円頓寺界隈の近未来

円頓寺界隈の近未来

浅間神社
 先日、朝日風景画教室の生徒さんたちと絵になる場所を探して、四間道から円頓寺界隈を歩いてみた。四間道町並み保存地区の一角にある1647年遷座と言われている小さな浅間神社から土蔵の喫茶店、懐かしい風情を醸し出している県指定の重文になっている川伊藤家等を歩いてみた。

写真右:浅間神社 この写真では分からないかもしれないが細長い長方形のとても小さな神社だ
写真下左:土蔵を利用して作った喫茶店 
写真下右:石垣の塀が立派な川伊藤家

土蔵の喫茶店 川伊藤家

僕も何回かこの四間道界隈には来たことがある。外国人を連れてきたこともあった。屋根神様を見せると大いに喜ばれた。
写真下:屋根に祭られた屋根神様
屋根神様

 お昼になり仲間21人で食事に入ったうどん屋さんでは、先客のおばあさんが真っ黒に見えるお汁がかかった昔懐かしいきしめんを食べていた。幼いころの味が即、脳裏に浮かんだ。小学生の頃、風邪を引いて僕が寝込み食欲がないと、お袋はうどん屋に走り、消化にいいと言われるきしめんを買ってきてくれたものだ。真っ黒に近い醤油の色だが、飲むとそれほどでもなく、かつお味が効いていて、ほうれん草とかまぼこが乗ったきしめんは絶品だった。熱のある体にこの味はよくあっていた。そんな訳ですぐに同じものを注文した。僕の隣に座り、アメリカに幾年も滞在経験のある50代の生徒の女性は、ほぼこのお汁を飲むことはなかった。昔の日本を知らなかったらまるで醤油をそのまま飲むように感じる色だからだ。

円頓寺商店街 
写真右:円頓寺商店街の中のお店
 昼食後も引き続き、風景画作品にすると良いと思われる景色の写真を撮りながら円頓寺通をふらふら歩いていた時、突然僕の頭の中に何かが閃いた。ここは数年すると面白い町になり何かが起きるぞという予感がし、この町の未来予想図が僕の脳裏に写真でも見ているように浮かんで来たのだ。通りにはアジア系の外国人が行き交い雑踏の中から彼らの話す外国語が聞こえてくる。行きかう人々は外国人がほとんどで日本人は商店の人達だけくらいだ。

円頓寺銀座 
 だが現実の円頓寺商店街には、現在外国人はそんなに多くは歩いていない。しかし最近さびれた商店街の再活性化を図る試みがなされ、いろいろニュースでも取り上げられている。空き店舗を利用した数軒の外国人バックパッカー向けの民泊が目につくのもその試みの一つだろう。もし僕が外国人のバックパッカーで名古屋へ来たとしたら、滞在地としてここを一番に選ぶだろう。寺が多く昔の雰囲気を残したさびれた商店街が安心感と郷愁を与える。行き交う地元住民はこの町の発展を望んでいるような顔つきで、それがまたアジア系外国人にある種の親しみと安堵感を与え、彼らに排除感を与えないように思われる。
写真上:円頓寺銀座と名付けられた狭い路地 ベトナム料理の店があった

 「山彊先生、その昔、バックパッカーだったと聞いたことがありましたが、本当ですか」。
いやその昔どころか70歳近くまでそうだった。去年のニューヨーク個展の時もYMCAに泊まったから、バックパッカーのようなものだ。妻と行ったのでツィンの部屋を頼んだらぼろい2段ベッドだった。特に若い頃は、アルミの竿2本と下に寝袋のついたリュックを背負って世界中を彷徨っていた。宿代が120円のインドのトリバンドラム、ふと後ろを見たら煉瓦で僕を殴ろうとしていた男がいたケニヤのナイロビ、真夜中の12時頃、スパイの疑いでもう少しで軍人に捕まりそうになったグルジアのトビリシ、軍隊に捕まり、尋問されたエクアドル、6人部屋で僕を除いて5人が黒人だったタヒチのドミトリー宿などバックパッカーとして思い出すことはいくらでもある。その思考で今、僕は円頓寺を見ているのだ。

