の長い人はまたいだという。旅慣れている人は輪ゴムを常備していてズボンやスカートを中途で止めたりしたという。全部の個室のトイレに便座がなかったようだった。男性用トイレも同じだったが、小便に関しては男は問題がない。これが観光の目玉の赤の広場の、ただ一つのトイレだなんて信じられない。ロシアは女性が虐げられているようだ。それともロシアの女性は全員立って用を足すのだろうか。「それよりもこんな話よく女性群から聞き出したわね!」


サンクトペテルブルク美術展 第2弾

サンクトペテルブルク美術展 第2弾
サンクトペテルブルクからモスクワへ


サンクトのモスクワ駅全景
 サンクトペテルブルクからモスクワへ行くために、サンクトの街のモスクワ駅(写真右)に行った。駅は欧州のどこにでもある普通の建物で、ロシアの人口第2の都市の駅としては貧弱だった。駅前の街の賑わいも愛知県でいえば一宮か豊橋くらいだ。ここはちょっと変わっていて駅名はその土地の名前では無く、目的地の名前が駅名になっている。そのため目的地別に駅舎は別々の建物になっている。初めはまごつくが慣れればわかりやすい。

駅の構内
写真左:サンクトのモスクワ駅構内
 ここでも中国の駅と同じように入り口で厳重なボディーチェックを受けた。つい1ヵ月前サンクトペテルブルクの地下鉄で自爆テロがあり14人が亡くなったばかりだからよけい厳しいのだろう。自爆テロのあったその地下鉄の駅まではここから1キロもないのではないか。
 

 モスクワ駅のプラットホームの線路上には新しい日本の新幹線とくらべても見劣りしない列車と、落書きだらけの50年前イタリアで乗ったような列車が止まっていた。
写真下左:我々が乗った新幹線スタイルの列車   右:車体に落書きされた列車
我々が乗った新幹線スタイルの列車 車体に落書きされた列車

横を向かれてしまった車掌さん
 我々はグラマーな車掌が立つ新しい方に乗った。乗る前にその車掌との2ショットを撮ろうとしたら厳しい顔で横を向かれてしまった。(写真右)

 車内の座席は真ん中の通路を挟んで左右に2席ずつ。座って驚いた。座席はリクライニングシステムがなくまた向きを変えることもできなかった。要するに座席が固定されたまま動かないということだ。だから列車はモスクワまでずっと乗客全員が進行方向に対し背を向けて走ることになった。逆にモスクワからサンクトペテルブルク行きに乗ればずっと前向きということになる。

パソコンを打つ車内事務員
 我々の座席のすぐ前には特設コーナーが設けられ、列車の事務員らしき女性がしきりとパソコンを打っていた。(写真左)会社の受付の様なものと思えばいいか。そこにしきりに男の車掌がやってきて何か連絡を入れていたが、僕にはいい寄っていたとしか映らなかった。何となく映画を見ている気分になった。

車内のトイレ
 列車のつなぎめ前にはトイレがあってこの個室、入ったら2畳以上あった。車いすの客とその付き人が入ったとしても充分な広さだった。プーチンが乗ってトイレを使った場合、ガードマンが2,3人入るためだろうか。
写真右:広いトイレの個室

 さらに向こう側にはコーヒーショップがあって立ちながらの商談もでき、我々もそこでコーヒーを飲んだ。なぜかわからないが僕はジャンギャバンとアランドロンの気分に浸り、爽快であった。(年が分かるね、いやそれどころか「誰、それ?」なんて人の方が多くなっているかも。つい先日ドロンは俳優を引退するとニュースで読んだところだ) 勿論僕がドロンでギャバンは腹の出た仲間の大須に住む酒好きの馬場さんだ。その隣にはスタイルのいいナタリー・ドロン似の版画家の杉藤さん。今思うと何故007のジェームズ・ボンドでなかったか不思議だ。「ロシアより愛をこめて」など大好きだったのに。「それ分ります。ロシアの暗い荒涼とした景色の中を走る列車には、まさにフランスのフィルムノワールの雰囲気が漂うし、その代表スターともいえるギャバンやドロンの方がボンドよりはるかにしっくりきますから」

