ボルト(A) 山田彊一 40才代初期(1980年代)の作品より

ボルト(A) 「中日展」 '81 大賞受賞
山田彊一 40代初期(1980年代)の作品


ボルト(A)
 写真右:ボルト(A) 中にウレタンを入れボルトの根元を引っ張った作品。平面なのに立体に感じられるような狙いで制作。

 30歳の折、若い後輩の絵描きが愛知県美術館にゴミを出し、裁判になった事件に絡んでの10年間が過ぎた。名古屋において反体制的な活動をすることは、自分の首を絞めているようなものだ。美術界からの風当たりは強く、体制に迎合するマスコミからも無視をされた。前述した30代の頃に挑戦していたコンセプチュアルアートとしてのパフォーマンスアートも、保守的な人々には理解を超えていたようで、冷ややかに受け止められ、「絵が描けないからバカなことをやっている」と揶揄され続けた。
 僕が様々な場所や形態でアートを発表しても、またどれだけ現代的な動きをしても、名古屋から発信していては東京や世界のマスコミは何の注目もしない。色々考えた結果、僕の目指す新しい美術をまず名古屋で知ってもらう方法を取ろうと考えた。
 名古屋の画家たちに認めさせるには世界や日本の大きなコンクールで賞をもらうことだが、その前に、地元で一番最高の賞をとるほうが認知度は上がる。東京(全国)で一番よりも名古屋で一番の方が、名が知れ渡るのだ。名古屋ではその頃、中日新聞が主催する美術展、中日展が有名で僕はまずこのコンクールで賞を取ろうと考えた。そこで描いたのがこの作品だ。同じシリーズ作品が中日展に出す前、大阪や東京で賞をもらっていた。
 当時の中日展は二科や日展、春陽会の親分が審査員となっていた。ところが僕の出す年(1981)から地元の親分を排除して、東京や大阪から有名評論家招いて審査にあたらせるようになった。これも僕にはラッキーであった。この中日展で僕の作品は大賞をとる。中日新聞の1面トップに載った僕の受賞作品と記事は、周囲の人々の態度を大いに変えた。中日新聞が美術面での刷新を図ったことにも僕は大いに評価している。
 この後僕はこの技法で立て続けに賞をとることになる。
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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