『山彊創作 名古屋妖怪画集』より⑤⑥

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑤⑥

僕が出版しようと思っている『山彊創作 名古屋妖怪画集』から前回に引き続いて僕のオリジナル妖怪を2つ紹介させていただく。

⑤妖怪名古屋嬢
出現場所:名古屋全域

 名古屋女の妖怪性は暮らしてみないとわからない。ブランド好きなのに、夫に本マグロはまず食べさせない。きはだマグロで充分と思っている。名古屋嬢は多くが髪をカールしている。これを名古屋巻きというそうだ。僕にはメデューサ巻きに思われる。僕の教えていた名古屋の名門女子大でゼミ最中に僕との話しで出た驚きの内容を1つ。「先生彼氏できた。早く結婚したいわ」。僕が質問「彼氏も学生なんだろう。どうやって食べてくの?」「お父さんがいるじゃない」。これが名古屋嬢の1つの典型。
 僕の曽祖父は瀬戸電(現名鉄瀬戸線)を引いた初代関係者の一人。そのため大叔父は駅長に就任していた。ここには娘が3人もいた。結婚には相当の支度金がいる。長女だからと頑張ったら、妻から次女、三女も同じような仕度をさせよと言われ、叔父は会社の金を流用してしまった。これが発覚し、一家は破産。日頃はつつましい妻も冠婚葬祭となると妖怪化する。

 明治・大正の頃、名古屋は美人の産地として東京でも知られていた。新橋の芸者はほとんどが名古屋出身だったと言われている。尾張名古屋は娘に芸事としてお茶お花、琴や三味線を習わせる習慣を持っていた。だからすぐにつぶしが効いたからかもしれない。だが明治から発行されていた文藝春秋によれば、彼女らは美人でもあったらしい。文藝春秋には名古屋美人の定義まで記してある。「裕福であるこの地は、食べ物をよく調理して食べるため、頬骨やえらが張ることなく丸みを帯び、噛む必要があまりないから口が小さく歯は少し出ぎみである」という。大正の雑誌「婦人世界」にも同じようなことが書いてある。


斎籐きち19歳
 さて僕の「妖怪名古屋嬢」は、美人芸者といわれた「唐人お吉」をモデルとしている。
写真右:斎藤きち19歳
 1841年に南知多の内海で船大工の次女として生まれ、4歳の折家族そろって下田に移住し、その後芸者になる。その当時アメリカの総領事ハリスが病気で寝込んでいたためその世話をする看護婦としてハリスの世話をするよう役人に説得される。当時看護婦の概念がなかった日本ではそれは異人の妾となることと周りは理解した。ハリスが回復するとまた芸者に戻るが、毛唐の妾、唐人お吉と蔑みの眼で見られ、酒におぼれる様になり最後は物乞いを続けた後、身投げして自殺してしまう。彼女をイメージにそして名古屋美人の定義を参考にして『妖怪名古屋嬢』を描いてみた。



⑤妖怪名古屋嬢

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⑥妖怪茶碗叩き
出現場所:尾張地区

 食事中「箸で茶碗をたたくと幽霊が出てくるよ」といつもお袋に言われたものだ。この地では月経(つきぎょう)と言ってお坊さんが月に1回、その家の誰かの命日にお経をあげにやって来る。子供だった僕は茶碗と同様、木魚や鈴(りん)をたたいて亡くなった人を呼び出すのかと思っていた。お経が始まると子供たちは仏壇の前に座らされる。そこで見る光景はこれが幽霊の分身かと思ったものだ。お坊さんの叩く木魚に合わせ、炊いてある線香が微妙に揺れる。それがある時は顔にある時はおケツに見える。まあこれがこの地区の子供達の最初の幽霊との出会いかもしれない。今回の作品「妖怪茶碗たたき」はその時のイメージから生まれたものだ。

 又こんな経験も僕の幽霊体験の一つだ。小学生のころ家が戦火で焼かれたため、一時住まいをしていた我が家の30メートル東に病院の焼却炉があった。夏に玄関でへぼ将棋をしていると、その焼却炉から出る煙が線香の煙に似ていてぞっとしたものだ。今では考えられないが、死んだ人間の手足や体を燃やしていた。ある時などその焼却炉から火の玉が飛び出し、仰天したこともある。翌日焼却炉を覗きに行くと燃えた灰の上に新しく切り取った足等が無造作に掘り込んであった。