車窓風景
 車窓の風景は雑木林が中心でそれと広い農地があったりした。また時折通り過ぎる小さな村には壊れかけの家々が立ち、絵本で見た中世の雰囲気に似ていたため、このあたりにはロシア経済の恩恵が行き渡っていないのだろうかと思わされた。ロシアに来るまでは、車窓から見えるロシアの大地の風景をいろいろ想像し憧れてもいたが、現実に眺めていると何もないという感じだった。
写真上:車窓風景、蒼空と雲がブリューゲルの絵を思い起こさせた
これまで訪れたドイツやスウェーデンなどの車窓風景より劣る気がした。5月の中頃だというのに雪が時折残っていたことが印象に残ったくらいだ。

線路に捨てられた煙草の吸殻
 この列車は車内では禁煙なので、途中の田舎駅で喫煙休憩のため臨時停車する。愛煙家の多くが急いでホームに降りて煙草をふかし始めた。僕はタバコを吸わないが気晴らしにホームに降りてみた。灰皿がどこにもないなと思ってふと線路上を見ると喫煙者が投げ捨てた吸い殻が雪のように積もっていた。
写真右:列車とプラットホームの間に捨てられ、線路に積もる煙草の吸殻
ロシア人は男女とも喫煙者が多いという印象を受けた。

 空は晴れてブリユーゲルが描くような雲が澄んだ青空に浮かんでいた。これがほんとの雲であろう。1か月前に行ったソウルや北京ではいつも空がかすんでいて、天気予報は曇りと伝えるが全体が薄暗く、曇りという割には雲らしい形のものは見られなかった。あれはPM2.5などで空気が汚染されているのであろう。以前北京のガイドに「これはスモッグだよ」と言ったら、顔色を変えて「雲です」と反発を食らってしまった。空気汚染で薄暗いと言わずに曇りだと言うように指導されているようだった。

 僕は外国を数多く訪れたが、ほとんどが一人旅であった。近頃は皆さんを連れての旅が多い。年を経ると自分だけの楽しみより周囲の人にも喜んでほしいのだ。スペイン、ドイツ、メキシコやニューヨーク、そして今回のロシアでの美術展は皆と一緒の旅だ。「山彊先生の画歴がないと展覧会の許可が下りないでしょうね」。なんて言われるたびに喜んでいる。外国では日本独特の公募展の団体の経歴や肩書などは全く評価されない。世界レベルの展覧会への作品発表をしていてよかったと最近になってその効果を実感している。

 だがまあ、皆さんを連れて行くのはいいが、独り旅のように行きたい道を行きたい時に自由気ままに歩くことができない。だから文章にしたりした場合、臨場感がわかないのは残念だ。一人旅だと危険な場面に遭遇するのはしょっちゅうだが、その緊張感がまたたまらない。危機一髪の事件が次々と起こって書くことがいっぱいになる。

 例えば10年程前のモスクワのローカルな飛行場での話だが、座っている僕に中年の男が「どこへ行くのですか」と話しかけてきた。それに答えると「その乗り場はここではありません。向こうです。荷物を持ってあげるから移動しましょう」ときた。これは典型的な詐欺の手。荷物を持たせたらどこかへ消えてしまう。僕は世界の危険な地域へ何回も行っているので、危険を察知する動物的感が働き、これは怪しいと無視をした。

 またグルジアへの旅行では、滞在ビザは日本では取れないので、グルジアへ入った後に取るように言われていた。そこでロシア経由で隣国のグルジアへ入り、グルジアの空港でビザを取ったが、なんと1週間の期限付きだった。僕は12日間の滞在予定だったのだ。空港で必死に交渉するも、「だめだ、街に出て発行してくれる機関を探せ」と言われた。グルジアには日本の大使館はなく、グルジア語は全くわからない。滞在中一人の日本人にも出くわさず、どうしようと真っ青になった。その後偶然レストランで片言の日本語で声をかけてきた子連れの男性と知り合いになり、彼に助けてもらって九死に一生を得た。

 逆況の中でどう対処していくか、これがいつも僕の旅行中の課題だ。これを乗り切って日本へ帰った後には心地よい達成感に満たされる。これがあるから一人旅はやめられない。

サンクトペテルプルクでの僕等の展覧会

サンクトペテルプルクでの僕等の展覧会

 我々のグループは世界各国で美術展を開催している。最近では一昨年にニューヨークでグループ展、昨年はニューヨークで僕だけの個展をした。現代美術の最先端を行くと言われているニューヨークで美術展をやった後は、さて次はどこでやろうかと考え込んでしまった。考えているうちにロシアのサンクトペテルブルクはどうだろうと思い至った。帝政ロシア時代の首都であの有名なエルミタージュ美術館もある旧都だ。
 ロシアは長いこと社会主義であったため古典的写実アートがその主流であった。だが1980年代のペレストロイカの改革解放以降、現代美術がどのような変革を遂げたか気になったし、ロシアにおける京都のような街がそんな中でどのような変貌を遂げたかを知りたかった。