赤色が生える神社
 「でもその思考で見て、なぜここにたくさんのアジア系バックパッカーが集まると思ったのですか」。
アジアの国々から見ると、日本は陰りはあるもののまだ憧れの国だ。彼らの国の生活水準が向上するにつれてたくさんの人が海外に旅行するようになった。だから日本にますます多くの旅行者がやって来るだろう。現在の旅行者は名古屋を無視しているが、いずれ2度3度目の来日になると、間違いなく名古屋の地が気になるはずだ。金持で日本の超豪華ホテルに泊まりたい人は別だが、その名古屋の駅近辺に安い宿があり、元繁華街で昔の町の面影を起こすとあれば興味をそそる筈だ。アジア人にとっては日本の古い街は郷愁を覚えるものだろう。現在名古屋で外国人が多く行く街としては大須があるが、あそこは観光客用にかなり作り替えられ、古いものも残しているが、外国人が店を出していたり、古着屋があったり、雑多で元気いっぱいの感じがあり、円頓寺のようなちょっと裏さびれた寂しさを伴う郷愁感がない。円頓寺はアジアの下町を感じる町となって賑わうようになると思う。今はネットの時代、すぐに情報が飛び交う。その結果円頓寺に人が集まり、僕の未来予想図が当たることになればいいなと思う。
写真右上:赤色が生える郷愁を誘う神社

 ところで自分でいうのもなんだが、僕の思いはよく当たる。これが今回、この文を書いてみたくなった理由でもある。僕のこのようなひらめきは、いつも夜明けの浅い夢から生まれる。昼間の思考に登場しなかったことを浅い夢は探り出してくれるようだ。これは助かる。でも癌でなくなった友人の社長に言わせると、この時間帯は恐怖の時だという。目が冴え、自分の今後、また息子に会社を譲ったがうまくいくか等が心配で死にたくなるのだと言う。この眠れない時間帯が彼を癌に誘導したのかもしれない。日本の自殺の時間統計で行くと、この夜明けに自分で死を選ぶものが多いらしい。僕は有難いことにそれは無い。今回の予想は明け方の夢ではなく昼間だったが、円頓寺の不思議な空間が僕にこのような白昼夢を見させてくれたのだろう。


※僕の教室の生徒さんたちの風景画展が来る3月14日(火)~3月19日(日)まで栄の市民ギャラリーで催されます。風景画作品としての出来栄えレベルは日本でも一流に入ると思うのでぜひ見にいらしてください。風景画はただきれいな景色を写真のように器用に描くものと思っている人が多いように思いますが、そのような絵は誰の絵も同じようなものになり、物まねのようになります。絵画は個性であり、その個性から生まれる創作であるということが我々の作品を見ることによって分かっていただけると思います。


魚が閉じ込められた氷上を滑る 北九州スケートリンク事件

魚が閉じ込められた氷上を滑る 
北九州スケートリンク事件

魚の氷漬けリンク
 最近、5000匹の魚を氷の中に入れた北九州市のスケートリンクの企画が一部の人々の反対にあって中止になるという出来事があった。
写真右:氷の中に魚を入れてリンクを作る作業中の写真
「子供たちへの教育上、残酷で悪い影響を与える」というのがその理由らしい。確かに魚を氷に閉じ込めるというと、人間などを生き埋めにするようなイメージがあり、残酷だという発想につながったのかもしれない。また「生き物の上を滑るのはそのものに対する軽視にならないか」という意味合いもあったようだ。実際はもちろん魚市場で廃棄処分される寸前の魚を使ったとのことで、子供たちに水族館の気分をスケートリンクでも味わってもらいたいというサービス精神からでた行為だろう。

魚氷
 僕としては、氷に魚を閉じ込めその上を滑る行為を知った当初、「アート的で面白い」「このアイデアはアート界のオリンピックと言われるベニスビエンナーレ展のような世界の美術展にも使える」と思ったものだ。
 皆さんお馴染みの「さっぽろ雪まつり」では氷の壁を作りその中に蟹や海老、鯛等の魚を入れて水族館のように展示している。
写真左:さっぽろ雪まつりで人気の魚氷
これがすすきの会場の目玉でもあり、もう33回も続いている。こちらは見るだけで滑らないからいいのだろうか。
 
