『名古屋妖怪三十六景』より㉚

『名古屋妖怪三十六景』より㉚

㉚ 妖怪「白澤(はくたく)」
出現場所:北区辻町羊神社周辺


 名古屋市北区辻町に未(ひつじ)年だけ賑わう羊神社がある。僕の通っていた中学から近いのでこのあたりには詳しいと思っていたが、この羊神社の存在を僕は20年ほど前まで知らなかった。一度も同級生仲間たちの話題に上がったこともないし、勿論親や大人たちから聞いたこともない。すぐ近くに弟の嫁の実家もあるのに噂にも出なかった。

 羊神社の由来は、群馬県多胡群の領主「羊太夫」が、奈良の都へ上る時に立ち寄っていたゆかりの屋敷が、この地(名古屋市北区辻町)にあり、この土地の人々が平和に暮らせるようにという願いを込めて羊太夫が、火の神を祀ったといわれ、羊神社と呼ぶようになったとのこと。又ここを「住昔火辻村」と呼んだがそれが辻村→辻町に変わったようだ。延喜式神名帳に「尾張の国山田郡羊神社」と記されていることから1,000年以上の古社と思われる。明治5年、村社に指定されている。

 近年その年の干支の名がある神社を初詣に参拝する風潮が広まり、1980年頃からやっと未年だけ人がくるようになった。近くにある伊奴(イヌ)神社も同様だ。しかし参拝者が来るのは12年に一度。それも最近のことでそれ以前はどうやって存続させてきたのだろうか。伊奴神社は犬=安産の神様で参拝者を呼び込める。

北斎が描いた白澤 では羊神社は?僕が思うに、「白澤」(はくたく)と呼ばれる羊によく似た神獣を羊神社と結び付けたのではないか。白澤は古代中国の山海経に登場し、人語を解し万物に精通すると言われ、徳の高い為政者の治世に姿を現し世直しをすると同時に病魔除けもすると信じられていた。これなら人々はご利益があると参拝に来ただろう。白澤の絵は魔除けになるため江戸時代には道中の宿で、お守りとして枕元に置いて寝たという。北斎漫画の1冊の最後のページに、腹にいくつもの目があり背中にも角の生えた白澤が大きく描かれている。
写真右:白澤 北斎漫画より

 こんな白澤妖怪が羊神社に住み付き、住民を守り、この神社を生き永らえさせたのではないかと僕は想像し、「妖怪 白澤」描いてみた。僕の描いた白澤妖怪は元気でピンク色をしている。白澤のお尻の上には猿が乗っかっていて、来年は僕の出番だと待ち構えている。


㉚ 妖怪「白澤(はくたく)」

妖怪白澤

『名古屋妖怪三十六景』より ㉘㉙

『名古屋妖怪三十六景』より ㉘㉙

 これまで尾張徳川藩主の落ち延び街道沿いや、当時名古屋一の繁華街であった大須の妖怪を取り上げてきた。今回は八事興正寺付近をあぶり出したいと思う。ここ八事は徳川の本拠地、岡埼、駿河への最短コースで名古屋の南東の玄関と言っていい。辺りは丘陵地帯で水の便が悪く、稲作には適していないため住みづらいが、大きな寺社を作るには土地獲得がしやすく最適であったかもしれない。石も多く妖怪にもそれが反映している。1808年に建てられた五重塔は市内で唯一の五重塔で国の重要文化財でもある。

㉘妖怪「未来のぞき」
出現場所:八事興正寺付近


 高野山の末寺、八事興正寺は1688年、尾張徳川家2代藩主光友が建立した。その後ここはこの界隈の住民の憩いの場となり縁日には今でもにぎわっている。そんな人々の愛着がこの寺に「興正寺七不思議」なるお話を生み出したようだ。この寺をより面白くしようと僕のような者が江戸時代にもいて考え出したのであろう。