会場となる部屋での展示準備 
 僕は若い頃から様々な美術コンクールに挑戦してきたが、その中でも京都とは相性がいい気がする。京都と言えば日本文化が凝縮されたような街で、現代美術より伝統的なものが選ばれる気がするが、伝統的なものが当たり前にありすぎるからか、逆に最新の現代美術を取り込もうとする気風に満ち溢れている。長きにわたって培われた文化の洗練度が高いから優れたものがわかる鑑識眼もある。サンクトペテルブルクは芸術面で京都に似ているだろうか。そんな気持ちからここを今回の美術展会場に選んだ。
写真右上:サンクトペテルブルグにあるロシア芸術アカデミー美術館2階の我々の美術展会場で展示準備をするメンバー

僕等の展覧会場入口
 またそこで展示する僕らの作品がその街でどう映るか、古いのか新しいのかも知りたかった。僕らの展示会場は街のど真ん中にあり、対岸にエルミタージュ美術館が望めるロシア芸術アカデミー美術館だ。ここは歴史も古く威厳のある建物で非常に広く、敷地内には芸術大学や博物館もある。この中で展示できることはすごく光栄だった。
写真右:我々の美術展会場の入口

美術教授たちの作品展の部屋
 美術館の2階、エカテリーナの間が我々の展示室だが、隣の部屋にはこの街の美術大学の教授たちの作品が50~60点ほど展示されていた。
写真左:美術教授たちの作品が展示された部屋
それぞれうまくまとまってはいるけれど、1900年前後の画風で、かつてどこかの美術館や画集で見た様な作品ばかりだった。アメリカのポップアートやアクションペインティング風の作品(これすら半世紀前の美術だが)にすら出くわさなかった。無論反米感情が強かった当時にはアメリカの美術なんて受け入れたくなかったこともあろう。60年代頃名古屋大学で教鞭をとっていた美術評論家の針生一郎さんが美術の遅れた名古屋を嘆いていたことを思い出す。   

 さて取材に来たロシア人記者はしきりに我々の作品を褒めてくれた。作品のレベルが非常に高く斬新で独創的だ。どの作品もこれまで目にしたことがなったアイデアで描かれている。短期間しか展示されないのが非常に残念だとのことだった。掲載した新聞を送ってくれればうれしいのだが。
 我々のメンバーは名古屋地区中心に活躍しているが、外国や国内のコンクールで受賞や入選を繰り返している者たちだから世界的な目と力量がある。だから隣の部屋に並ぶ美術教授たちの古典的作品群にも僕らの作品は負けていなかった。

 オープニングは日本総領事や日露友好協会のトップ、そしてこの美術館の副館長も来て賑やかに行われた。
写真下左:あいさつをする日本総領事   右:挨拶をする僕
日本総領事のあいさつ  僕のあいさつ
オープニングのセレモニーでは、昨年のニューヨークのハロウィンと同じ赤い着物を着て大宰府妖怪踊りが披露され、その後名古屋の現代舞踊家のこかチちかこさんや夜久さんが踊って会を盛り上げてくれた。
写真下左:大宰府妖怪踊りを練習するメンバー  右:バックのスクリーン投影効果を生かしたこかチさんのダンス
オープニングでの妖怪踊りの準備 こかチさんのダンス
写真下:セレモニーの後記念撮影をするダンサー兼画家達踊りを披露したメンバー達

街行く人にビラを配るおばさん画家達
 セレモニーの後、赤い着物を着た10人程の女性画家たちはその格好で街に繰り出し、我々の展覧会パンフを人々に渡していた。ここでもニューヨーク同様人々の注目を大いに集めていた。
写真右:通行人に展覧会のパンフを配る女性達