活け造り
 動物愛護団体等の言う「残酷だ」というのは何をもって言うのだろう。生きている牛を興奮させ、殺していく闘牛は残酷だろう。では料理屋へ行って食べる海老や鯛等の活け造り(写真右)はどうだろう。まだ完全には死んでおらず、ぴくぴく動いている魚を鮮度抜群だと言って食べるのは?彼らは活け魚料理を食べることには反対しないのだろうか。

 中学校の理科の授業では蛙や鮒の解剖実験がある。(近年では都市化が進み子供たちで蛙等確保するのが難しいことや親たちの反対、先生自身の裁量等でやっていない学校が多いようだ)麻酔で蛙を半殺しにし、腹を切って内臓の位置や赤い血管やぴくぴく動く心臓や肺を観察するものだ。これも完全廃止にすべきだろうか。ある学校では子供たちが捕まえた蛙に愛情が湧き、解剖の前には全員が手を合わせ、解剖後は泣いたと聞く。命の授業が行われたのだ。

 魚は食料でもあり、生物として鑑賞の対象にもなる。水族館では生きた魚類が、美術館でも魚類は絵の題材として描かれている。氷の中に魚がいれば、滑りながら理科の観察や美術鑑賞ができる。スーパーで購入した食べる部分だけ切り取った魚しか知らない子供たちにとって驚きの発見があり、自然を知る勉強になるのではないだろうか。

 ともあれ北九州のスケート場は批判を受けてこの企画を中止した。「こうなってしまった場合、山彊先生が担当者だったら、どうしますか」。僕なら転んでもただでは起きない精神で次の手を考えるね。「魚を撤去します。ほしい方は氷を割って自由に持っていってください。魚は凍らせてあるから火を入れれば食べてもイイですよ」と呼びかけるね。子供たちの大人気になって、スケートリンクのPRにもなる。それに一部は切り取って魚の入った壁としてスケートリンクの目玉とするね。まさに氷の水族館だ。えさ代もいらないし、水替えもしなくていい。これは札幌の雪まつりと同じ発想だ。人々の考え方は千差万別だから賛否両論が出るのは当然のこととして企画者は対処すべきなんだろう。

 ところで2年前、愛知県美術館に出されたペニスの見える有名写真家の作品に卑猥だと文句を言った観客がいて、県警は撤去を命じた。その作家は反発してその部分にカーテンをかぶせて出品をつづけた。その1年後、大阪の美術館でも同じような作品が展示された。こちらは有名な画家森村泰昌のペニスの映った写真だ。けれど大阪市民は誰もいちゃもんをつけなかった。

写真下左:愛知県美術館の男性裸体写真に関する記事  
写真下右:森村泰昌本人の裸体写真作品

裸写真作品の記事 森村自身の裸像写真

 裏話だが愛知県美術館では、このことが新聞に報じられたおかげで入場者が増えたと言って関係者は大喜びであったとか。この事件に関するするもう一つの裏話は、この作品の撤去を命じた警察署の所長は僕のかつての教え子だったことだ。もしこの事件が話題となって入場者が増えることを先読みして彼が命令を出していたとしたら、僕の美術教育もまんざらではないかもしれない。何はともあれ名古屋は大阪と違って新しいことに挑戦しようという気運が少ない。

 だいぶ以前の話になるが東京の週刊ポストから僕に取材があった。「名古屋地区は何故観覧車ばかり作るのか。刈谷にも名古屋港にも、また栄のど真ん中にも・・。」僕は次のように回答した。「名古屋人は気が小さい。余分なことをせず、じっとしていれば首にならなくていい。観覧車設置は誰でもが考えつくことでコストもあまりかからない、だから万一失敗しても、叱られることはあまりない。変わったこと、大きな企画をして失敗したら首になる。だったら変わったこと新しいことをしないことだ」
 
写真下左:僕のコメントが載った週刊ポスト  
写真下右:名古屋地区の観覧車の写真と下に書かれた僕のコメント

僕のコメントが載った週刊ポスト 観覧車と僕のコメント

 そして名古屋はだんだん魅力をなくし、今では日本で一番行きたくない街となった。魚の氷漬けスケートリンクの話からこんなことを僕は連想していた。



ゴッホ、ゴーギャンの真実

ゴッホ、ゴーギャンを裏から見る

ゴッホとゴーギャン展
 現在名古屋市ではゴッホとゴーギャン展が開催されている。二人の友情に焦点を当てた様なキャッチコピーが目につくが真実はどうだったのか。30年以上にわたって調べた資料の中から二人に関する面白い裏話などをまとめてみた。講義のために作ったものなので箇条書きだが、ブログでもちょっと紹介させていただきたい。