天童寺境内
 ところで木魚のルーツは17世紀に隠元禅師が中国から日本に持ち込んだ魚板だという。7、8年前僕は雪舟研究のため中国寧波の天童寺を訪ねたことがある。ここには大きな魚板が掛かっていた。
写真右:天童寺(上)と魚板(下)
 何に使うのか尋ねたら「人を集めるためと、昼夜寝ることも忘れ修行するためのものである」という。魚は目を閉じることはない。僕も一応叩かせてもらった。

 この帰り東16キロにあるアショカ寺にも寄った。インドのアショカ大王の流れをくむ寺で1700年の歴史がある。ここは建物の修復の最中で堀りおこされていた。丁度昼食中なのか誰もいなかった。堀り出された泥の中に陶器のかけらが一つ見つかった。先程、木魚を叩いたから1700年前の亡霊が僕に与えたのかもしれない。有り難く拾って帰った。
 「妖怪茶碗叩き」には子供の頃の思い出やこれらの経験から感じたものも込められている。


⑥妖怪茶碗叩き

妖怪茶碗叩き

前衛芸術家、岩田信市論No.2

前衛芸術家、岩田信市論No.2

 名古屋を中心に活躍した前衛芸術家の岩田信市氏が昨年8月上旬に亡くなり、そのすぐ後僕はこのブログに彼のことを書いた。(「中部地方最大の芸術家、岩田信市氏亡くなる」 2017.8.7) 最近ある小誌が岩田信市に関する文を僕に書くように依頼したので書いたところ、内容に問題ありとして没になった。没になった理由は、彼やその周りの人に関する個人情報が書かれていてよくないらしい。
 彼は戦後の名古屋で飛びぬけた芸術家だと僕は思っているし尊敬もしている。いずれたくさんの者が彼の研究をするだろう。岩田信市の近くにいた僕としては彼の全てを書き残さねばならないと考える。偉大な芸術家や作家はその生涯を深く知ることによって、ますます多くの人を引き付けることになる。ピカソの私生活をよりよく知ることは、彼の絵を貶めるどころか観賞をより深いものにしてくれる。僕は彼を日本でも指折りの前衛芸術家だと思うから、彼について皆にいろいろ知ってほしい。鬼籍の彼も喜ぶと思う。


「岩田信市(一)と女性達」

 岩田信市は豪放磊落、日和見的なところがなく、常に自分の思うところを目指す行動の人だった。同時に人付き合いが下手で、お世辞が言えないタイプだったが、人を妬んだり陥れたりするようなところが全くない人柄だった。だがこういったことや彼の芸術行動に関しては他の人も述べているので、岩田信市を大学生の頃から知っていた僕としては、ちょっと下世話な話になるかもしれないが、他の人とは違った視点で見つめてみたい。

 彼を60年代当時から尊敬(恐怖を含んだ)の念で見つめていたのは僕だけではなかろう。それぐらい大柄で威圧感があり、話す内容も革新的だった。旭丘高校美術科の同級生であった荒川修作や岸本清子からも「すごい男だ」と聞いたか、何かで読んだことがある。前衛といっても平面作品にこだわる久野真や水谷勇夫等とは次元が違う。当時アメリカから入ったポップアートをいち早く作品に吸収した岩田の存在は僕の中でますます大きくなった。同級生たちが憧れる日展や他の公募団体の教授連が馬鹿に見えたものだ。僕の大学4年生時(1960年)は池田隼人首相が「国民所得倍増論」を言い出した時代で、経済発展とともに、新しい時代の波がアートにも押し寄せてくるという予感も岩田に対する僕の評価につながった。