 その7つとは、金属音の出る九品仏、寺の東北奥にある大日如来堂の乳首のない仏像、珍しい干支廻りの宝塔、海の干満差に合わせ水量が変化する石碑。さらに雷が落ちない、神聖な境内のため蜘蛛の巣が張らないとあるが、この二つはどうも怪しい。蜘蛛の巣も張り、雷も落ちている。建立当初は立木も低く、草花や庭木の手入れが行き届き、雑草等が繁殖していなかったから蜘蛛も見られなかったのであろう。

姿見の閼伽井戸 
 最後が五重の塔の直ぐ西隣にある「姿見の閼伽(仏に供える聖水)井戸」で、この井戸を覗くと自分の未来が分かるという。
写真右:蓋をして見られなくなっている姿見の閼伽井戸
 井戸を覗けば勿論水面に自分が写る。その像が元気に映っていれば今後の人生は幸せで、弱々しく映れば今後何かトラブルが起こると言われる。興正寺の聖水となれば神秘性があり信じられやすい。これを考えた人には拍手喝さいを送りたい。神社で引くおみくじのようなもので誰でもが試したくなる。人間弱っていれば弱々しく見えるものだし、高齢で死が近くなれば目もボケて姿が見えにくくなる。ごく当たり前なことだが、人々はよく当たると思ってしまう。7不思議の創案者はこの井戸の使い方の面白さに気付き、他の6不思議を考案して付けたし興正寺での楽しさを増やしたのではないか。

 今は井戸も枯れ、竹の蓋で覆われ覗けないが、その代わりにお札事務所の前に30cm平方の小さな大理石の井戸を作り、蓋の真ん中にあけた直径5cmの覗き穴から参拝客にのぞかせている。しかしこの小さな穴からでは顔の一部しか見えないし、何よりも大理石では古井戸の風情がない。残念だ。

 僕が考えた「妖怪 未来のぞき」は顔が二つあり、一つは赤い元気な顔、もう一つは青く病気がちだ。元気な赤い方は井戸に映る閻魔もへっちゃら、青い方は井戸の中の仏様に助けを求めている。


㉘妖怪「未来のぞき」

妖怪未来のぞき


㉙「八事叩きのっぺら」
出現場所:興正寺内東北の一隅


 八事、興正寺の山門を過ぎ東北の小山へ200mほど登ると、見晴らしのいい、石仏群のエリアに入る。その道が十字路になったところのくの字の部分に4体と5体に分かれた九品仏の石仏(前述した七不思議の一つ)が安置されている。全ての顔が少しづつへこんで目鼻のないのっぺらぼうのようになりかかっている。その中で、右から2番目の石仏はのっぺらぼうどころか、お椀のように完全に内側に陥没している。この石仏の前には拳ほどの石が数個置いてある。どうもこの石で叩けということらしい。この石仏は石でできているのに石で叩くときれいな金属音がする。この異常なへこみ、数百年にわたって叩かれた結果なのだろう。

 目や鼻のないのっぺらぼう話は結構ある。恋川春町の黄草子、小泉八雲の怪談、古くは源氏物語の「手習」の文の中にも登場する。のっぺらぼうは皆、脅すだけで悪さはしないお化けだという。

孫が石で石像を叩く
 先日写真を撮るために孫二人を連れて、またここを訪れた。孫たちと叩いてみると、やはりきれいな澄んだ金属音がした。
写真右:石仏を石で叩く孫
 すると突然孫が、顔の部分がへこんだ石仏を見て「僕の顔が入るかな。入れたらいいことあるかな?」と言い出した。自分の顔がまだ小さいからだろうが、僕はこの面白い発言にびっくり。仏様は常に上から見下ろして人間に何かをかなえてやるという雰囲気なのに、仏様の顔に人間の顔をうずめるなんてものすごい発想だ。この合体で何かが起きれば、人面はめ込み妖怪といってもいい。信者が仏と同化するわけだ。仏様が凹で人が凸になる。どんなご利益があるのだろうか。

 待てよ。本当はこの石仏は、人間がここに顔をうずめて振り返ったらその顔をのっぺらぼうにしてしまう妖怪なのかもしれない。僕が顔を突っ込み、のっぺらぼうの顔を孫に見せたらどうなるだろうか。こんな悪戯のできる妖怪がいてもいい。そんなことを考えて今回は妖怪「八事叩きのっぺら」を描いてみた。