<ゴッホ>
・1869年、16歳のゴッホは親類の紹介でパリの美術商グーピル商会のハーグ支店に就職する。その後ロンドン支店に。この折、弟テオに出した手紙―—「テオよ、この店はハーグより面白くないが、ここにいるのは僕にはいいことだ。そのうちに絵画の販売がさらに重要になって、接客がうまくなれば、僕も少しは役に立つようになってくるだろう。近頃店にはたくさんの油絵や素描があり、売る方もたくさんさばいたがまだ十分でない。絵はもっとたくさん永久的に売れる様にならなければだめだ。イギリスではまだ大いにやるべきことがある。」

写真下左:牧師をしていたゴッホの父  右:父が牧師を務めた司祭舘、これに付随する家でゴッホは生まれた
ゴッホの父 父の牧師館

・ゴッホはこのグーピル商会を1876年首になるが、その後グービル商会のオーナーに200〜300通の手紙を出している。内容は自分の絵を買ってほしいといった類のものだが、グーピル商会オーナーの息子のその後の証言では、親はほとんど読まずにストーブで燃やしてしまったとのことだ。オーナーの娘が亡くなった折にはお悔やみの文とあの『跳ね橋』の作品をお悔やみで送っていた。

テオ・1880年ブリュッセルにいたゴッホからテオへの手紙――「テオよ。父から今後は当分1か月60フランまで送ると言ってきた。ここの生活費はそれより少しかさむが仕方がない。絵の材料費や解剖学の研究で相当費用がかかる。これ以外に成功する見込みはない。いろんな衣装を調えていこう。その衣装をつけたモデルを描くのが楽しみだ。これが成功への唯一の道なのだ。」
写真右:弟テオ
・1885年11月、テオに出した手紙――「テオよ、僕はここでたくさんの写真を見た。写真屋にはその写真を見て描いたらしい肖像画作品もあった。だがどれも月並みな目と鼻を持ち蝋細工のように冷たい。どれも皆、生命が感じられない。本当に描かれた肖像画は芸術家の魂から出てくるものだ。この町には美しい女がたくさんいる。これらの女を描けば金が儲かるような気がする。」
・ゴッホのアルル滞在は、1年2か月しかない。このわずかな期間に油絵だけでも190点完成させている。(この折「タンギー爺さん」等の作品数点と油絵具の交換をやっていた。)
・ある画商は「ゴッホは金と出世の権化となり混乱した芸術家となっていく」と言った。

ゴッホの入った精神病院
・この後有名な耳切り事件を経てゴーギャンはアルルを去り、ゴッホは精神病院に入った後自殺する。
写真左:ゴッホの入った精神病院
・ゴッホの死は弟テオに無限の悲しみを与えた。全身全霊を傾けて支援してきた兄を失い、人生の目標を無くしてしまったかのようだ。兄の葬儀場で卒倒して以来、健康に優れずオランダに帰国後、妻と子供を残して半年で狂い死にをしてしまった。
・死後11年、ゴッホの回顧展が催され有名になっていく。そうするとゴッホの生家や教会の倉庫や廃品業者に売られていったデッサン等探す大ブームが始まった。
・ゴッホが死んだ時、テオの部屋にはゴッホの遺作がいっぱいあった。有名になり出したゴッホの絵に画商が目を付けた。作品の数が膨大だからヒットすれば大儲けできる。