 当時、4年前にできたばかりの冷暖房の効いた愛知県美術館にたむろしていた僕が、常に気にしていたのが、女性にもてた岩田信一(当時はこの一の名前で市になったのはロック歌舞伎の立ち上げの時であったように思う)と石黒鏘二であった。岩田はこまっしゃくれた、一見、文学少女的雰囲気の女性に取り巻かれていた。僕の美術科の後輩では美しくスリムで頭のよさそうな高橋や岩下といった女性達だった。女性に取り巻かれる岩田の存在が僕には輝いて見えたのかもしれない。石黒鏘二は反対に上品ぶっている中年女性達に好かれていたようだ。彼と歩くと「あれが石黒鏘二さんよ!」と言って通り過ぎる女性達が何人もいた。この二人は当時表向き仲が良かった。僕を含め問題になる行為も平気でやっていた。岩田は自由人だからそれほど気にしなくていいが、保守的な思考で出世を狙う石黒がその仲間にいることは不思議だった。自分にとってライバルになるものには先ず近づいて利用するが、自分を脅かすような地位や栄誉は与えない。これはすごい石黒の才能だ。

 「山彊さん、そんなことないよ。石黒先生は本当に岩田さんが好きだったのよ」とも言われる方もいるが、石黒はこの地方で権力を得てたくさんの者に賞や賞金を与えたが岩田には一度も、与えていない。「岩田さんはそんな賞に憧れていなかったのでは?」と考える人もいるだろう。僕も同感だったが、岩田が大腸癌になってしばらくして会った折、彼は「山彊、あんた50年ほど前京都のコンクールで大賞をもらっただろう。あの時俺も出していたよ。欲しかったなー」とこっそり僕に打ち明けたことがある。彼には平凡な欲求もあったわけだ。あの強い男が僕には何故か気を使ってくれるのは賞取りで負けたことに原因があったのかもしれない。

 ところで彼の女性関係だが、結婚したのは取り巻き連中の女性ではなく、僕の遠縁に当たるお金持ちの超かわいい女性とであった。僕の叔父がスポーツのアルペン現社長の祖父に当たり、彼女はその遠い親戚に当たる。だが数年して問題が起きた。子どももいたのに、彼女が不倫をしてしまい、別れ話が始まった。不倫相手は僕等美術仲間の近くにいる男だ。よし別れさせようと僕等は動いたが、男の方が手切れ金をよこせと言ったとかでうまくいかなかった。不倫は仕方なかったとしても男からの手切れ金要求はありえないと思っていた。このこともあり僕はその男との縁を切った。だが離婚の話は進んでいった。
 不倫も離婚も人を疑わない岩田には信じられなかったらしい。弁護士を入れ話し合いが始まった。岩田の「僕のどこが悪いのか教えてほしい」との質問に、奥さんは「あなたのやっている芸術はクズだ」と言ったという。芸術家としてこれを言われたらもう終りだ。彼女がそう言ったのは、彼女の周囲がそう言っていたからだ。愛があれば問題はなかったかもしれないが、所詮名声らしきものに憧れ結婚したから周囲でこんなうわさが出たら終わりだ。(僕自身も同じ経験がある。ゴミ裁判で闘っていた頃、周囲の絵描き達が「山田は絵が描けないからごみをアートと言っている」と、言いふらしたことだ。)

 僕がこんな裏話を知っているのは、僕がフレンドリーに誰とでも話すからだ。離婚調停をした弁護士が仲間でもあり、彼にあてずっぽうに「信ちゃん、奥さんにすごいこと言われショックだったらしい」と言ったら、「山彊さん、何故知っているの」。「彼から聞いたよ」。これで僕が岩田からすべて聞かされていると思って、弁護士はみんな話してくれた。
 
 岩田は二度目の奥さんをもらったがこれに凝りてか、美しい不倫をしそうな人は選ばなかった。再婚した奥さんは彼には決して逆らわず、三味線を覚えてロック歌舞伎上演の際は常に演芸場で弾いていた。また岩田は名古屋市美術館での彼の個展が決まった折にはヌードモデルを使い、自分の部屋で半年にわたり裸婦画を描いていたが、普通の奥さんなら頭に来るのにそんなことはこれっぽっちも出さない奥さんだった。
 それにしても岩田がこれまでもヌードを描く画家ならそれを承知で結婚したのだから分からなくもないが、超前衛で常に新しいアートを模索する男が、何故アングルやクールベらといった150年以上前の絵画に戻るのか僕にはその点が理解できなかった。想像するに一度昔の芸術家の気分になってみたいといった単純なことだったのかもしれない。彼がロック歌舞伎をやめた後、彼の描きかけの裸婦画のある部屋でコーヒーを飲みながら僕はそれを聞いてみたいと思ったが、質問するのは止めておいた。ロック歌舞伎をやめた後の岩田は以前のような豪胆さが減り少し変わった。

