『かぐや姫の物語』―このアニメは実験段階の作品で完成していないのではないか?

『かぐや姫の物語』
このアニメは実験段階の作品で完成していないのではないか?

美術手帳表紙
 「高畑勲さんによる衝撃のアニメ」と言われる『かぐや姫の物語』が評判になっている。絵描き達のバイブルでもある『美術手帳』まで特集を組み、奈良美智さんを引っ張り出して高畑勲さんと対談させている。そんなにすごいのかと好奇心旺盛な僕はすぐに劇場まで、このアニメを見るため飛んで行った。
写真右:美術手帳表紙
 20年程も前の話だけれど、僕もこれまで2本のショートアニメ(1本5分くらいのもの)をNHKに依頼され制作したことがある。しかも1本は7.4パーセントの視聴率で年間トップだったと担当ディレクターに言われた。だから僕もアニメに関しては一応分かっているつもりだ。まず結論を言ってしまうと、この『かぐや姫の物語』を見た僕の感想は「ひょっとして、失敗だったのではないか」ということだ。
 その理由の1つは、全体として見た後の高揚感がないことだ。部分部分で感激した場面はあってもそれが相乗作用として高まってこない。きっと高畑さんも気づいていたと思う。もちろん悪い作品ではない。新しいアニメの世界を告げる作品であることは間違いない。

里山の風景 奈良さんが言う。「この映画は、筆や鉛筆を使って絵を描いたり、バックに水彩の濃淡があったりして、僕はずっと湿度を感じながら見ていたんです。」と。その通りだと思う。きっちりした輪郭線だとコンピュータで色を塗るのは簡単に出来るけれど、『かぐや姫の物語』のように濃淡や強弱、太い細い、かすれがあるようなニュアンスのある線だとコンピュータでの色塗りは困難だ。『かぐや姫の物語』はアニメーターの描いた線をそのまま生かしている。だからすごいと。写真上:きれいな風景水彩画

 だがあまりにすごいすごいと言われると僕には欠点が目立ってしまう。一番の欠点は絵面がまとまっていないことだ。膨大な原画の枚数のためだろうが、描き手が多すぎてまとまりがない。

かぐや姫の疾走シーン 例えば作品のなかでかぐや姫がすごい速さで野原を疾走するシーンは太い鉛筆タッチで迫力がある。この一連の画面は素晴らしい。
写真右:僕が一番気に入ったかぐや姫の疾走シーン
ところがしばらくすると人物は我々がよく見る普通のアニメの平坦な絵に戻ってしまう。これが全体としてバラバラ感を与えることになってしまう。
 背景の風景はきれいな水彩画で原画そのものは素晴らしかったと思う。だがこの原画を大きな劇場のスクリーンに拡大してみると、完全に間延びしてしまう。絵具のにじみは実際の大きさで見ると美しいが、数百倍に伸ばして映写されると、美しい水彩のにじみはかき消され、ただのモヤモヤしただけの画面になってしまう。その中へフラットに描かれた人物等が登場するとただでさえ崩れているバランスの崩れが倍増する。
 水彩画もカルチャーセンターで教える僕としては、確かに上手な水彩画作品が頻繁に出てくるけれど、僕の生徒の半分は同じくらいの上手さで描ける。描き方を真似れば1,2年で誰でもこの上手さになってしまう。だからこそ絵に個性が欲しかった。

 また、かぐや姫の顔は時々の感情の変化を出すためわざわざ変えたというが、それにしてもどうもまとまりがない。違った人物に見える。かぐや姫の顔に何かアクセントを付けたらどうだろうか。月からの証の櫛を身につけているとか、マリリン・モンローのようなほくろでもいい。(僕がモンローの顔を描く場合、少々似てなくても鼻の横にほくろを付けると不思議とそっくりになってしまう。)