※ここで言えることはどんなにうまい画家であっても作品の量がなければ近代以後の歴史には残れないということだ。ゴッホ作品は彼が生きている間ほとんど売れなかったのに現在は全て数億の値がついて売れる。
※私が名古屋芸術大学で教えていた時、東京芸大出身の同僚にこんなことを言われた。「山田先生は学生たちに『コンクールで賞を狙え、有名になれ、お金を稼ぐすべを身につけろ』と言っているけれどゴッホを見てごらん。有名になろうとか、売れる絵を描こうとか、お金を稼ごうとか言ったことなど全く考えず黙々と作品創りをしていた。しかし彼は有名になった。ゴッホを見習うべきだ」と。僕は美術教師である彼がゴッホの人生についてあまりに何も知らないことに驚いた。ゴッホは自分を売り出すべく、手紙を書きまくり、自分を売り込み(テオもそれに大いに協力する)絵を描きまくった。しかし生前は目が出なかった。彼のある意味頑固な性格が災いしたとは思うが、それでも画家として認められ、有名になって絵が売れる様に弟テオと全力を注いで努力したしていたことは間違いない。


<ゴーギャン>
ゴーギャンの家族
写真右:ゴーギャンの妻と5人の子供たち
―ゴーギャンから妻メットへの手紙―
「君が僕に証券所に帰ってほしいと願っていることは知っている。最近の君の沈黙は異常です。」
妻からゴーギャンのもとには1か月の間、1通の手紙も来なかった。・・38歳頃。
「僕の画家としての評価は日に日に高まっている。それなのに3食も食べられない日が続く。だからパナマに行くのです。」
「出発する前に一度でいいから君と寝たい。まだ君を愛している愚かな男。2~3行でいいから手紙をください。」
「君に接吻を送ります。我々を別れさせた君の憎むべき性格を思い出すとき、私は君を憎まないわけにはいきません。」
「奇妙なことだが君の手紙にはいつも私の手紙の内容に関する文が欠けている。私の手紙を読んでないか飛び読みをしているのではないか。」
「愛するメットへ。船便が何回か着たが君からの便りはありませんでした。何も言ってこないのは君の愛情がないんだね。どんなに忙しくても30分もあれば書けるはずだが。君に書く気がないんだね。」

ポン=タヴァンの家
写真:1886年パリからブルターニュ地方のポン・タヴァンに移って住んだ家
―妻についてのゴーギャンの言葉―
「私は人民のもう一人の敵(妻)を知っている。その妻は夫に従わなかったが、父を知らぬ子どもたちを立派に育て上げた。その父(ゴーギャン)はオオカミの住む地にあって「お父さんと呼ぶ声が聞きたかった。だが一度も聞いたことが無かった。私が死んで遺産が入れば、きっと現れるであろう。もう愚痴はよそう」
「私は芯からデンマーク(妻の出身国)が嫌いだ。その気候も国民性も・・」

―ゴーギャンの日記から(ゴッホとアルルにて)―
「我々はカフェに出かけた。彼はアブサンを少しひっかけた。その時突然、彼は僕にそのコップを投げつけた。僕はさっと身をかわし彼を抱き止めた。その後広場を通り過ぎたと思った瞬間、僕が振り返ると髭剃り刀を持ったゴッホが僕にとびかかってきた。その後ゴッホは家に帰ってから自分の耳を根から切り落とし封筒に入れ、「これ僕の形見だよ」と言って、なじみの娼婦に渡していた。」
・ゴーギャンは、「私がゴッホと居てよかったのは自分より不幸な人間が身近にいるという安心感があったことだ」と言っている。

※最近はゴーギャンがゴッホとアルルで共同生活を始めたのはテオの支援を当てにしたためとはっきり言われている。

―画商からタヒチにいるゴーギャンへの手紙―
「あなたはタヒチから帰ってきてはいけない。あなたは偉大なる死者の特権を与えられているのです。今では歴史上の人物です。」 
・これに対するゴーギャンの言葉が残っている。「私の帰国をなぜ嫌がるのだ。私はパリを通り過ぎるだけでスペインに行きそこで数年生活したいだけだ。私の視力もおかしくなった。見えるうちにヨーロッパに帰りたい。」
だが画商はそれを許さなかった。パリから遠く離れた異国の地にいるから人々が作品に興味を示すのであって、帰国したらただの絵描きになり作品は売れなくなる。そう考えて画商は帰りの船賃を送らなかった。

※1906年にピカソの『アビニヨンの娘たち』が出るまでゴーギャンの技法はナビ派と言われその時代をリードした。画商にとってはゴーギャンがタヒチに留まる方がよかった。日本の荻巣高徳も似ていて、芸術の都パリ在住の画家ということで評価が上がった。逆にパリ時代は有名だった菅井汲は帰国したら騒がれなくなった。