 と言っても僕はこの戦後の名古屋において一番の芸術家は岩田信市だと思う。昨今、60年代に活躍した大阪の具体美術の作品が世界中で再評価されているという。60年代の名古屋を見た場合、この具体と張り合える芸術家は彼しかいないと思う。具体美術の理念は「人のやらないことをやれ」だった。最後のヌード画は別にして、この条件をクリヤーするのは彼しかいないのではないか。

最後に彼の「美術界で人のやらなかったことをやった」を書いて終わりとしたい。
①名古屋でただ一人のポップアーティスト(評論家の針生一郎氏がポップアートは名古屋を通り過ぎていってしまったと、書いていたけれど僕は岩田信市だけは違うと思う。)
②愛知県美術館にゴミもどきの作品を持ち込んだ。(東京都美術館では幾度もすでに展示されていたが、名古屋では初めて)
③栄の街を這って進むアートパフォーマンスをたくさんの仲間と行った。世界初の行為。
④裸で街中を走るストリーキングを日本で最初にやった。
⑤大阪万博の折は反対運動を美術の世界にまで持ち込んだ。(ヨーロッパでは当たり前だったが)
⑥市長選に打って出た。生きてやることすべてがアートであることを実証した。(東京では有名な画家、秋山祐徳太子が都知事選に出ていた。ヨーロッパではあの世界的な画家ボイスも政治に関わっていった)
⑦歌舞伎を現代と融合させた「ロック歌舞伎」の演出を30年近く行った。常に名古屋の大須演芸場を満席にしていた。ヨーロッパにも出掛け評判を博した。

「謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボス」を見て

謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボスを見て

『ヒエロニムス・ボス』パンフ
 試写会で「謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボス」を見てきた。すぐ見に行く気になったのは、ボスが僕の若い時の憧れの画家だったからだ。
写真右:「謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボス」のパンフ

 僕は小さい頃から死に対する恐怖心が強く、特に24,5歳の頃は毎日死神にとりつかれたような感覚に陥った。何故かというと、丁度その頃に生きる目標を失ったからだ。絵を描き始めた頃は「よし画家として有名になるぞ。そうすれば女性にももてる筈だし」等々、人生をそんなに難しく考えていなかった。だが大学卒業の頃にはその有名になると言った目標は僕なりに達成されてしまった。19歳の時に愛知県主催の美術展で大賞を取り、22歳の頃にはニューヨークの日本人画家14人展の一人として日本全国から最年少で選ばれたのだ。我が家にもアメリカからギャラリストがやってきて、新聞などでも報じられ、目標を達成してしまった気分になった。アメリカでの展覧会が終わると、進むべき次の道が見つけられず、虚無感に襲われ、このままだらりと生きて死んでいくのかという恐怖に憑りつかれたのだ。

 これに追い打ちをかけたのが当時の世界美術界の動向だ。ニューヨークの14人展に選ばれた僕の作品は大胆な構図に原色の赤を用いた抽象画で、自分では構図も技法も個性的で独創的だと思っていた。だがこの直後アメリカからポップアートが入り、日本の美術界もその影響を大きく受けるようになる。それまで日本では見た目がきれいで構図もまとまっている絵が良しとされたが、ポップアートにおいては独創的なのは当然、見た目も人があっと驚くような斬新さできれいにまとまっているなんてことは問題にされていない。むしろ破壊的なくらいだ。僕の作品は独創性、個性はあってもきれいにまとまっている。こんな作品を創り続けていいのだろうかという疑問も沸き、人生に行き詰ってしまった。

 これではよくないと美術関係の会合や自身の個展開催などで東京へ頻繁に出掛けるようになるとますますそのことが気になった。ギャラリー等で出会う、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった評論家の針生一郎さんが僕の作品を見ても完全に無視だったのもつらかった。どうも公募展などに作品を出している画家は彼の眼に入っていないようだった。僕の同級生たちはアートに行き詰ったら恩師である大学の教授たちに教えを乞うていたようだが、全て公募展である日展所属の画家で、きれいに色を塗っているだけの教授たちに、そんなことを聞きに行っても無駄なことはよく分かっていた。僕は突破口を求めてもがいていた。

 これが冒頭に書いた生きる目標が見えなくなり、死神に取り付かれた24,5歳頃の僕だ。そんな状況を打破すべく図書館へ行き美術雑誌や美術関連の本を読み漁るうち、僕の心に大きく引っかかったのが、地獄絵図を描いたボスとボスを手本にしたようなブリューゲルだった。
 さらにびっくりしたのが末法の平安末期から鎌倉時代にかけて描かれた日本美術の餓鬼草紙だった。人の糞を食べ骨をしゃぶり腹だけがでかい異様な身体が僕に迫った。腹が膨らんでいるのは極端な飢餓状態だが、若い僕には貪欲な食欲の結果か性欲の果ての膨らんだ腹で、出てくる子供はどうなるのだと思わされた。ボスの絵もまさしく食欲と性欲にとりつかれた醜い人間たちの世界を連想させた。
写真下:餓鬼草子より 部分
餓鬼草子より部分 (1) 餓鬼草子より部分(2)
 
 これ等の絵の強烈なインパクトから、その後僕が描き始めたのは「餓鬼草紙シリーズ・太郎と花子」だった。この作品は小野ヨーコや篠原有司男がよく使っていた東京新橋の内科画廊で個展発表したら美術雑誌等で大きく取り上げられた。

僕の『餓鬼草子シリーズ』より 内科画廊 
写真上左:僕の描いた『餓鬼草子シリーズ』
写真上右:東京新橋内科画廊で左から滝口修造、一柳慧(オノヨーコの元夫)、サム・フランシス 1964年 当時の美術の最先端を行く画廊で、著名な外国人アーティストも個展を開いていた


 自信を持った僕は、その当時僕や僕の主任教授が所属していた春陽展(日展や二科展よりレベルが高い)に出してみた。その前年に僕は春陽展で賞を取っていた。今度は更に新しい技法の作品で自信があったのだが、見事に落選してしまった。この僕の「餓鬼草紙シリーズ」作品は京都で大賞をとり、東京や京都では認められたのだが、世界の現代美術の潮流から遅れていた名古屋ではまだ認められなかった。1960年代のことで名古屋では公募展がまだ美術の王道と言われていた時代だった。僕は年功序列の旧態然とした公募展に決別する道を選び、春陽会を脱会した。

 僕の若き日の人生を決定づけた一因となったボスは今でも僕の好きな画家である。ボスの作品は祭壇画が多く、大きな画面に動物や人物がびっしり細かく描いてある。だから画集などで見る場合、彼の絵は全体を見てしまい描かれた一人一人まで確認することができない。どうしても周りや全体に気を取られてしまうのだ。
 今回の試写会の映画は、それらをすべて解消してくれていた。細部が大きく映し出されてさらにクローズアップされた作品はすごい迫力で僕に語りかけてくる。カメラの技術進歩がアートを面白くしていた。この作品に関してはもう20年も前にスペインのプラド美術館で僕は本物を見ている。だがそれを見た時の興奮より今回の映画で感じた興奮の方がはるかに優っているという気がする。細かく描かれている人物を等身大で見せられると、よりリアルになって僕に迫ってくるのだ。

写真下:ボス作『快楽の園』より部分
ボス『快楽の園』より部分(1) ボス『快楽の園』より部分 (2)

 ヒエロニムス・ボスは15~16世紀のネーデルランドで活躍した天才画家といわれているが人物像の詳細はおろか生年月日も不明の謎に満ちた人物である。この映画は彼の作品中、最高傑作で最も異彩を放つと言われている作品、プラド美術館所蔵の三連祭壇画『快楽の園』について各界の知識人が語るドキュメンタリーで、彼らの言葉に合わせて、ボスのエロティックでグロテスクな天国と地獄の快楽の園が画面いっぱいに映し出される。不可解で奇怪なボスの絵が、僕の若き日の死神と同化していた。




『山彊創作 名古屋妖怪画集』より

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より

 先々回のブログ(2017.11.24)でも書いたように、『山彊創作 名古屋妖怪画集』に登場する妖怪画をまた2点紹介させていただきたい。今回は『金シャチ妖怪』と『妖怪花ドロボー』を取り上げる。それぞれの妖怪の由来などは拙著『名古屋力 妖怪篇』で詳しく書いたので、重複を避けるためそれぞれの妖怪にまつわる簡単なエピソードや僕の思い出、妖怪画の説明などを少し書かせていただく。

