『名古屋力・妖怪篇』出版記念個展

『名古屋力・妖怪篇』出版記念個展

個展パンフ表
 今年の7月に出版した『名古屋力・妖怪篇』とタイアップして、我が家で出版記念個展を行うことにしました。僕が独自に考え出した妖怪『名古屋百鬼夜行』の妖怪画100点とそれらの妖怪が一堂に会した『妖怪の墓場』と題したモノクロの300号の大作も展示します。その他僕の作品の一部も展示します。よかったらお寄りください。
写真右:個展パンフ表

 だだ、僕は今まで個展を美術館や画廊でしかやったことがないので、我が家で開くこの個展がどのような展開になるのか皆目見当がつかず、皆さんにご無礼をかけることになるかもしれないと危惧しています。例えばたくさんの方が同時にみえたら、狭い家なので入場制限をしなければならないし、知らない方がみえた場合は本人確認をしなくてはとも思っているからです。また会場が妖怪屋敷(自宅)とパンフレットにあるので、よくテーマパークにあるようなお化け屋敷と勘違いして遊びに来られると、期待外れとなるのでそれも心配しています。要するに著者のサイン入りの『名古屋力・妖怪篇』の本をしてほしい方と絵をちょっと見てみたいという方のための個展です。

個展パンフ裏
写真左:個展パンフ裏
 ならば何故自宅でやるのか。まず第一の理由は『名古屋力・妖怪篇』の本の中で、我が家の中で起こった妖怪がらみの出来事が頻繁に登場してくるから、その現場を見たいという皆さんの要望があったことです。またこのブログで妖怪屋敷シリーズを書き始めたころの文にもあるように、我が家を妖怪研究の支部にするにあたって、ちょうど古いボロ屋だから妖怪屋敷と命名したことから、妖怪に関する個展をするなら会場は妖怪屋敷(自宅)がふさわしいと思ったことにもよります。さらに最近ではそうでもありませんが、僕の若い頃は、家の中に人を入れるなとよく親父に言われたもので、そういった名古屋のしきたりに逆らってみたい気になったのも一つの要因です。それにエコール・ド・パリの時代、フランスの絵描き達は頻繁に自分の家で個展らしきことをしているのです。ピカソやマチス、ロートレックの伝記を調べると、その中に自宅をギャラリー代わりにしたことがよく出てきます。

 この自宅個展に関し、思い出すことがあります。以前僕が名古屋芸術大学で教えていた頃、美術科の先生たちが集まってコーヒーやお茶などを飲んだりする部屋で、一人の先生が「我々(画家)は単に絵を描いていればいいのだ。これで有名になろうとか、作品を売ってお金にしようなんて余計なことを考えなくていい。ゴッホをご覧。有名になろうとか売ろうなんて考えたことがなかった。だが死んでからは作品が良かったから全てが売れ、世界中知らない人がいないほどの著名な画家になった」と、その場所にいた先生で絵を売るために必死になっている人に暗に説教話をしたのです。
ゴッホ自画像
 僕は絵を売ろうとしている画家ではありませんが、彼の間違いを黙って見過ごすことができず、「いやあなたは勉強不足だ。ゴッホは作品を買ってもらうため20歳の頃から何回も画商にごますりの手紙や見本作品を送っている。また面白いのは、自分の作品を売り込むためロートレックが自宅で開いた個展のようなパーティーには一番先に出かけ、自分の作品をロートレックの作品群の中に潜り込ませて展示している。誰かの目に留まるよう必死の努力をしている。そしてすべての参加者が去る最後に、自分の作品をこっそり持ち帰った。現在は著名なゴッホでも生前は自分を認めてもらうため必死に売り込みをしたんですよ」と、反論したのです。その先生にはきっと嫌われたと思いますが、美術の教師としてあまりに無知であることに驚いたし、学生に間違ったことを教えて欲しくないと思ったから敢えて歴史的事実を言ったのです。昔と違って草食系の男子学生が多い昨今、やる気をなくしている学生も多く、また彼らが絵だけ描いていればいずれ誰かが有名にしてくれて生活もできるなんて言う気持ちで卒業したらとんでもないことになると僕は常々思っています。教授の中には本当に「いい絵を描いていればそれでいい」と言って、自分も絵だけ描き、学生に就職の相談や将来の展望について何も語らない人がたくさんいます。
写真右上:認められるために必死だったゴッホの自画像。今の画学生達にこのような迫力ある自画像は描けないのではと思う。

 話はそれましたが、そういうわけでピカソの時代は自宅での個展はそんなに珍しいことではなかったのです。だが名古屋では珍しいことです。妖怪展でなかったら僕もまずやらないし、父が生きていたら100パーセントやらせないであろうと思われます。「客を応接間以外に入れるな!」「トイレを使う客がいるけれどあれは失礼だ」(自分が年を取って小便が近くなると言わなくなったが)とよく言われました。父も純粋な名古屋人です。名古屋人は他人を家に入れません。だから喫茶店がはやったと言われます。名古屋人は見栄を張って大きな屋敷を建てます。外見を気にするので衣食住の住と衣にはお金をかけますが、人から見られない食にはお金をかけません。喉元三寸(どうもこの言葉は「舌先三寸」と「喉元過ぎれば熱さを忘れる」を勝手にミックスして使っていたのではないかと思うのですが)と言ってどんな食べ物も一度喉を通り過ぎたら同じということで食べ物に贅沢をしないのです。家に人を招くと食べ物を出さなければならないので、人を家に入れないのです。それに他人を信用していない所もあります。家に入れたら何をされるかわからないと思っているのです。入れても応接間まで、これは日本の鎖国と同じ考えです。自宅の応接間が長崎の出島になるのでしょう。

 今回も個展用パンフレットは用意していますが、郵送はほとんどしていません。出せばそれなりのしきたりで訪問されるでしょうし、僕もそれなりのおもてなしをせねばならないので、手渡しで「何のお構いもしませんよ」と言って渡しています。ブログで紹介するのもどうしようかと思っていましたが、まあ自宅で地味にやる個展ということで、ついでがあったらお立ち寄りください。


 さて今回も恒例の名古屋百鬼夜行から妖怪原画を2点紹介します。妖怪街道(尾張藩主落ちのび街道)の妖怪たちです。
胞衣姫
⑫ 妖怪『胞衣(えな)姫』  写真右

 徳川美術館正門前から西100mの所にあるロータリーには、尾張徳川2代藩主光友の胞衣塚(お産の時に出た胎児の膜や胎盤等が埋めてある塚)がある。母、乾の方は大森の農家の娘で健康そうで力持ちのところが初代藩主義直の目に留まり、光友を身ごもった。だが農家の娘が殿さまの子を産むのに、下からでは失礼にあたると腹をたち割って光友を取り出したと言われている。乾の方は十数年後に江戸で亡くなったとされているが、庶民たちは信用せず、彼女の遺体がこの胞衣塚に埋められていると噂した。我が子光友に会いに彷徨い出てくるという。胞衣塚の幽霊なので胞衣姫と命名。

⑬ 妖怪『六所マムシ』  写真左

六所マムシ

 旭ヶ丘高校のすぐ東北に六所神社がある。2月のカッチン玉祭りには竹の先にカラフルな色の飴のついたお土産が売られる。これはへその緒の形だとか松明の形だと言われている。僕は竹でマムシを掴んだ形を模したものだと考えている。実際に6歳の頃この付近でおじさんが竹でマムシを掴んでいるその情景を見ているからだ。そんなわけでカッチン玉飴の原型『六所マムシ』妖怪を描いてみた。
   
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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