ニーチェと雪舟

「ニーチェと雪舟」

ニーチェ
 近ごろマスコミでニーチェが取り上げられることが多くなった。福島の原発で生きる気力を無くした人が多いからだろうか。地震や津波なら復興の仕方もあるが、放射能相手では気力も失せるのだろう。僕も小学5年生の頃、死の存在に気付き、どうせ死んでしまうのなら何をしても無駄ではないかという恐怖にとりつかれたことがある。この恐怖は強くなったり、弱くなったりしながら続いたが、特に中学や高校の2年生になるとまた僕の頭を完全に独占した。寝る時が一番しんどい。真っ白けの空間に身体が吸い込まれていくのだ。地獄で閻魔にどつかれているならまだ救いもあるが、虚無の空間で何もないのが一番しんどい。ところで何故1、3年生時はその恐怖がなかったのかというと、1年生時は新しい仲間と出会ったり緊張があり、3年生は受験で追い込まれて死の恐怖も吹っ飛んでいたのだろう。大学2年の折は死の恐怖にとらわれず、すんなりいった。次々と恋をし、また振られたりと忙しかったためだ。恋をするなら、よりレベルの高い、できれば吉永小百合級の彼女を得ようと思い、そのためには自分自身がアートで日本一になろうと必死だったからである。とにかく何かに必死になると死の恐怖を回避できるのだ。だが絵にせよ恋にせよある程度目標を達成すると、また死の恐怖が襲いかかる。 ニーチェの肖像写真(写真:右上)

 そんな折読んだのがニーチェやカミュ、サルトルだった。ニーチェの言う「神は死んだ」(神はいない)なんて僕の頭の中では小学5年から認知していた。(無神論者であるからでもあるが)だから生きることに恐怖していたのだ。ニーチェは神の死で目標をなくした人間はニヒリズムになると説く。僕の周辺の男たちは今これに陥っている者がほとんどだ。「山彊さん、どうせ後しばらくしたら死んでいくのに、何故未だにあくせく頑張っているの?」とよく言われる。僕がかつて尊敬していた先輩は美大教授を定年で辞めるともう絵筆を折って描かなくなってしまった。それまで美大教授を看板にどれだけ作品を売ったことか。買ってくれた人にどう説明するのか。人はそんなに知られてもいない彼でも定年後の活躍を信じ、支援したいから購入したのではないか。また、では仲間の言う「しばらくしたら死んでいくのに」というしばらくは何歳を指すのか。僕は小学校5年で「しばらくしたら死んでいく」と思っていた。ニーチェはこの解決方法も述べている。彼は言う。「人間は勤勉に働くラクダと権力を持つライオンと幼児のような素直さを持て」と。僕はこの言葉に救われた。教育でも絵でも、今のカルチャーセンターでの指導でも必死でやっている。逃げたことがない。その中には他の誰も僕のまねはできないぞ、いずれ歴史に残ってやるといったライオン感覚も存在している。そして幼児のように好奇心旺盛で新しいこと、珍しいことにはすぐ飛びつく。最近あらためてニーチェを読んで自分の生き方がニーチェの説くところと同方向だと再確認している。ただニーチェは永遠回帰という死の恐怖を乗り越える方法も語るが、これに関しては僕は今一つ納得できない部分がある。

 ところで、僕は雪舟の研究もしている。死ぬ1年前までに、この芸術論兼人生論の本を出したいと思っている。雪舟はニーチェの生まれる500年も前にニーチェの思想にたどり着いたと言っていい。


雪舟
 雪舟は京都相國寺で40歳過ぎまで位の低い知客という役職で客の案内人をしていた。常に家柄のいい同僚から蔑まれていた彼は、必死に働きながらもライオン精神を忘れていなかった。この相國寺は日本での最高位に入る寺の1つであったが、中国五山の1つである天童寺の従寺に相当する寺でもあった。雪舟は長く低い役職に甘んじていたが、いずれは名をなしてやるという思いがあったのではないか。当時足利氏の京都で実権を握っていたのは山口を拠点として西国を支配していた大内氏だった。雪舟は知客で知り合った縁故でその大内領内に住まいを移した。力を得ていた大内氏は遣明船をだす権限も得ていた。雪舟はこの船に潜り込んで明の寧波に向かった。そこにある相國寺の親寺である天童寺に入り、持ち前のラクダ精神でもって無料で働き、無料の絵も描きまくった。1年後の帰国時、天童寺はそのお礼に、これまで日本人の誰にも渡したことがない礼状『四明天童第一座』を与えた。これは賞というよりただの礼状であった。
雪舟、71歳の肖像画(弟子が描く)(写真上)
遣明船
雪舟が乗って寧波へ渡った遣明船(写真上)

 けれど日本ではこれが水戸黄門の印籠のようなものであった。相國寺の元同僚達は無視を決め込んだが、雪舟はこの賞のおかげで狩野派が元祖と祭り上げる大作家となって行く。そういったこと全てがあいまって雪舟の名は今でも美術史上に燦然と輝いている。「山彊先生も、だから大きな賞を狙っているわけね」。いや、なんでもいいから生きる目標を持とうとしているだけだ。
 雪舟は相國寺の者たちに村八分にされていたから、ある意味大変だったかもしれない。だが47歳で明に渡り、86歳まで生きた。ニヒリズムをうまく解消したからではないか。

 今年の8月に3週間程雪舟の痕跡を求めて船で中国へ行く計画であったが時間がとれなかった。10月中にいかないと北東の風がだんだん北寄りとなり、遣明船と同じ条件で渡れない。もし時間が取れたら明日にでも出かけたいが。次回のブログはその報告を。なんと遣明船と同じように今、大阪から東シナ海を渡り中国へ至る船が出ているのだ。その船を鑑真号と呼ぶ。
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 おはよう御座います、同窓会でお話しさせて頂いた元生徒です、
同窓会の連絡を受けて津賀田の事を調べていたらこちらにたどり着きました。
 先生は相変わらずだな~と言うのが印象で、同窓会でのお話を聞いて
それを確認しました(笑 これからも頑張ってください。
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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