③『金シャチ妖怪』
出現場所:名古屋城とその近郊

 僕は名古屋城北東1kmにある酒問屋で生まれた。両親は常に忙しく、お手伝いさんが僕の世話をしてくれた。彼女に連れられてよく出かけたのは、今は名城公園になっている練兵場だった。ここでは通常は軍事訓練が行われていたが、年に一度はサーカス小屋が建った。母は僕がやんちゃを言うと「練兵場のサーカスに売り飛ばすよ」と言って脅した。
網で覆われた戦前の名古屋城金シャチ
 小さな子供にはそれも怖かったが、僕にはその反対側にある、名古屋自慢の金の鯱ほこも気になった。僕から見ればそれはただ屋根に乗っているうんこ色(尾張藩が財政難のため改鋳を行って金純度を下げ続け、光沢が鈍ってしまった)の魚の人形で、逃げる筈がないのに何故か網を被せられている。この金網は表向きは盗難防止だが鈍った輝きを隠す目的もあったとか。
写真右:金網で覆われた戦前の名古屋城金シャチ

 今思うに、これが名古屋人の原点である見栄とケチ根性を表わしているようだ。高価な金の鯱を雨ざらしにして、名古屋は金持ちだよと見栄を張る。だが盗まれないよう見苦しい網で囲うというケチ根性。この金のシャチは1945年5月14日にB29の440機によるアメリカ軍の空爆で焼け落ちてしまった。B29が飛来した折、僕や家族は、数十分前に家を出て矢田川の堤防まで逃げ、親父の漕ぐリヤカーの上からお城や我が家が延焼するのを見ていた。

 僕の描いた金シャチ妖怪(下図)は名古屋人のケチ根性とスケベ根性を今風の女性の姿で表わしたものだ。名古屋は日本一風俗営業店が多く東京からもわざわざやって来ると言われるほどだ。そこで名古屋芸者の十八番で着物がずり落ちないようにしながら金シャチのポーズをまねるというちょっと男性が喜びそうな芸を取り入れてみた。またケチ根性からお金があっても使わず預金が好きだと言われるので、足には盗まれないために預金や現金の袋を結び付けている。体はそのままで動かず、5個の眼が付いた舌だけで状況を判断しているのは、名古屋人は石橋をたたいても渡らないと言われているのを示している。

『金シャチ妖怪』
金シャチ妖怪

④『妖怪花ドロボー』
出現場所:名古屋地区全般

 名古屋の花ドロボーは全国的に知られている。開店祝いで飾られた花が開店と同時にあっという間になくなって(盗まれて)しまうのだ。この名古屋地区ではなぜこんなことが許されるのだろうか。これもケチ根性と勿体ない根性から来ていると思う。開店祝いに出された花は、開店当日後は捨てられるはず、それはもったいないからいただこうというわけである。それならせめて1日待てばいいが、一人が持って行くと堰を切ったように後に続く。そして開店1分後にはなくなることになる。
 また以前葬式は各家で行われていたので当然その花も犠牲になった。もし訪問先の家に白や黄色の菊が飾ってあれば、「どこかで葬式あったようだ」と名古屋人は勘ぐる。盗られたくなかったら金シャチのように網をかけるべきだと考える名古屋人もいる。

花ドロボー防止の看板
 我が家のすぐ前にはルーテル教会がある。こ教会、春になると歩道に面した花壇に一斉に花を植える。だが2,3日過ぎると花がいくらか無くなっている。信者が植えた花が盗まれることに頭へ来た神父さん(きっと名古屋人ではない)は見張ることにした。彼が目撃したのは品のいいおばさんだった。だが神父さん、その場で注意するのではなく、何と後をつけていって彼女が入ったマンションまで行き、注意した。開店祝いの花を盗るのはドロボーではないという慣習がここまで来てしまったのか。
写真右:花の盗難防止を呼び掛ける看板、さすがに金網で囲まれてはいない

 僕の描いた『妖怪花ドロボー』(写真下)は開店祝いの丸い花輪台の形をしているが、花の代わりに手が何本も生えてその間と真ん中には目がいっぱいある。手は花を盗る人の手、それをたくさんの目が見ていても誰も注意せずドロボーが奨励されているようなところを参考にしている。名古屋の開店祝いで一番華々しく開店祝いの花を飾り、かつ犠牲になったのがパチンコ屋だ。しかもパチンコの発祥の地はこの名古屋。だからこの妖怪は、パチンコ台のイメージも取り入れてある。

『妖怪花ドロボー』
妖怪花ドロボー


「北斎 だるせん!」展始まる

「北斎 だるせん!」展始まる
図録がすごい。是非購入を!

