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山田彊一とその仲間・イン・ニューヨーク展を終えて

山田彊一とその仲間・イン・ニューヨーク展を終えて

 1週間のニューヨークでの我々の展覧会は「上手、うまいですね!」等の声を受けながら無事終わった。現地に住む日本人だけでなくニューヨークの一般市民、美術関係者も大勢訪れ、「斬新な手法だ」とか「発想が独創的だ」と言った感想もいただいた。「ナゴヤの画家はレベルが高いのですね」とも言われ、皆さん自信を付けて帰ってきたようだ。 


 23歳(1961年)で日本人アーティスト14人展に選ばれ、ニューヨークの画廊で展覧会が開催された時、飛んでいきたかった僕だが、家族の反対やいろいろな条件でいけなかった。その後1990年代になってやっと二度ニューヨークを訪れる機会を得た。したがって今回のニューヨークは僕にとって3度目、20数年ぶりの訪問となる。
ツインタワー右端 前回と比べてニューヨークはハーレム地区やグランド・ゼロを除けば大きく変わったという印象はあまり受けなかった。前回はまだ存在していたツインタワーに登り真下に見える自由の女神に感激したものだ。その時はここに飛行機が2機も突っ込む日が来るなんて思いもしなかった。
写真右:ツインタワーがあった20数年前のマンハッタン。イーストリバーを渡りブルックリンからマンハッタンを見る

 今回、グランド・ゼロには是非行ってみたいと思っていたので、僕らの開いている美術展が5時に閉館したあと、一人地下鉄に乗ってこの更地となった場所を尋ねてみた。

グランド・ゼロ
2つのビルのあった場所には約50m四方のプール状の四角い穴が掘られ、水が流れていた。
写真左:グランド・ゼロ プール状にほられた四角い穴の中にもう一つ小さい四角の穴がありそこに水が流れていく 




 御影石でできたプールサイドに当たる四辺には亡くなった人の名が刻まれている。名前のほられた凹部には所々花がさしてある。身内が来て花を手向けていったのであろう。ここでは足が急に重くなったように感じられた。なぜか磁石で引っ張られているような感じだった。
写真下:亡くなった人の名前が掘られた文字に刺された花
名前に差し込まれた花


シャッターの落書きハーレム
 僕が変わったと感じたもう一つの地区、ハーレムは町全体が明るくなり、高級化していた。以前は街中に落書きが散乱し、鼻の高い白人顔のマネキンを全て黒塗りにしたものが妖怪以上に異様に見えていたが、今回は見られなかったし、周りを警戒しながら足早に歩く必要もなかった。かつて各商店は鉄格子のようなシャッターに南京錠のような鍵がかかり物々しかったがこれもなかった。
写真右上と下:20数年前のハーレム いたるt頃に落書きが描かれていて、落書きが壁画風になっているものも多々あった。
壁の落書きハーレム


改装されたアポロシアター
 有名なアポロ劇場(写真右)は同じ場所にあったが新装されてきれいになっていた。途中でトイレに行きたくなり、スタバに入ってコーヒーを注文せずに用を足したが、何の問題もなかった。




 僕らの旅は自由行動の日がほとんどだったので、適当なグループに分かれてそれぞれが行きたいところへ行くことになっていた。僕は美術館やギャラリー、街角の美術状況などを見たかったので、それに賛同する人がついてきたが、あまりに歩かされるので、途中から脱落、半数はタクシーを使ったり、次の日からは別行動と徐々に数が減っていった。最後は大須の馬場さんを除いて誰も僕と一緒に行くと言わず、男2人で歩き回った。彼は若い美しい奥さんがいるから女性たちのグループには入れなかった?ようだ。僕の旅行はアフリカだろうが南米やチベットだろうが10㎏を超す荷を背負って常にもっとたくさん歩いている。しかも平坦な市街地でなく険しい道や極寒、酷暑の旅も多かった。僕にとっては歩くのが旅なのだ。自分の足で歩けば、テレビで外国風景を見ているのとは違った発見がある。