―タヒチで暮らすゴーギャンから友達への手紙―
「毎晩のように不良娘たちが私の寝室に侵入してくる。昨夜はそのうち3人で用を済ませた。こんなでたらめな生活はやめて、一人の真面目な女を置いて仕事をしたい。この前の女は僕が帰国している間に再婚してしまった。ダンナから奪い返したが8日目に逃げ出してしまった。」
・1891年(43歳)でタヒチに移ったゴーギャンは、13歳のテフラを妻とする。その後も多くの女性と関係を持ち、生まれた子供も何人いたか定かでない。そのうちの一人の男子が成長してデブになり、毎日樹の下で酒を飲んで訪れる観光客に自分はゴーギャンの息子だと言って写真を撮らせお金を得ていたという有名な話も残っている。

―タヒチでのゴーギャンの言葉―
「おそらく私の姓を名乗っている4人の家族以外にも,同じ姓を名乗る女や子供が出るだろう。ゴーギャンは酋長であったからたくさんの妻や子供がいたと言って。お笑いだ。」
「希望を持つことは生きることだ」この言葉をゴーギャンは自分に言い聞かせたと言われている。
「土民たちがどうして何時間何日も、一言も言わず悲しげに空を見上げられるのか理解に苦しむ」

ゴーギャンの墓・1893年パリに帰国し、展覧会を開いたり、売り込みをし、ある程度絵も売れたが、ゴーギャンに対する批判もあり孤立し再び彼はタヒチへ戻る。その後梅毒に罹り、モルヒネを常に打たなければならなくなる。55歳で亡くなる少し前、大量のヒ素を飲んで自殺を図ったが、あまりにたくさん口にほおり込んだため、吐き出してしまい助かった。

「人生とはわずか一瞬の一コマにすぎない。それほどわずかの間に永遠の用意をしなければならないとは?私はむしろ豚であればいいと思う。人間だけがおかしくなるのだ。私の人生は芝居であった。」
写真右:ポリネシア、ビバオア島にあるゴーギャンの墓

―その他―
・ゴーギャンの別れた妻がクリスマスにコペンハーゲンで開かれるコンクールにこっそりゴーギャンの作品を出したが落選してしまった。

※これは日本でもいえる。日本の全美術館にコレクションされている荒川や河原温の作品を公募展や名古屋のコンクールに出しても名前が伏せられていたら落ちるであろう。藤田嗣治の1億円する作品を日展に出しても落ちるであろう。彼らには個性、独創性の意味が分からない。

・タヒチには女装をした男(レイレイ)が多い。ここは女系社会で家を継ぐのは女だから、男しか生まれなかった場合、家系を絶やさないために末の男の子を女として育てるからだ。

※僕がタヒチに一人旅をした時、当地の市場の入り口に数千円で入れてもらえる入れ墨屋があった。入れるかどうか迷っていた時に、レイレイの数人を見た。タヒチには蛇等、どう猛な生き物はいない。だから女社会になったとも言われている。

妖怪風人形作家、宮本美代子個展開催中

妖怪風人形作家、宮本美代子個展開催中

個展パンフ宮本美代子個展
時:2017年1月5日~1月29日(13時~19時) 
  月・火・水曜日休み
所:ブルーボックスギャラリー(写真下)
  〒444-0022 岡崎市朝日町4―98   
  TEL・FAX 0564-24-5884

ギャラリー玄関

 宮本さんは僕のニューヨーク妖怪個展に同行してくれた造形人形作家だ。僕の個展期間中、マンハッタンでハロウィンパレードがあり、僕らは彼女を応援して一緒にパレードに参加したりもした。このハロウィンパレードでは、宮本さんが制作した妖怪人形を仲間5人が一つずつ抱え、沿道に何万と集まった群衆の中を、緑色のカツラと真っ赤な着物を着て手を振り、投げキスをしながら堂々と行進した。ものすごく目立ったから、たくさんのカメラのフラッシュを浴びることとなった。 

