山田彊一の60年代の美術作品を探しています

山田彊一の60年代の美術作品を探しています

婆羅門シリーズ№2
 先日名古屋の老舗の画廊から「先生の絵は1960年代に『日本人アーティスト14人展』に選ばれ、ニューヨークで展覧会が行われましたね。あの当時の作品はありますか。あったらそれらで秋に回顧展をしたいのですが」と、うれしい話をいただいた。写真右:婆羅門シリーズ№2(ニューヨーク出品作品の内の1点。これを含めて以下3点の写真は我が家にある作品から)
と言っても半世紀前のことで作品がどうなっているか分からない。画廊側からは「どこにあるか教えてもらえば画廊の方で買い戻しにいかせていただきます」と言われた。ここまで言われると僕も真剣にならざるをえない。個人に売るための小さい作品ではなく大きな作品で開きたいという事で、大きな作品のある場所を特に教えて欲しいということだった。

 二ユーヨーク展出品の同系列作品(僕はそれらを婆羅門シリーズと名付けた)は我が家に10点も残っていない。これ等は大学を卒業する1年前から描き始め、そのあと2年弱で描き上げた作品群だ。それでも畳ぐらいのものを20点以上描いている。
婆羅門シリーズ№4
 『日本人アーティスト14人展』に選ばれた作品は大学4年の折にニューヨークからアートディレクターが我が家へやって来て(彼はこの折名古屋では水谷勇夫と久野真宅へも寄っている)、作品のニューヨーク行きが決まった。僕は作品と一緒にニューヨークへ行き、そこで最先端の絵の修業をしたいと思っていた。しかし家族の猛反対にあい、大学を卒業した後僕は、一時小学校の教師になっていた。けれど直ぐにでも辞めて二ューヨークかせめて東京へ行きたいとうずうずしており、その準備もしていた。だから短い間だったが20点以上を必死に描いたのだ。写真左:婆羅門シリーズ №4(春陽展受賞作の内の1点)

 これ等の作品の一部は、既に愛知県美術館や堀美術館等に購入されてコレクションになっているがまだ他の場所にも相当あるはずだ。ところが見つからない。我が家の押入れを探したり、誰かにあげたり売ったりして分かっているところは連絡を取り、別作品と交換したり買い戻した。それでも12点程(その中の半数以上は新聞紙大で小さい)しか集まっていない。

 そこで今回はこのブログで、僕の作品についてどこかで見たり聞いたりした人がいたら、ぜひ教えていただきたいと思い、お願いしている次第です。

婆羅門シリーズ アジャンタ
 作品がありそうな家に電話をかけて分かったことは、50年以上前の事で僕と関係があった人は亡くなっていたり、お金持ちであっても倒産していたりと作品の所在が分からなくなっていることが多いことだ。僕も長く生きたものだと歴史を感じさせられている。50年も前だと僕と競い合った若いライバル画家がこの名古屋地区だけで100人近くいたが、今はほとんど消えてしまった。写真右:婆羅門シリーズ アジャンタ

 当時日展などの公募展に所属していた美術作家は、欧米ではとっくに認められなくなった時代遅れの絵画を描いていたため、存在感もなく小さくなっていた。その頃のやる気あるアーティスト(僕と競い合ったライバル画家達)は当然のように公募団体を止めフリーの画家になって、世界的なコンクールに出品したり、東京などでの個展を繰り返していた。だが世の中が変わり、美術界にも経済的不況の波は押し寄せ、やる気のあった画家たちは売れる絵を描こうとしなかったため、(彼らにとって一般大衆の好みに迎合して売れる絵を描くことは堕落であった)一人一人と消えていった。世界や日本中を相手に一人でやることはしんどいのだろう。もちろん鬼籍に入った者もいるし、教師になって自分の作品は発表しなくなった者もいる。だからほとんどが消えてしまった。代わって公募団体に属していた者たちがこの名古屋では大きな面をしている。


婆羅門シリーズ 3匹
 実はこの頃、僕が必死に作品創りをしたもう一つの理由は、大学4年から付き合いだした彼女に振られたことだ。僕らの関係はまだプラトニックな付き合いに過ぎなかったのだが、彼女の親が「小学校の先生なんかに娘をやりたくない」と猛反対をしたため、僕らは駆け落ちをしようと決意した。中央線に乗って中津川まで行ったけれど、大学を出たての世間知らずの2人は、ちょっと怖気づいたこともあり、1か月程頭を冷やして考えようと1か月後の再会を約束して別れた。1か月後、会うはずだったそのデートの日が、親の仕組んだ他の男性との結婚式の日だった。僕は駅前の喫茶店で待ちぼうけを食わされ電話をかけて事実を知った。このあたりの下りは僕の本『名古屋力・アート編』に詳しく書いてあるので読めば当時の僕の動揺が分かる。写真上:婆羅門シリーズ 3匹

 だが僕は何故か振られると猛烈な闘争エネルギーが湧く。自分がその程度の男と軽く見られたことに我慢が出来ないのだ。<今にみておれ!俺の真の実力がどれほどのものか見せてやる!俺を振ったことを後悔するぞ!>とがむしゃらに頑張り、新しいことに挑戦したりするのだ。「山彊先生は若い頃から作風が色々変わっていますが、その都度振られたのですかね?」そうかも。

 おっと話がそれてしまったが、そんなわけで大学4年からの3年間僕は猛烈に婆羅門シリーズを描きまくった。だが当時の僕は自分の作品に対する執着心があまりなく、またアトリエの収納スペースにも限りがあったりして、ずいぶん友人や同僚にあげたり安いお金で売ってしまった。

 というわけで重ねて、僕のかつての作品に関して何か情報がありましたらお知らせください。よろしくお願い致します。

 

さて例によって今回も平成名古屋百鬼夜行の妖怪の中から「恋愛関係の妖怪作品」を2点紹介させていただく。

㉜「妖怪・恋の水神社のエビ天使」

恋の水神社の妖怪エビ天使
 知多半島の内海近くに『恋の水神社』があり、ここへペアーで行くと結婚できるそうだ。二度行くと別れられるそうだ。そんなことは境内の説明には書かれていないが、学生たちの口コミによって知られている。そのすぐ近くに『エビせんべいの里』がある。エビせんべいのエビと恋のキューピッドをテーマにして描いてみた。この神社は日本福祉大学で僕が教えていた頃、学生とよく出掛けたところだ。






㉝『妖怪ピカソ』

妖怪ピカソ
 ピカソは女にもてるため絵を描いていたと友人のカサヘマスが言っている。これは僕にも当てはまる。ニューヨーク展に選抜され出品が決まった時は、周りの女性の多くが急に僕に親しく話しかけてきて誰に声をかけてもナンパできると思ったものだ。ピカソは20世紀最大の画家。彼が描いて有名になった『アビニヨンの娘たち』はアフリカの妖怪面を見て描いたもの。ピカソはある意味で妖怪だと僕は思っているが、妖怪には妖怪が分かるようだ。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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