㉙「八事叩きのっぺら」

八事叩きのっぺら

『名古屋妖怪三十六景』より ㉗「大須妖怪ええじゃないか」

『名古屋妖怪三十六景』より ㉗

㉗「大須妖怪ええじゃないか」
出現場所:大須界隈


ええじゃないか騒動
 慶応3年(1867年)の8月、大須観音の直ぐ南にある屋敷の庭に伊勢内宮の御札が舞い降りた。家人は「神様が降りてきた」「慶事の前ぶれだ」等と騒ぎ、御札は神棚に飾り、玄関にしめ縄を張った。それを見て押し掛ける人には7日間お酒や赤飯をふるまったという。これは俗に「ええじゃないか」騒動(写真右)と言われる現象ですぐさま大ニュースとなり町中に広がった。そして豊川、豊橋、静岡へと広がったという。(小学館、日本語大辞典より)

 同年の11月には大政奉還があり『岩倉公実記』によればこう言った騒動は「八月下旬に始まり十二月九日王政復古発令の日に至て止む」とある。ええじゃないか騒動は世直しを訴える民衆運動だという解釈もあるが、おかげ参りと違って短期間に集中し、しかもぴたりと止んでいる。やはり倒幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったのだろう。

 この時期、尾張藩は付け家老竹腰派の佐幕派と、成瀬派や14代藩主義勝の勤皇派の対立があり、表向きは藩内の内輪もめという名のもとに、いわゆる青松葉事件(1868年1月)で佐幕派が一掃されている。

 もし僕が幕末に生きていて若い討幕派の下っ端武士だったら、やはりおかげ参りを利用したこのええじゃないか騒動を思いつくだろう。表立って倒幕運動すれば家族等周囲に災いが罹り、何が起きるか分からない。密かに倒幕運動を起こすために伊勢神宮の御札を作り、直ぐに騒ぎ立てそうな繁華街の大家の庭に投げ入れる。そこいらの猫でも捕まえて首輪に御札を挟んで庭にほりこんでもいい。騒動が広がれば幕府派が牛耳る藩の体制に揺さぶりをかけることができる。その後その足で豊川や豊橋、静岡、江戸と同じ行為を繰り返して倒幕の気運を盛り上げてゆく。

 今回の妖怪はそんな僕の願望をもとに描いてみた。武士(僕)の骸骨が猫を操り、問題の御札をばらまかせている。下では北斎漫画で描かれた人物がええじゃないか踊りで狂乱している。今回も大須がらみの話だから、猫と北斎に登場してもらった。


㉗「大須妖怪ええじゃないか」

大須妖怪ええじゃないか

『山彊創作 名古屋妖怪画集』から『名古屋妖怪三十六景』へ 

『山彊創作 名古屋妖怪画集』から『名古屋妖怪三十六景』へ 

 これまで「『山彊創作 名古屋妖怪画集』より」というタイトルで、僕が独自に創り出した名古屋の妖怪をこのブログで2,3体ずつ紹介してきた。この画集を出すために僕はまず妖怪画を36体描いた。そして画集として出版するために説明文を加えようと考え、説明文とともにブログで発表し始めた。その途中で北斎につながることがいろいろ出てきて、本のタイトルを変えようという気が起ってきた。新たに考えついたタイトルは『名古屋妖怪三十六景』だ。初めに描いた絵が36体だったのは全くの偶然だが、北斎からの暗黙の示唆と考えさせていただくことにしよう。『富嶽三十六景』を描いた偉大なる絵師へのトリビュートとして。

『名古屋妖怪三十六景』より㉕㉖

㉕妖怪「化け見ヶ原」
出現場所:上前津東南丘陵地帯


 名古屋の地下鉄名城線の東別院駅の北東一帯を富士見町という。この名前の富士見町、以前は不二見ヶ原と言って江戸時代からあったのだ。この不二見ヶ原の名、誰がいつ付けたか分からない。確証はないが家康の清州越しの頃、このあたりの高台は何もない一面の野原だったので、坂の上から東方面にはるか遠くの甲府の山々が見られ、そのうちの一つを富士山と思い、富士が見える所という意味で名付けられたようだ。そのため当時は誰もがここから富士山が見えると信じていた。