 話は飛ぶが、僕は名古屋を面白くするために名古屋版ハロウィンを考えている。昨年のニューヨークハロウィン参加以降これを名古屋でもやれないかなと考えていたのだ。今回サンクトペテルブルクでも張り切っている彼女たちの姿を見てその思いがよみがえってきた。僕の考えでは、それぞれ変装した人達が大須観音を出発点にして商店街を歩き、栄で解散する。その先頭を10人の画家おばさんを歩かせる。妖怪と大須はうまくマッチするのでその出発点にバッチリだ。これは面白くなる。大須で画家としても活躍する刺繍業の馬場さんは子供会のリーダーをやっていて、大須の人も乗りやすいのではないか。彼はテレビに出たりして最近大須での人気も高い。本当は大須ういろうぐらいが中心となって引っ張ってくれるとより盛り上がると思うが。昔はこのような役を大須ういろう社長の山田昇平さんが率先してやっていた。

エルミタージュ美術館玄関
 展覧会の最中、対岸にあるエルミタージュ美術館も訪問した。写真左と右下:観光客で賑わうエルミタージュ美術館
エカテリーナ2世がドイツから作品を買い集めてこの宮殿にコレクションとして飾ったのが始まりだが、彼女の死後美術館となった。レーニン革命後は各貴族から没収した作品が収蔵されたというから、その作品の種類も豊富で310万点の所蔵作品があると言う。中でもイタリアルネサンスのダビンチやラファエロ、カラヴアッジオ、オランダを代表する画家レンブランドなど各国を代表する超有名作品が所狭しと並び、ロマノフ王朝女帝の強大な財力と美術鑑識眼に驚かされる。

エルミタージュ美術館内の豪華な部屋
 ここはまるで別世界だった。パリのベルサイユ宮殿も豪華ですごいが、ここはもう入り口から度肝を抜かれる豪華絢爛たる建物で、一部の隙間もなく金箔の装飾で埋め尽くされているという感じだ。そこの壁や廊下に美術作品が飾られていても、その迫力に負けて人々の印象に残らない。印象に残るのは特に有名で我々がよく知っている作品を目にした場合だ。

 これは絵画作品の大半を占める肖像画を絵の中だけで見た場合も同じことが言える。高価な衣類、豪華な調度品の中に描かれた人物は、これらの衣類、調度品の中に埋没してしまって本人の印象が薄くなるのだ。展示されているエカテリーナ2世の肖像画がそれをよく物語っていた。体中に付けた宝石類、刺繍や絹のドレスに白い毛皮のコートの彼女を後からどんな顔だったか想像しようとしてもぼんやりとした印象しかなかった。
 7月には名古屋にエルミタージュ美術館展がやって来るが、シンプルな美術館の壁を背景に見るとこれらの作品はどう映るのだろうか。

僕等のロシア美術展 まもなく開催

僕等のロシア美術展 まもなく開催

場所:ロシア、サンクトペテルブルグ ロシア芸術アカデミー博物館、エカテリーナの間にて
期間:2017年5月12日〜14日(サンクトペテルブルク・日本の春フェスティバル公式参加)
協力:サンクトペテルブルク日本国総領事館

ロシア芸術アカデミー博物館
 サンクトペテルブルグのロシア芸術アカデミー博物館を会場にした僕らの美術展が今週から始まる。展覧会の会期は日本国総領事館の春フェスティバルに合わせたものだ。
写真右:ロシア芸術アカデミー博物館 250年の歴史を誇る博物館とのこと 我々の展示会場となるのは本館2階「エカテリーナの間」

 サンクトペテルブルグはピョートル大帝の命によって建設された人口の都市で1914年まで帝政ロシアの首都であった。人口が100万人を越え、北のベニスとも称せられる都市で40程の島々で出来あがっている。フランスのナポレオン軍による進撃の折に、街は焼かれたけれど占領されることはなかったので、英雄都市と呼ばれている。僕らが展覧会をする所はネヴァ川をはさんでエルミタージュ美術館の対岸にあるところだ。エルミタージュ美術館はエカテリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室がその起源だが、我々の展示室の名前「エカテリーナの間」が彼女と関係があるかどうかはよくわからない。
写真下左:エルミタージュ美術館内部  右:エカテリーナ2世
エルミタージュ美術館内 エカテリーナ2世

ロシア美術展ポスター
 僕等の美術展のポスター(写真右)は僕がデザインしたものだ。これは僕のニューヨークの妖怪展の作品を少し変えたもので、蝙蝠妖怪の帽子の部分が赤中心のサンクトペテルブルグの市のマークに変わっている。ご存知北斎の「神奈川沖浪裏」をベースにしたものだが、世界中で知られている北斎の作品を使うことによって、日本への親しみを感じてもらえるのではないか、また北斎をきっかけに話がはずめば、日露友好にもつながるのではないかと思っている。北斎の波と40程の島からなるサンクトペテルブルグの街とはそれぞれ水つながりで相性がいい。このポスターで日本とこの街の融和が図れたらとも考えて制作した。
 ところでポスターに記載されている出品者全員の名がロシア語のため全然分らないのは残念だが、自分の名前がロシア語になるなんて、まあほとんどあるはずがないから面白いのではないかと思う。日本人の海外旅行先としてはロシアに行く人は比較的少なく、そこで美術作品を展示する人はほとんど皆無に近いのではないだろうか。人があまりやっていないことに挑戦するのは楽しい。

 展覧会のオープニングではモダンダンスのこかチちかこさんたちがダンスのパフォーマンスをする。昨年、ニューヨークのハロウィーンパレードに真っ赤な着物の衣装で参加した女性陣と僕たちは、また九州・大宰府の巫女さんの娘である倉掛さんを中心に赤い着物を着て巫女の踊りをすることになる。僕は作務衣をはおり妖怪人形を竹竿にさして先導することになるはずだ。サンクトペテルブルグに初めての日本の妖怪の出現となる。

巫女の踊り 神の踊り
写真上:大宰府の巫女の踊り(左)と神様の踊り(左)をアレンジしたもの 台湾にて
ニューヨークのハロウイーンでの踊り
写真上:ニューヨークのハロウイーンでのパフォーマンス

 「山彊先生とその生徒さんは皆元気があって若々しい。何故ですか」とよく言われる。僕も皆さんも老後を、いや人生を納得して過ごすには常に新しいこと、面白いことをすべきだと思っている。そのためには刺激ある目標、希望をもつことだ。だから僕は今後の予定を次々と打ち立てている。
 我々のメンバーは誰も人生から、そしてその目標から逃げようとはしていない。何があっても前向きに進んでいる。絵を制作したりパフォーマンスやダンスをしたりするけれど決して時間つぶしでやっているのではない。暇で時間を持て余すから海外旅行とか、絵を描く、ダンスをするのではなく目的をもってやっているのだ。これらの行為で常に「人生とは、生きるとはどうゆうことか?」を探り続けているつもりだ。


「山田彊一ソウル個展」の準備で韓国へ

「山田彊一ソウル個展」の準備で韓国へ

ロッテタワー下の散歩道
 今年の10月にソウルで僕の個展をすることになっており、その打ち合わせのためつい先日韓国を訪れた。名古屋の桜はほとんど終わっていたが、ソウルの桜も散りかかっっていた。個展会場となる画廊のすぐ近くにあるロッテタワーの前の巨大な池の周りは、桜が昨夜の雨で散ってしまっていた。
写真右:桜が散ってしまったロッテタワー周辺の散歩道

 ギャラリーのオーナーが言うところによると、昨日雨が降るまでは大変な花見客で歩くのも大変だったそうだ。「日本の花見習慣が伝わったのですか」と僕は尋ねてみた。「とんでもありません。日本のまねではありません。桜のルーツは韓国ですよ」と言われてしまった。以前は日本に対する反感から、日本を連想させる桜や桜見物を嫌っていたと聞くが、昨今の韓国民は桜が韓国から日本に渡ったことを言い分けとして、堂々と花見に興じる様になったようだ。まあ日本のように桜の下での酒盛りはないようだが。

 先日ある会合で日本文化に詳しい安田文吉さんに会ってそのことを話したら「それは間違いだよ。桜は日本の固有種で、だからこそ長い歴史の中、歌や詩、絵画にも登場しているのだよ。韓国にはその歴史はない筈だ」と言われた。しかし気になって調べてみると植物種としてのサクラの起源はネパールでそれが中国→台湾→日本、あるいは中国→韓国→日本と伝わり、確かに韓国の方が日本より先なのだ。ただ日本のような桜をめでる古来からの風習は日本特有のもののようだ。日本も韓国もたくさんの人が出掛ける桜見物の桜はほとんどがソメイヨシノでこれは日本で交配され作られたものだ。

南山ソウルタワーからの桜 
韓国人にとっても桜は美しいから観賞の対象になるのは全く自然なことだが、戦争で生まれた日本への憎悪が日本人の好む桜観賞をよしとしなかったのだろう。なんでも韓国の各種の自治体や営利団体が観光客を誘致しようとして≪桜韓国起源説≫を言い出したのだという。

 さてその後、ロッテタワーを右手に確認しながら次に地下鉄で、桜並木が残る丘の上にある南山のロープウエイに向かった。ここは丘の上だけあって桜がまだ残っていた。
写真左:南山の頂上から見るソウルタワーと桜

 頂上に着いてまず驚かされたことがあった。公園の柵一面に南京錠が無数にかかっているのだった。合わせて数十万個はあるのではなかろうか。近くに錠を売る店屋もあり1個700円位で販売されていた。まるで桜ならぬ南京錠の満開であった。「山彊先生、それは桜のようにきれいでしたか」。とんでもない。異様な生命体が異常に繁殖したかのようで、気分を害する景観になっている。
モンスターのような錠の塊 写真右:モンスターのような南京錠の塊

 次に僕が思ったのは、いくらの無駄金が南京錠となって吊るされているかということだ。10万個と少なく見積もっても10万×700=7千万円となる。永遠の愛のシンボルとして南京錠を吊るすのは日本(例えば近くでは愛知県の知多半島にある野間の灯台)や外国でもよく見るが、ここほどびっしりと密集しておらず、まあほほえましいなと許容できる範囲だが、ここでは南京錠が巨大なゴミモンスターとなって迫ってくるようだった。

写真下右:南京錠を売る店  
左:愛知県知多半島のある野間の灯台に掛けられた錠

南京錠を売る店 野間の灯台と鍵

 さらに気になったのは、錠はフェンスに掛けるとしても、それについている鍵の処理だ。恋人たちは永遠に別れることがないよう南京錠にしっかり鍵をかけ、その鍵を山の上から投げ捨ててしまうようなのだ。鍵も数百個ならまだいいが数万、数十万となると地面を覆って草木も生えなくなってくる。そのため公園の隅に鍵の回収箱が設置されるようになった。けれどここに捨てるカップルは少ないらしい。
 「韓国人男性は性欲が強いので、女性に気にいられる努力を人一倍する」と言われている。そのために、こんなおまじないのようなことを彼女とするのだろうか。
 だが調べてみると、このような恋の錠かけスポットは世界中にあると言う。先年メキシコにいった折にも教会の中にあったことを思い出した。このようなスポットの人気ベスト5も選ばれているという。以下紹介すると①パリのセーヌ川に架かるポンデザール橋、②ローマのテヴェレ川に架かるミルヴィオ橋、③グアムの恋人岬、④上記したソウルの南山公園、⑤日本の札幌にある藻岩山だとか。こういうデータはひょっとして日本人が調べたかもしれない。日本の男も女に弱くなったし、統計好きだから。ついでにどこがルーツか調べてほしいものだ。

歴史資料館
 さて先ほどの桜の話と関連するが、韓国人の日本に対する憎悪を調べたくなって、西大門近くにあり刑務所が歴史資料館になっている博物館を訪れてみた。
写真右:歴史資料館を訪れた小学生
展示場の壁には日本からの独立運動に加わった韓国の英雄、約5000人の映像が壁紙に刷り込んであった。また日本軍が行ったという拷問部屋も展示してありすごい数の小学生がバスで訪れていた。幼いころから徹底的に反日本教育が行われているわけだ。
写真下左:独立運動家達の写真の壁紙  右:拷問部屋の様子のジオラマ
独立運動家達の写真 拷問部屋
 太平洋戦争が終わった時、僕は小学校1年生であった。その頃の大人のほとんどが朝鮮人を軽視している現場をいつも見ていた僕としては、このようにされてもしょうがないという気もする。たくさんいる小学生が髭を生やしたいかにも日本人と思える僕を見ても、何の敵意も表情にだしていなかったことには安心させられた。

ラスプーチン 10月の2週間に及ぶソウル個展の僕のテーマは「妖怪・イン・ソウル」だ。反日感情が根強い中、ひとつ間違うと大変なことになると今からひやひやしている。この5月中旬には、仲間の皆さんを連れてロシアのサンクトペテルブルクで美術展を開く。僕の作品は「妖怪・イン・ロシア」だ。有名な怪僧ラスプーチン(写真右)を妖怪にした作品創りをしているが、プーチン大統領と名前が似ているから大統領を侮辱したと思われてシベリア送りになったらどうしようなんて思っている。



カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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