だるせん!北斎図録表紙
場所:名古屋市博物館
期日:11月18日(土)~12月17日(日)


 「また北斎展か、もう十分だ。また富嶽36景などが展示されるのだろう。画集も何冊かあるし」と思ったが、北斎というネームバリューには勝てず、僕はまた出かけた。だが本展の図録(写真右)を手に取りオッたまげた。すごく凝っているのだ。まず装丁が江戸時代の草子物に似せて各ページが二つに折られた袋綴じになっており、綴じは糸で縫ったように見えて開く前から興奮する。

古く見える綴じ本(高力猿猴庵著)
 また古く汚れた感じのとじ込みの小誌も図録内にあってまた感激する。今まで美術館が発行したどの図録とも違う。
写真左:図録内に挟み込まれた小冊子、高力猿猴庵が北斎の大だるまイベントの様子を詳しく絵入りで書き留めたもの

 この展覧会はこれまであまり重きを置かれていなかった北斎と名古屋の関係に焦点を合わせている。だから図録内容は、丁度200年前の1817年、北斎が58歳の折に名古屋にやってきて、自分の本の宣伝のため大須の本願寺西別院で行ったイベント等が中心になっている。120畳(18m×11m)の和紙に描いただるま絵の大イベントの検証や、その他名古屋で描かれた北斎漫画や名古屋の本屋永楽屋など名古屋人との交流などが書かれている。
 「だるせん」とは大だるまを描いた北斎に熱狂した名古屋の人々が北斎を「達磨先生」ともてはやしそれが略されて「だるせん」となったとのこと。この巨大作品イベント、江戸音羽の護国寺でも1804年に行われているが、江戸から離れた名古屋ではこのような変わった発表が少なく、お江戸から来た有名人のパフォーマンスに人々も非常に驚嘆興奮し、大いに宣伝効果があったことが分かる。

北斎漫画第8編より
 今回の展覧会では、富嶽36景などに劣らずすごいと僕が思っている北斎漫画にも焦点が当てられている。
写真右:北斎漫画より 北斎のずば抜けたデッサン力が分かる
というのは北斎がこれを描いたのは53歳の折でしかも名古屋でのことだからである。上記の大だるま絵のイベントはこの北斎漫画を売り込むためのプロモーションパフォーマンスだったのである。北斎漫画は大人気を博し、15編まで増刷している。江戸の版元の角丸屋甚助と名古屋の版元の永楽屋東四郎と組んでやったのだ。北斎は北斎漫画を名古屋市中区の名古屋市美術館の東に住む牧墨僊の屋敷に居候して描いたらしい。北斎は名古屋が気にいって「ここはおれの体に気候も食べ物もあっている。だから死に場所としてもいい」とまで言っていたそうだ。きっと食べ物もおいしかったに違いない。

 余談だが、この北斎の言葉を使い名古屋の食べ物を宣伝してみたらどうだろうか。ご存知だろうが、「1000〜1999年に世界へ最も功績のあった人ベスト100人」の中に日本人では北斎だけが選ばれている。そこで名古屋人は「日本一世界で功績のあった北斎がおいしいと言った名古屋めし」とでも銘打って売り出してはどうか。また彼が居候していた牧墨僊の屋敷から大須までは数百メートルだ。きっと北斎も大須観音へ出掛けういろうを食したに違いない。これも使わない手はない。例えば「大須北斎ういろう」というネーミングでういろうを売ってみたらどうだろうか。ういろうは白と青の波状のものにし、パッケージまたは包装紙はあの「グレートウェーブ(神奈川沖浪裏)」のデザインを取り入れる。大須へは外国人もたくさんやって来る。今や北斎のグレートウェーブは世界的に有名だから、包装紙欲しさに買う人も多いのではないか。そして北斎と名古屋の関係も知ってもらえる。僕のニューヨーク個展でもあの「神奈川沖浪裏」を取り入れ、上に妖怪コウモリを描いた作品を展示したら訪れた外国人すべてが足を止め、“Oh, Great Waves!”と反応を示していた。又僕の個展を知らせる現地の3社の新聞でもこの絵が使われた。