尾州不二見原 富嶽三十六景 (300x201) そんなことも影響したのか、あの北斎までここで富士山を描いている。富嶽三十六景の中で描かれた「尾州・不二見原」という浮世絵がそれだ。
写真右:富嶽三十六景より 「尾州・不二見原」 北斎画
 桶屋がでかい桶を作っていてその丸い桶を通して、中心に小さいけれどはっきりと富士山が見えるという構図の版画だ。こんなところからも富士山が見えると、北斎が喜んで描いた気分が伝わってくる気がする。現代の科学では見えないと検証されているので、ここの妖怪が北斎に乗り移って描かせた?のかもしれない。

 尾張藩の寺社奉行で著名な俳人でもあった横井也有も富士山について次のように言っている。「10月のよく晴れた日に見えた」とか、「宝永の大噴火の折、東の空に噴煙が見えた」等。この横井也有は東別院北で隠居生活をしていたらしい。上前津の角にある春日社からも富士山がよく見えたという。彼はお化けに関する句も詠んでいる。「化物の正体見たり枯れ尾花」と。みなさん、一度はこの句を聞いたことがあると思う。不二見ヶ原は雑草の生えた眺めのいい丘陵地だが、夜になると真っ暗で枯れ草が化け物のように見える怖い場所だったのだろう。
 也有の隠居場所のすぐ南にある長栄寺境内には彼の爪や髪を埋め込んだ塚が今も存在している。何故爪や髪を保存したのだろうか。爪や髪は死後も伸びるという言い伝えがある。爪や髪が死体とは別個に保存してあるとはちょっと妖怪的だ。あの崇徳院は怨霊となる前、爪や髪を伸ばし続け妖怪の様になったと言う。

 僕の描いた「妖怪 化け見原」は坂の張を怨霊の頭として、そこから髪の毛状、爪状の蘆が生え、それが手や骸骨の首に見えるように描き込んでみた。その坂の遠くには噴火している富士山も確認できる。


㉕妖怪「化け見ヶ原」

妖怪化け見原


㉖異獣「おからねこ」
出現場所:大須界隈


大直禰子神社 (300x200)
 地下鉄名城線、上前津駅北出口すぐ横に「大直禰子」(おからねこ)神社(写真右)がある。小さな2間ほどの間口で目につきにくく知らなければ見落としてしまう。大須出身の妻に言わせると母親が何かの折につけ、若い時はお友達と会う折、「おからねこで会いましょう」が合言葉であったという。けれど待ち合わせ場所にしてはこの神社は分かりづらい。どうも地下鉄開通の折ここに閉じ込められるように移動させられたようだ。これは残念なことだが、僕はこのおからねこが大須の起爆剤になるのではと思っている。いずれ大須ではねこ祭りをしたいし、ねこ造形コンクールもしたい。それはこのおからねこ神社の存在が、大須における猫の話題の原点になっているのではないかと考えているからだ。

 このおからねこについてはいろんなルーツが語られている。「前津旧事誌」や「堀川端ものがたりの散歩道」には社の三宝の上に狛犬が乗せて安置してあったのでお唐犬と言われ後にお唐猫になったとか、大榎の根の部分が空洞だったので「お空根子」と呼ばれたとか書いてある。又、石橋庵真酔の『作物』には「御空猫という異獣」と記してあったり、『尾張名陽図会』にはお堂の中に本尊がなく三宝の上に狛犬の頭一つが置かれていてそれをおからねこと呼んだとか、また尾張藩士の猿猴庵は「前津の内おから猫にありて・・」とも書いている。