左から宮本さん、近藤さん、作品、僕
 今回の人形作品はニューヨークに持ち込んだ作品よりはるかにでかく卑猥で、これを担いでハロウィンに参加していたら、ものすごい反響があったであろうと思われる。
写真右:左から宮本美代子さん、近藤文雄さん、宮本さん作品、僕

 その大きな卑猥な裸婦人形というのはデブの尼さん風で、体中に様々な小さな顔を貼りつけてある。まるで体中に般若心経が書かれた耳なし芳一のようだ。またバギナを巨大にして襞には大きな目が貼ってある優れもの(?)だ。

裸体人形、部分
尼さん風の人形の体に貼りつけられた様々な顔

裸体人形と僕
人形と僕、バギナの周りには目が貼り付けられている

宮本作品
写真右:腰の上に顔の乗った作品
 聡明で美人の彼女からこんな作品が生まれるなんて驚きだ。制作スタイルとしては四谷シモンに近いが、先輩の近藤文雄さん(三河では最高の画家。斎藤吾郎さんもいるが彼は一般人に強く、近藤さんは評論家等美術のプロに強い)がアドバイスしているから四谷シモンとは別の世界を醸し出すいい作品になっている。僕だったらもっと派手で卑猥にするよう指導をするが、まだ大人しく制作しているので、どこかに日常を吹っ切れない、殻から抜け出せないものを作品に感じる。

 彼女は豊橋に住んでいる。名古屋でもこれを作っていたら周囲から浮いてしまうのに、豊橋というもっとローカルな地で作り続ける彼女には喝采を送りたい。彼女が東京やニューヨークで生活して制作していたらすごい評価を受けたに相違ない。

 このブルーボックスギャラリーのオーナーはニューヨークで20年程ギャラリーを経営していた人だという。だからこの地のギャラリーオーナーとは選ぶ作家も違う。宮本さんの展示室の隣の部屋では、僕もニューヨークで知りあいになった現代美術作家である森川紗衣さんの個展が開かれていた。彼女の作品をニューヨークで見た折は何の違和感のなかったけれど、日本で見ると何か違う。
写真下左右:森川紗衣作品
森川紗衣作品 富士山 森川作品

 ニューヨークは技術的なうまさより作品の持つ個性を重視するが、日本は個性がなく誰かの真似であっても技術的にうまい方をよしとするのだ。彼女の作品を日本の美術関係者が見たら酷評するか、批評の価値もないと無視するだろう。 だからこの森川さんの作品を見てから日本のどこかの美術館へでも行ったら、その落差に驚かされるはずだ。勉強になるから一度このギャラリーへ見に行かれるといい。

 日本の美術高校や美術大学の受験ではデッサンのテストが行われるが、アメリカではやられていない。デッサンの練習が個性を奪ってしまうという判断なのだろうか。日本の美高や美大の先生が言っている。「石膏デッサンのテストなどしたくないがそれで振り分けないと入試はできない」と。個性や創造を重視するアメリカ美術と、定型の決まり事に沿って制作される日本美術の違いを感じさせる個展だった。

映画 『エゴン・シーレ 死と乙女』

映画『エゴン・シーレ 死と乙女』
エログロ画法を芸術に昇華、浮世絵の影響?

お正月飾り (300x225)
 明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。
 今年は我が家の玄関の正月飾りを妖怪屋敷風にしてみた。(写真右)お客を驚かせようと、僕のニューヨーク個展に同行してハロウィンにも参加した人形作家宮本さん制作の妖怪人形の頭部や「即身妖怪」のお札を並べてみた。

映画のパンフ
 さて今年の最初のブログは、画家エゴン・シーレ(1890~1918)だ。昨年暮れ映画の試写会に行ってきた。知り合いの美術館館長がたくさん観にきていた。美術関係者を招待して映画をPRしてもらうことを願っているのだろう。

 クリムトと並び19世紀末と20世紀初頭のウィーン美術界に異彩を放った画家エゴン・シーレ。『エゴン・シーレ 死と乙女』はスキャンダルに満ちた逸話と挑発的な名画の数々を残して28年の短い生涯を終えた異端の天才画家を描いた実話に近い映画だ。写真左:映画のパンフ