月よりの使者 僕が映像で一番気に入らなかったのは最後の場面で、月から使者が下りてくるところだ。色のないという設定の月からの使者だからモノクロ調であるのは分かるが、幼い頃に見た絵本の竜宮城の挿絵みたいに感じられたことだ。中心の人物に月の使者といった趣が無く、テレビで見る三輪明宏を重ねてしまった。写真上:月からの使者(かぐや姫の左後)

 かぐや姫というテーマは新しい技法の実験のため誰でも知っている物語という意味で選んだのかもしれないが、「そうか、こんな解釈もできるのか」と言ったワクワク感が僕には欲しかった。
 ストーリー面では確かに色彩のない浄土の月と豊かな色彩のあふれる穢土としての地球を対比させ、それでも清濁あわせもつかけがえのない地球への限りない愛をかぐや姫を通して訴えかけている。その点は大いに分かるが、かぐや姫の犯した罪と罰がはっきり示されていない。月で罪を犯し、罰として地球に送られてきたのならば、最後のVIP扱いの月への帰還シーンがどうも納得がいかない。新解釈のストーリーという歌い文句の割には筋が通っていないような気もする。

 いろいろ批判を書き連ねたが、部分部分はそれぞれ完成度が高く、素晴らしい場面も多々ある。しかし全体としてみるとすべてを貫く一つの主張が特に絵画面において欠けているのではというのが僕の感想だ。それはあたかも、多くの人がそれぞれ自分の思う作品を創り上げ、パッチワークとしてつなぎ合わせた場合、個々のパーツは完璧であっても一つの作品となったパッチワークは必ずしも素晴らしくなるとは言えないことと似ている。テーマに一貫性が無くバラバラ感が残るのだ。無理なことだろうが、もし『かぐや姫物物語』を全編一人が鉛筆タッチで描いたらすごいものになるだろうと思う。

カラスのプータ1
 僕のアニメ作りと比べるのはとんでもない話だが、参考のため記させていただく。僕が東京で個展をした時、その会場へ偶然来たNHKのアニメ担当者が僕にアニメを描くことを提案した。新しいことには何でも挑戦したい性格なのですぐ承諾した。プチプチアニメという当時NHKとしては看板のアニメだった。幼稚園児の年代層が対象だった。  
 僕の仕事は物語のストーリーと登場するキャラや背景のラフ画を描くことだ。そのため、すぐ幼稚園の園長数人に取材をして、何に一番園児が興奮するか尋ねまわった。この年頃の特に男の子たちは食べ物とその結果出てくるうんちに一番反応を示すことが分かった

カラスのプータ2
 そこで僕がアニメとして考えたのは、食べるものと出るものに関連を持たせることだった。この主人公にはカラスが扱いやすいと考え、タイトルは『カラスのプータ』と決めた。毛虫を食べたらおケツからちょうちょうが飛び出し、おたまじゃくしならカエルが、目覚まし時計なら時(数字)が出てくるというものだ。視聴率7.4パーセントをとった作品は、蜘蛛を食べておケツから糸を出し、それが空の三日月まで登り、引っ掛かりブランコになるという想定だ。ところがプータがカーコ(プータの彼女)とブランコに乗って遊んでいたら、重さで三日月が折れてしまった。その折れた一部が地上に落下して刺さり、それを月に返すことがテーマになっている。
写真上下:NHKプチプチアニメ『カラスのプータ』1995年

 僕は絵描きだから絵の技法に凝りたいが、そうするとストーリーの面白さを生かせないので、絵コンテはよりシンプルにした。子供向きのアニメの場合はこれが正解だったと今でも思っている。このアニメ、幾度もNHKで放映されたので日本のたくさんの子どもたちは見て知っていると思う。僕は現代美術の作家だがアニメをやったり水彩画をやったり雪舟や妖怪の研究をしたりと何にでも飛びつくから本職の現代美術作家のイメージが崩れ損をしているとよく言われる。 だから、狙いの多い『かぐや姫の物語』への想いは自分への想いでもある。


スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

それ以上のもの作ってみてん。
カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR