戦後愛知のアート、70年の歩み「アイチのチカラ!」展

戦後愛知のアート、70年の歩み
「アイチのチカラ!」展を見て


アイチのチカラ展
 戦後愛知のアート、70年の歩み「アイチのチカラ!」展が愛知県美術館10階で2014年2月2日まで開催されている。
写真右:アイチのチカラ!展パンフ

 愛知県美術館が建てられたのは、僕が18歳で絵描きを目指して本格的に絵を描き始めたちょうどその年だ。それから60年近く僕は絵にはまり込んでいる。
 その当時のアートシーンで最先端を突っ走っていたのはアメリカのアートだった。若く、意欲のある画家たちの視線はアメリカンアートの動向に集中していた。アメリカで新しいアートが始まるとその1年後には東京で同じスタイルのアート作品が発表される。名古屋に住んでまだ学生だった僕はその1年後にこの愛知で同じようにそれを見習った。だからこの地では最初に現代アートの最新スタイルの作品を発表している。アメリカを中心に次々と創り出されるアートに負けじと即チャレンジしていた。同じようなといっても僕には意地がある。単なる真似はしない。一工夫加えたり、レベルを相当上げての作品制作をしていたつもりだ。
 時代は少し前になるが、デュシャンがカプセルに詰めたパリの空気をニューヨークに持ち帰り話題をとったことを知った僕は、すぐインドに飛んでガンジス川の水を持ち帰り、利根川や琵琶湖、木曽川の都市水道の取り入れ口にガンジスの水を流している。ガンジス川の水で沐浴すれば、罪や汚れが洗い流されるという。それぞれの都民、市民を知らず知らずのうちにガンジス川の水で沐浴させ罪を洗い流させようという試みだ。当時流行のコンセプチュアルアートとパフォーマンスアートを兼ねたアートを狙った。当時次々と作り出された僕のアートは、時間差を考慮しなければ負けてはいないつもりだ。しかしアートは創造の芸術だから最初にやらなければ意味がない。今どんなにかっこよく大西洋を横断しようとコロンブスに勝てないのに似ている。
 では愛知では僕がダントツで開拓者だ、と威張っていいはずだが、この愛知は芸どころ、すなわち伝統的芸能の地、世襲や因習が大切にされる所だからそうはならない。現代芸術の分野ですら、新しいこと創造的なことなんて評価に入っていない。加えて僕のアートは名古屋では新しすぎた。アメリカの現代美術の動向など知ろうともしない人々にとって、当時の僕のやってたことは、一般の理解を越えるもの、わけの分からないクエスチョンだらけの行動だったのだ。
 しかし今回の「アイチのチカラ!」美術展はその愛知の伝統アートをある部分では覆して展示しているところが、新鮮で嬉しい。
 さてこの展示を見た僕の友人が「戦後の最初のアートは愛知教育大学が牛耳ったのでしょう。県芸、名芸、名造形大の先生が特陳で飾られているのに何故教育大学が入っていないのか、おかしいよね」と言った。僕も気になってすぐ考えてみた。確かに僕が美術を勉強したいと思って大学を探していた時、名古屋地方には学芸大学(現教育大学)しか美術科がなかった。東京に出ることに大反対された僕はやむなく学芸大学に入ったのだ。10年後くらい後に県芸、名造形大、名芸が順に設立された。だから教育大の当時の教授たちの作品があってもおかしくはない。しかしこの理由はすぐに分かった。教育大の先生はほとんどが日展系の人ばかり。日展をはじめとする公募展団体では、年功序列や人脈、お金で入選が決まることがあっても新しさ、創造は評価の対象にはならないから、今回のこの展覧会に選ばれるような作家がいないのだ。そう思ってこの美術展をみるとわかりやすい。やっとこの地の美術館も東京や大阪に負けない企画がやれるようになった。ようやくこの名古屋の地でも時代が動いたようだ。むろん僕の作品も若き日の僕の独創的なアートとして展示されているのであって、断じて日展系ではない。

座談会風景
 この美術展に合わせて12月14日には豊田の美術館館長や元愛知県美の副館長、それに加え評論家による記念座談会が開かれた。
写真左:座談会風景
この座談会もよかった。これまでこの地では取り上げられなかった(黙殺されていた)ゼロ次元やごみ裁判と言った全国に知られた運動が話の中心を占めたことだ。
 ゴミ事件(ごみ裁判)とは僕の後輩の美術家たちが美術館にゴミもどきの作品を出し、美術館の審議員(大きな公募展の代表たち)によって作品が撤去されてしまった事件だ。それが裁判に発展し、僕と岩田信一、美術評論家の針生一郎氏が後輩たち、すなわち原告側の裁判の証言台に立った。結果は敗訴となり、僕はその後、まだ保守体制派が支配するこの名古屋の美術界で苦しい戦いを余儀なくされた。同じころ京都では美術作家たちが美術館で火を使って問題になったが、この折は作家と美術館の学芸員が話し合って大きな問題とはならなかった。さすが先進文化都市だ。だが当時愛知県美術館には学芸員がおらず、代わりに公募展の親分作家が審議員として牛耳っていたため、ゴミ事件も新しいものを嫌う体制派に押し切られた。
 この様なかつては黙殺されたことが、この座談会では話のポイントを占め、話題に出てくること自体、ああ時代が変わったなと実感させられ納得もした。まあそのようなことも頭に入れ見ていただくと面白みが増すのではと思う。

ニューヨーク14人展冊子の表紙
 僕の作品は60年代前半の展示室にあり、23歳の折に描いたものだ。この作品によって僕は同年、アメリカ人の評論家に日本の代表美術家14人に最年少で選ばれた。戦後始めて日本人の作品がニューヨークで1年間、展示され、それが帰って来たものがここに展示されている。写真右:ニューヨークで開かれた14 JAPANESE ARTISTS 展の冊子の表紙
若かった僕が必死に新しい美術を模索していた時の作品で、アメリカで認められたということが何よりもうれしかった。当時津市の彼女に振られ、失恋の痛手から脱出するため「よおし、寛一お宮の寛一になって見返してやる」と決意して描いたというのも動機の一つだ。「転んでもただでは起きない」(笑)という迫力を感じ取っていただけるとありがたい。


14人展冊子内 僕の紹介ページ
写真左;写真上の冊子の中の僕の作品紹介ページ









ニューヨーク選抜14人展’64<婆羅門>
写真左:<婆羅門> 上の写真の冊子、右ページの作品のオリジナルカラー版  現在アイチのチカラ展に出品されているもの
















げんぴん焼
※我が家で11月に開催した妖怪展の折にご近所に住む八木さんが展覧会を見に寄られ、八木さんらが作っている伝統のお菓子をお土産でいただいた。初代徳川藩主義直の頃に造られたお菓子で、戦後消えてしまったのを再現したという。なかなかのこだわりのお菓子だ。これが年寄りにはすごく口に合い美味しい。食べたい方は八木さん(東区徳川町2116)に尋ねてほしい。
【一言…名古屋人はこのお菓子作りとアートをごっちゃにしている。アートはこれまで誰もやってこなかったことへの挑戦だ】


写真右上:徳川義直の時代からある尾張のお菓子「げんぴん焼き」
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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