 物語はエゴン・シーレがスペイン風邪で熱にうなされながら、過去を回想する場面から始まる。シーレは鉄道官吏の子として生まれるが、14歳の時に父が梅毒で狂い証券等財産を全て燃やして死んでしまう。15歳くらいから油彩を描き始め、4歳下の妹ゲルティをモデルに裸体画も描いている。僕が思うに妹をモデルに使ったのはモデルを雇うお金がなかったこともあるだろうが、よく言われるように少女期の女性に興味があったことも理由の一つかもしれない。

ヴァリの肖像
 16歳でウィーン美術アカデミーに史上最年少で入学するも19歳には退学している。(ちなみに同時期にヒトラーがこのアカデミーを2回受験しているが2年連続で落ちている。)その間クリムトとも知りあい、シーレの才能を認めたクリムトが自分のモデル、ヴァリを無償でシーレに与えている。写真右:ヴァリの肖像1912年

 シーレはたくさんのモデルと同棲状態になるが結局結婚は良家の娘とすることになる。傷心のヴァリは従軍看護婦になり、戦地で病気になり亡くなる。タイトルの「死と乙女」はヴァリとシーレを描いている。モデルは一段低い階級と思われていた当時、結婚相手としては考えられなかったのだろうが、映画ではシーレが一番愛していたのはヴァリだったという視点から、シーレのエゴイスティックな面をも描いている。最後は夫婦共若くして28歳という若さでスペイン風邪で亡くなってしまう。

 芸術しか頭になく金がなくてもこだわらず、欲望の赴くままに次々と好きな女性を変えていく。何故か絵描きは貧乏でも女性にもてる。よくある定番の画家伝説だが僕には引っかかる。いくら昔の話とは言え、これだけ自分に甘えて生活できるなんて信じられない。現実の画家として僕がみると気恥ずかしくなる内容だ。おかしいよ、ほんとにこんなだったんかな、と訝るところも多かった。こんなことをしていた僕の女癖の悪い仲間もいたが、当然の如くみな数年で美術界から消えていった。

オルガの肖像画 
 この手の画家の話で僕が気になるのは食えない、食えなといいながら高いお金を払ってモデルはちゃんと使っていることだ。当時とっくに写真機はあったし、写実を否定する現代アートが始まっていた。なのにシーレをはじめクリムト、モジリアーニ、特に形なんて無視したような絵を描くピカソまで裸婦モデルを使っていた。
 ピカソの4番目の女で最初の妻となったロシア貴族の娘、オルガは「自分をモデルとして使う以上、自分と分かる写実的な絵にしてほしい」と要求し、実際にピカソはそういう絵を描いている。写真左:オルガの肖像画キュービズムの絵描きとして有名になった後のことである。
 ピカソは自分と出くわすほとんどの女に「僕のモデルになりませんか」と声をかけ口説いている。近代の絵描きがモデルを使うのは口説くための道具なのかと思ってしまう。

写真下左:ピカソが街で出会い「僕のモデルになって世界の美術の歴史を変えませんか」と言って口説いた娘(マリーテレーズ・17歳)写真下右:マリーテレーズを描いた作品。当時ピカソには正妻オルガがいて、彼女は生涯ピカソの愛人だったが子供まで生まれている。ピカソの死後、首つり自殺をしている。
マリーテレーズ 夢

 
 「山彊先生もそういって口説いたことはありませんか」。実は猛烈にこの手の口説きを使いたかった。けれど一度も使ったことはない。好きになった女性の裸なんて、手がふるってしまって描けない。では関係ができて落ち着いたら描けばいいのかとなるが、この時は今さら身体を見て描くなんて、となって興味がわかない。

 シーレに関して気になるのは彼が一般的に言うところの卑猥な絵も描いていたことだ。画家は昔から女性の裸体を描いてたが、性器まで描くのは、そんなに多くない。僕は多分彼が浮世絵春画の影響を受けたのではないかと思う。当時はジャポニズムがヨーロッパで大流行していたし、映画の中でもシーレが浮世絵を見るシーンが出てくる。

写真下左:二人の少女(恋人たち)1911年 写真下右:夢の中の女1911年 
二人の少女(恋人たち) 夢の中の女

絵を描くことが好きで、芸術のために欲望の赴くままにがむしゃらに描き、短い生涯を燃焼させたシーレが印象に残る映画だった。



カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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