『きしめん紳士が行く』と『ナゴハラ』
 実は僕は大須ういろうには思い出がある。40年以上も前のことだが、先日亡くなった風媒社の稲垣さんに連れられ、大須ういろうの社長室へ行き僕が出す『きしめん紳士が行く』(風媒社)というタイトルの本のアイデアをもらったことがある。又次に出版した『ナゴハラ』(名古屋ハラスメント)には表紙帯文を書いてもらったりしてすごく可愛がってもらった。この本、生まれて初めてベストセラーの8位になり、朝日新聞で紙面の半分を使ってPRしてもらった。もし僕の考えた「大須北斎ういろう」がヒットしたら、あの世で山田昇平社長が喜んでくれるだろう。
写真左:僕の著書『きしめん紳士が行く』と『ナゴハラ』

富嶽36景尾州不二見原
 図録に話を戻すと、最後の方には、北斎の代表作『富嶽36景』の内の一枚『尾州不二見原』に関して、江戸時代からの疑問「名古屋の富士見町(不二見原)から本当に富士山が見えたのか?」の検証がしっかり行われている。
写真右:北斎画『富嶽36景 尾州不二見原』
この絵の場所、不二見原は上前津から金山へかけての丘陵地帯で、たとえ現在のように高層ビルがない江戸時代でも、この場所からは見ることが不可能だと科学的調査で証明している。1100m以上の上空でないと見ることは無理であるとか。それでもこれまで見えていたという証言があるのは、富士の手前にある聖岳の3013mを富士山と勘違いしたのであろうと書いてある。

写真下左:黒枠内が江戸時代富士山が見えると言われていた富士見町(不二見原)
右:高力猿猴庵 「富士見原真景之図(部分)」猿猴庵が尾張藩重臣山村氏より依頼されその下屋敷庭園からの眺望を描いたパノラマ図 確かに富士山が描かれている。

富士山が見えたと言われる名古屋の富士見町 富士見原真景之図(部分)
 北斎は大きな桶の円を通して小さく見える富士の奇抜な構図で描いている。絵が面白くなるのならいくらでもアイデアを出して創作しようとする‘アーティスト’北斎の意欲がうかがえる。

 このような名古屋に焦点を当てた素晴らしい図録が作れたのは、この北斎展がこの地だけの展覧会であることが第一の理由だろうが、それにもまして博物館の職員のやる気があったからであろう。面倒なことは避け、業者任せにするという手抜きがない。この手の図録は写真が中心だが、この図録は比較的文字部分が多い。しかしマンガで描かれた北斎や永楽屋、墨僊、猿猴庵などを登場させ、名古屋弁で分かりやすく面白く解説して読みやすくなっている。学芸員の皆さんのアイデアが詰っていて、やる気満々の副館長をはじめ皆さんの努力がひしひしと感じられる。
 副館長は以前名古屋市美術館でも副館長をしておられ、ピカソ展の折僕は彼から講演を依頼されたことがある。僕がピカソに関す『「ピカソはやっぱり名古屋人』を出版した後だったと思う。かつての「ゴミ裁判事件」以来、反体制的だという噂が残っていた僕に公立の美術館であるにもかかわらず声をかけてくれたのだ。300人程入れる講演会場に立ち見がでるほどの観客が入り、副館長にも喜んでもらえ、僕も嬉しかったことが記憶に残っている。

展覧会場の大だるま絵の前で記念撮影
 図録の話が中心になってしまったが、展覧会場もいろいろお楽しみがある。北斎の描いた大だるま絵の実物大のコピー作品が会場内に展示してあり、その上で大箒を持ってだるまを描いている北斎(高力猿猴庵描く)と一緒に写真を撮ることもできる。歴史に興味のある人にとっても楽しい展覧会だ。

写真右:大だるまの前で記念撮影、手前は猿猴庵が描いた北斎

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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