秘境を巡るスケッチ旅行

秘境を巡るスケッチ旅行

 僕が教えるカルチャーセンターの生徒さんたちと秘境巡りのスケッチ旅行に出掛けた。最近鉄道ファンの間で話題になっている秘境駅のある飯田線方面の旅だ。豊橋から長篠城駅まで行き、古戦場見学の後、湯谷温泉で泊り、翌日秘境駅を巡る各駅停車の列車で天竜峡まで行き、そこから飯田まで行くのだ。
 「秘境を描く」なんて絵描きにとってわくわくのコースだ。僕は講師としての責任上運転手の後ろに立って、絵を描くポイントがあったら写真に撮ろうと待ち構えていた。絵は描き手がどんなにうまくても、どんな場所をどんなアングルで描くかが重要なポイントになる。誰もが描く場所を普通に描いたのではどうしようもない。例えば富士山などまともに描いても意味はない。皆が描くから物まねになってしまう。どうしても描きたいなら北斎のように、あっと思わせる大胆な構図や色彩などのアイデアで自分独自の絵にしてしまうことだ。
 だがワクワク感とは裏腹に今回の秘境駅は絵として描くには平凡な富士山風景よりつまらなかった。自分独自の絵にしようとしてもどこにでもあるホームと木々があるだけだ。独創的な風景画にするのが難しい。「秘境とは何か」を考えさせられてしまった。一般的に秘境と言えば人跡の稀なあまり知られていない場所と辞書にもあるが、全く人跡がないと秘境で無くなってしまうような気がする。

壊れた納屋
 僕は秘境と言われるアフリカやチベット、アマゾンの奥地へ一人旅で入っている。そこで秘境を実感するのは岩山や木々の満載ではない。まさかこんな所に人はいないだろうと思っていると原住民の集落があったり、あるいはかつて人々が暮らしていた痕跡があったり、遺跡らしきものがあったりなど、自然と人間が織りなす何らかのつながりがある時に、秘境を実感するのだ。
写真右:長篠付近の壊れた納屋

長篠駅前のポスト
 そんなわけで今回の秘境の旅も絵画的観点から見て絵になりそうなのは、湯谷温泉の町中などで自然が人間とうまく共存しているところだ。
 2,3例を挙げると、人が住まなくなった玄関の石階段の真ん中に赤い公共のポストがあるところや(元郵便局があったのか)、かなり古い木造住宅の板壁に真っ赤な茎のつたが這っているところ、また背後に山が迫っている非常に狭い土地に料理屋が立ち、すぐ前を列車が通り、踏切まで付けなくてはならないところなどだ。
真っ赤の茎のつたが這う板壁
写真左上:長篠城駅すぐ前のポストのある風景。

写真左中:湯谷温泉街の中頃にある真っ赤な茎のつたが這う板壁

写真左下:湯谷温泉の町中にあるJRの踏切





湯谷温泉町中の踏切
 こういった場所は何かを我々に訴えているように感じられる。そこにはどこか郷愁を掻き立てるものがあり、そこにかつて暮らした人の物語を我々に伝えているように思えてならない。感動のない場所をいくら上手く写実的に描いてもどうしょうもないと思えてくるのである。


 ところで湯谷温泉のホテルだが、客の喜びそうなことをよく考えてサービスしている。玄関につくと気品のある女将さんが抹茶をたてて全員をもてなしてくれる。館内のいたるところにある墨絵も大胆で我々にやる気を起させるようなものが掛かっている。
トンビの乱舞 さらにまたトンビの百羽以上の乱舞がある。これは壮観で愛知トリエンナーレでやっても評判になるのではと思われた。午前9時になると宿の調理人が昨夜に客の食べ残した料理を川に向かって何度も投げ捨てる。すると何十羽ずつのトンビが、それに向かって突進して川に落ちる前に残飯をキャッチする。川まで落ちることはまずない。川も汚さずゴミにもならず、残飯は食べられ、鳥は喜ぶ。一石四鳥だ。
写真:餌をとりに急降下するトビ
 これはチベットの鳥葬(亡骸をコンドルに食べさせ天高く運ばせる)を連想した。これに気付いた料理人は正しくアーティストだ。秘境だからできるアートだ。子供が見てもすごく感動するのではないか。すぐ近くの長篠古戦場と観光スポットのセットにすればいい。

 生徒さんたちはよく飲む。絵もその元気さで描き、今年も名古屋の区民展では2人も大賞をもらっている。僕の家は戦争前まで造り酒屋であったが、僕の祖父が酒の全然飲めない父を婿養子に選んだから、その息子の僕も酒が飲めない。宴会の時などはとても残念だ。若い頃は宴会の席などで付き合いで酒を飲んだことはあるが、飲むと眠くなって寝てしまう。普通なら起きている夜の9時から1時までの時間が、限られた人生の時間の中で、全く無駄になるのが悔しい。ならば酒が飲めないのをポジティブにとらえ、時間の有効利用をしようと、本を読んで、その中で気が付いたことをノートに書き残すことにした。これを僕は50年以上に渡ってやっているので、このノートがもう50冊ははるかに越えている。僕の美術作品や美術評論、著作はこれに負うところが結構ある。

 この旅行の後、瀬戸へ行く用事がありちょうど瀬戸市美術展をやっていたからのぞいたが、これがひどかった。絵を理解せず、色だけしっかり塗ればいいと思っている審査員が選んでいるのだろう。(数年前は良かったが、審査員が素人になったように思われる)。この展覧会を見れば、反面教師としての絵の見方がよく分かる。


さて今回も名古屋百鬼夜行から妖怪街道の妖怪画2点を紹介させていただく。

⑭ 妖怪『あの世帰り』  写真右
あの世帰り
 ナゴヤドームから北に数百m,矢田川の堤防沿いに、秀吉以前は巨大な寺であった長母寺がある。お経にリズムを付けて唱えたのが始まりという尾張漫才もここがルーツと言われる。ここにはそのころ無住国師という偉い僧がいた。彼は死ぬ時に「私がこれから行く死後の世界が素晴らしいところなら、寺の前庭の1本の木に種類の違う木が芽を出すであろう」と言って亡くなった。数年後本当に1本の木に別の種類の木が生えてきた。人々は「あの世は天国だ」と言って歓喜したという。




⑮ 妖怪『馬崩れ』  写真下

馬崩れ

 長母寺から矢田川を越えた反対側にかつて織田氏の支城である守山城があった。それを三河の徳川信秀(家康の祖父)が攻め乗っ取ってしまった。だがすぐ徳川氏に仕える家老の息子が朝、馬が騒いだため信秀が父の謀反を疑って殺してしまったと早合点をして、大将の信秀を殺してしまった。そして徳川軍はここからやむなく撤退した。このことを「守山崩れ」と学者たちは呼んでいる。馬のいななきが崩れの原因と妖怪『馬崩れ』を描いてみた。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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