 この旅でもいろいろ面白い物事に出くわしたが、僕にとって一番良かったのは僕のこれからの人生の新しい目標がまた1つ決まったことだ。僕たちの展覧会の世話をしてくれた日系の女性と話をしているうちに二人で『ニューヨークの妖怪』(仮題)の本を出そうという話がまとまったのだ。僕の癖で若く美しい女性と話していると、彼女の気を引こうと話が弾み、(いや話を弾ませ)余分なことまでしゃべってしまう。話題が妖怪に及んだら、彼女も妖怪に関心のあることが分かり、僕の本『名古屋力・妖怪篇』をあげたら、翌日にはもう読み終わっていて面白かったと言ってくれ、ニューヨークの妖怪について書こうということになったのだ。彼女と話さなければニューヨークの妖怪なんて思いつかなかった。だがこのアイデアは面白い。ニューヨークと妖怪、一見ミスマッチのように思えるところがいい。以前エンパイヤステートビルにゴリラが登る映画のシーンがあったけれど、あれと変わらないインパクトがある。雪舟や中国の妖怪はちょっと後回しだ。後はこのニューヨーク妖怪のアイデアを、誰かに先を越されないことだ。
 こんなことを考えながら帰国したら「新聞報社」から明日までに名古屋市博物館の『妖怪展』紹介の原稿を出せと言われ急遽書かされた。その記事をちょっと紹介させていただく。


名古屋市博物館での「妖怪講演」

 来る6月14日(土)、名古屋市博物館で僕の『ナゴヤの妖怪』についての講演がある。ニューヨークの美術展から帰ったばかりで、どのようにまとめるかまだ考えてない。ニューヨークでは妖怪好きの日系の女史に僕の『名古屋力・妖怪篇』をあげたら話が弾み、二人で『ニューヨークの妖怪』の本を出版しようとなった。彼女は長くこの街で暮らし、隅から隅まで知っているから霊感スポットにも詳しい。
 「山彊先生、ニューヨークにも妖怪がいるのですか?」いますよ。グランド・ゼロに一人で行ったら、靴が鉛のように重くなった。9.11で犠牲になった人々が靴を引っ張っているのではないかと感じ冷や汗をかいた。何かいると感じた。
 妖怪は実体として存在するものではなく人々が勝手に創り出していくもの。『ろくろ首』の妖怪は江戸時代の仮名草子等に登場し、現代でも生き残っている妖怪の一つ。「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる目玉おやじやねずみ男は水木しげるの創り出したもの。ニューヨークでも誰かが創り出し、それが人々の間で定着すれば妖怪として残るわけだ。
 「山彊先生はその妖怪を生み出そうとしているのですね。100年後二ューヨークに彼女や先生が創った妖怪が残っているかもしれないわけですね」。墓場から戻って確認にやって来てやる。 
 「ところで先生、幽霊と妖怪はどう違うのですか」。柳田國男に言わせれば「妖怪は場所に憑き幽霊は人に憑く」「妖怪は宵と暁に出るが幽霊は真夜中に出る」となるが、現在彼の論は批判されている。
 そんなこともあり、僕はそこで何か不思議なものを全て妖怪としてまとめ本にしたわけだ。梅原猛や五木寛之は60年代に水木しげるが神様を全て妖怪にしてしまったと言っている。井戸神様、家神様、便所の神様等が全て妖怪になってしまった。
 「とするとうちの妻の山の神も妖怪のわけだ」「稼ぎが悪い亭主は貧乏神だからあなたも貧乏妖怪になるわけね」


 話がニューヨーク展からそれてしまったが、展覧会の状況や現地の新聞で取り上げられたことなど、詳しくはまた次回のブログで語りたいと思っている。また今後、ニューヨークの女史の助けを受けながら『ニューヨークの妖怪』の原稿を折にふれてこのブログに載せたいと思っている。乞うご期待。勿論妖怪の絵も描くつもりだ。ただ8月16日から30日までの名古屋画廊の回顧個展を控え、ペースは落ちるかもしれないが。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)         『名古屋・妖怪三十六景』(ワイズ出版)等          

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