クリミア半島がロシア領に、九州も中国領に?

クリミア半島がロシア領に、九州も中国領に?

 ウクライナ情勢が緊迫している。クリミア住民投票の結果、2014年3月18日にロシアがクリミア半島の編入を宣言した。ウクライナ政府および国際社会の多数派の非難や国際連合の住民投票無効とする決議にもかかわらず、現在事実上、ロシアの実効支配下にある。これは皆さんニュースなどでご存知のことだが、こんなことを書いたのは、僕がすぐ近くのグルジアへ行った時の情勢とダブって見えるからだ。

朝日新聞の僕の記事
 1999年1月、僕は単身旧ソ連領であるグルジアへ出掛けた。当時僕は老後の福祉研究や長寿に関することを調べていた。
写真右:この旅行の顛末を書いた朝日新聞の僕の記事
 そこでかつて世界三大長寿郷と言われていた3か所(エクアドルのビルカバンバ、パキスタンのフンザ王国、それとグルジア)を全部訪れてみようと思い、出かけたわけだ。前の2か所はすでに訪れている。ほとんどの長寿研究者は春夏にかけて調査に出かけるが、それではお年寄りのつらさを目の当たりにできないと思い、一番寒い時期に僕は出かけた。

 このグルジアの中でも黒海に面したグルジア北西のアブハジアは特に長寿として知られ、また風光明美で旧ソ連の保養地でもありここに僕は長く滞在して調査するつもりであった。
 僕はグルジアの首都であるトビリシから汽車に乗ってここを目指そうとした。トビリシ中央駅でアブハジア行きの列車を探した。だが張り出されている時刻表のどこにもこのアブハジアの文字が無かった。訊ねようにも、言葉はわからないし、この国には日本大使館はないし、日本人の一人たりとも12日間の滞在中会うことはなかった。
 「山彊先生、旅行案内書を持っていかなかったのですか」。案内本を買おうとして探したけれど、どこの旅行関係の出版社もグルジア篇は発行していなかった。古本屋でやっと10年以上前の旅行案内書である『地球の歩き方』グルジア篇を見つけ購入した。これにはちゃんとこの駅でアブハジア行きのチケットが買えると書いてある。やむなくグルジア語しか分からない駅員に地図を見せながら尋ねた。半ば意味不明だったが、駅員は「アブハジアに列車はもう行っていない」というような返答だった。さみしそうな表情からして言いたくないようだった。

難民の避難所となった高級ホテル この駅員の表情から、僕はグルジアの現状を理解した。10年以上前の『地球の歩き方』には載っているトビリシの大きなホテルは、全てアブハジア等から逃げてきた難民の避難所となっており、僕は旅行の案内本に載っていない小さなホテルにしか泊まれなかった。
写真左:難民に明け渡され洗濯物が翻るかつての高級ホテル
 また町の中央のビルにはいたる所に弾丸で空いた穴が見られ、市街戦が起きたことを物語っていた。
 ちなみに1991年ソ連からグルジア共和国が独立し、1992年そのグルジア共和国内部からアブハジア共和国が独立を宣言したため、その後内戦が続き、1999年10月に公式にアブハジア共和国が独立を宣言している。
 僕が出かけたのはそんな戦中ともいえる時期だ。10年程前までこの国はグルジア系の民が70~80パーセントいてそれなりにまとまっていたが、20パーセント程しかいないロシア系の民が騒ぎだしてから状況は変わってしまった。関係のないロシア軍が出動し、首都まで追い詰められたグルジア軍は降参してしまった。その結果グルジアはアブハジアを放棄して、そこにはロシア系住民だけが住むようになった。アブハジアに住んでいたグルジア系の民は追い出され、グルジア政府は彼らに大ホテルを無料で開放し住ませることにした。このロシアの動き、今回のクリミアと全く同じではないか。

美しいパン屋の娘
 こんなわけで僕は12日間、首都トビリシの値段だけは8000円もするボロホテルから、向かいにある難民で埋まった高級ホテルを見て過ごすことになった。余計なことを一つ書けば、パン屋の娘が美人で僕は毎日買いに出かけていた。さすが美女の国(ギリシア神話に登場する美しい女性だけの国、アマゾネスはグルジア付近とも言われている)と称されることはある。
写真右:美しいパン屋の娘。もちろん右。毎日ここのパンをおいしく食べながら歩いた。

スターリンの乗った列車
 滞在中レストランで知り合いになった家族が、僕の動きの取れない状況を気の毒に思ってか、父母の里へ招待してくれた。もちろんめったにやってこない日本人という珍しさもあり、いろいろ話が聞きたかったようだ。この地はゴリと言ってトビリシから車で4~5時間北西に行ったところにある。あのスターリンの生誕地でもあり、スターリンの使った列車も展示されていたりした。
写真左:ゴリ市内に展示されているスターリンの乗った列車


ゴリの祖父と孫娘たち
 昼頃に家族の父親の運転する車でゴリに着いた。彼は僕を近所の家々に日本から来た人と言って紹介してまわり、各家庭は大歓迎してくれ、名物のワインをごちそうになった。父母の家では夕食をごちそうになり、さらに是非と勧められて1泊までさせてもらった。写真右:僕を車でゴリへ連れて行ってくれた男性の父親と孫娘と僕
 孫娘たちは日本に行って歌手になりたいと、夕食の後、僕に歌を聞かせてくれた。写真下:ギターを弾き歌ってくれた孫娘
 母からの息子家族への帰りのお土産はバケツいっぱいのじゃがいもと生きた鶏3羽だった。皆明るくもてなしてくれたが、戦争の暗い影はぬぐうべくもなかった。
ギターを弾く孫娘

 こんな旅の中、ふと気づいたのは、いずれ日本も隣の大国、中国に同じことをやられ、沖縄はもちろん九州も奪われるのではないかという懸念だった。いずれ中国の共産党政権が崩壊する。と、なると難民が沖縄や九州に逃れてくるだろう。中国はでかく民も多いから難民の数は小さく見積もっても九州の人口の2,3割にはなるであろう。いつまでも居座る難民に対し当然日本人は排除しようとするだろう。そうなった時、次の中国の政権を握った連中は、自国民を助けるという言い訳をでっち上げ九州を占領してしまうのではないか。そして新たな難民となった九州の日本人たちは名古屋にも押しかけ、結局名古屋も大ホテルを提供する羽目になるであろう。またはPM2.5で追い込まれた中国人が、環境難民として日本に押し寄せることも考えられる。ここでも同じ結末になるであろう。

 4月8日の新聞にはウクライナ東部のロシア国境に近いドネツクなどの4都市も、ロシア系市民がロシアの後押しで市役所等を乗っ取ったと出ていた。近頃は北朝鮮の粛正にしても、中国に展開する日系商店や飲食店への中国市民による襲撃、破壊行為にしても数百年も時代が遡ったような怖さを覚えた。教育のない弱肉強食の時代に戻ったようだ。




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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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