 まあいろいろな説があるがざっくり僕なりにまとめると、江戸時代この大須には猫の話が多く、猫を祭った神社もあった。ところが明治39年の神社合祀の命によって大量の廃社が出た。そこでこの社を信仰する人たちはおからねこが廃社にならぬよう,読み方が同じの大和一宮、大神神社の初代神主である大直禰子が祭られているとして逃げたのではないか。現在この社の前には猫と関係はありませんと記してあるが、あれはここへ猫を捨てに来る者をなくすため書かれたのではないかと僕は考えている。

 さて僕の描いた「妖怪 おからねこ」は、これらすべての要素を入れてまとめてみた。唐猫+空根子がベースになって爪が根の役目もしている。いずれ全国のねこ好きがこの猫神社に気付きお参りに来るのではあるまいか。そして大須の街が猫(化け猫)で盛り上がるだろうとことを考えている。これで大須の街は未来永劫さかえるであろう。


㉖異獣「おからねこ」

異獣おからねこ

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ㉓㉔

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ㉓㉔


 これまで尾張徳川藩主の落ち延び街道やその周辺に出没すると言われる妖怪を中心に話を進めてきたが、ここからは大須界隈の妖怪を少し紹介してゆきたいと思う。

 ここ尾張名古屋の中では城から定光寺に伸びる妖怪(落ち延び)街道を除けば、妖怪の出そうな場所と言えばまず大須だろう。織田家の菩提寺である万松寺や大須観音を中心に賑わった門前町で、戦前までは旭遊郭や見世物小屋も乱立していた。遊郭には女郎の怨念が溜まっているだろうし、大須観音の北にある矢場町には化け猫話が住民に語り継がれている事でもわかる。江戸時代には大須より東南へ数百mも行くと街並も途絶え灌木の生い茂った下り坂になり、ここにも妖怪話が絶えなかった。

北斎大だるま絵 (234x300)
 またあの幽霊や妖怪画も多く残している浮世絵師北斎はこの大須を気にいって長いこと滞在しており、かの有名な北斎漫画はここで描き始めたともいう。滞在中大須にある東本願寺西別院で畳120畳に及ぶ巨大なだるま絵を描く見世物を行ったが、このイベントは北斎漫画のプロモーションパフォーマンスであった。
写真右:名古屋大須西別院での大だるま絵パフォーマンス
「名古屋は気候もよく食べ物もおいしく自分にあう」と北斎は言っている。

 大須はコスプレやB級グルメの産地でテレビで等でよく取り上げられている。ところが外国や他県から来る観光客に名古屋で訪れたいところを聞くと名古屋城ぐらいで大須がほとんど出てこない。宣伝が下手なのだ。北斎が大須で大だるま絵を描いてちょうど200年。北斎がもっと大須の宣伝をしろと僕にけしかけているような気がしてきた。そこでここからは大須に関する妖怪を5つ(今回は2つ)紹介したい。



㉓妖怪『大須北斎』
出現場所:大須界隈


 大須には連日たくさんの観光客が訪れているようだが、初めからここを狙ってくる観光客は少ないのではと僕は推測する。確かにこの街は古き日本の庶民臭さやにぎやかな雰囲気があるが、新しいものとの単なるごった煮のような感じがする。特に知られたものもなくこれといった名所やブランド力も低い。アメ横の誘致やB級グルメ、コスプレやメイドカフェ等が目立っているが、今後継続して発展していくための確固たる大きな看板がない。

 そんな中2017年名古屋市博物館で、北斎による巨大だるま絵制作200周年を記念した展覧会が催された。ここでは北斎の版画を用いた漫画から風景画、西洋画等、また手彩色による数々の作品が展示されていた。これを見た僕は、改めて北斎の新しいことへの飽くなき挑戦に感心するとともに、その実験的作品の種類の多さとこの雑多な大須の雰囲気が似ていると思えてきた。
 僕の友人でストリーキングやロック歌舞伎等数々の奇業で知られる芸術家の岩田信市はこの大須にあった質屋の跡取り息子。僕をはじめ数々の芸術家を後援してくれた大須ういろうの山田社長。ミュージシャンになった風呂屋の息子もいる。ガラス工芸家になった服屋の娘もいる。変わった仲間がすごくいるのに、僕にはこれだけのパワフルな街なのになぜかもの足りなさを感じる。

 それは北斎の『神奈川沖浪裏」や『凱風快晴』、『北斎漫画』と言ったような人々を引き付けるブランド性のある目立つものがないからではないか。大須へ来ていつも思わされるのはこの街にはもっと何かある筈だ、探さねばといった不思議な思いだ。北斎展を見た時、僕をイライラさせたのはこの北斎が「なぜこの俺をもっと使わないか」と言った叫びが届いたからではないか。
 
 北斎は東京の現墨田区に生まれているが頻繁に住居を変え、どこが根拠地であるとは言いにくい。ところが名古屋には長く滞在し、北斎漫画を描き始め、巨大なだるま絵を大須西別院の境内で描くと言う一大イベントも行っている。僕を北斎展に導いたのはこの大須に巣くう北斎妖怪かもしれない。
 
 そこで僕が描き始めた妖怪は「大須北斎」だ。この妖怪は口を開けあの世界的に知られたウエーブの海水を吸い込んでいる。北斎を大須のブランドとしてしまおうとしている。このウエーブの柄を大須の柄とすれば大成功をするのではないかと思いついた。外国人などこの包装紙目当てに品物を購入するかもしれない。絵では妖怪『大須北斎』ブランドがヴィトンやシャネルを従え空を飛んでもらうことにした。


㉓妖怪『大須北斎』

妖怪大須北斎


㉔OS☆U「化け猫ギャル」
出現場所:大須界隈

 
 矢場町にはその昔、たくさんの矢場があって多くの客が弓遊びに興じたという。この矢場に関しては化け猫伝説が語り継がれている。明治生まれの親父から大須に来る度に聞かされたものだ。
 白猫を可愛がる美人で評判の矢場のおかみがいた。猫も店で客を迎え矢場は大繁盛した。だが夫のお妾さんにいびられ自殺して亡くなってしまった。白猫は次のおかみになつかなかった。彼女が厠から出ると、死んだネズミを厠の前に置いて、彼女を睨みつけていたという。おかみは丁稚にその白猫を殺して堀川に捨てて来るよう言いつけた。だが暫くするとまた厠の前にネズミの死骸が置かれていることにおかみは気付いた。このネズミを丁稚に捨てるように要求するが彼には見えないと言う。猫がいなくなったためか店の客の入りも減り、その後おかみは気が狂って亡くなってしまったとか。

大須招き猫
 これに限らず大須には猫に関する話題が多い。大きな招き猫があるふれあい広場にはアイドルユニットOS☆U が集結する。
写真右:大須ふれあい広場の巨大な招き猫
街中の喫茶店内には猫神社が造られ連日お参りの人が来るという。猫妖怪が大須を仕切っているのだろうか。

 大須と猫は相性がいいと思うので、ベルギーの猫祭りのように、猫の祭りやイベントを企画したらどうだろうか。例えば猫の絵画コンクールを世界に向けてやってみたらどうだろう。出品料を取っても世界中から猫の写真や油絵、版画等の作品が集まる。猫好きはお金を出しても見てほしいものだ。これは町おこしにもばっちりだ。大須に巣くう化け猫妖怪も満足するのではないか。

 北斎も猫をたくさん描いている。猫プラス北斎で手を組めば世界のイベントとして定着すると思うのだが。OS☆Uはこの際、他との違いを鮮明にするため全員髭を描き猫ギャルスタイルで踊ってみればAKB48の後追いにならずもっと評判が出るのではないか。

 かつて化け猫と言えば灯明の油をなめる化け猫が定番だったが、僕の妖怪絵は現代風の若くてアイドル的な化け猫にしてみた。髪の毛は卒塔婆をもじり、ブラジャーやパンツのフリルにはガイコツを配し、尾はキララの様に2本生やし、目は若さを強調したいからハートにしてみた。手には矢場の化け猫のイメージをなくさないよう弓矢を持たせることにした。あまりの異様さに欧米からやってきたかわいい女の子が驚嘆している所も描き込んでみた。


㉔OS☆U「化け猫ギャル」

化け猫ギャル
カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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