山彊、大作『名古屋百鬼夜行図』に挑む!

山彊、大作『名古屋百鬼夜行図』に挑む!  

名古屋百鬼夜行全図   
 『名古屋力・妖怪篇』出版に際して挿絵として80枚ほどの妖怪図を描いた。どの妖怪も僕のオリジナル作品だ。実は出版社との間でいろいろ手違いがあって作品の大半が消失し、僕はそれらすべてを描き直した。せっかくこんなに描いたのだから、ついでにこれらをモチーフにして大作に挑もうという気になった。今150号の作品2点を制作中だ。そのうち1点はまず完成した。今のところ『名古屋百鬼夜行図 墓場編』とでも名付けようかと思っている。写真右:『名古屋百鬼夜行図 墓場編』

 150号といえば、畳二枚分弱の大きさでこれを完成するのに2か月余かかった。
技法は油絵でも水彩画でも、版画でもない。では何なのかやり方を説明すると、まず和紙に400〜500匹の妖怪をペンで描き、はさみで切り抜く。それらをキャンバスに張り、乾いたらその上に墨汁をかける。それが乾いたらその上からボールペンで輪郭線を描いて溝を作り、最後に白いポスターカラーをしみこませる。塗るのではなく染色のように染み込ませるのだ。これによって皮膚や筋肉がより本物らしくなる。生きている人間(妖怪)のような立体感と透明感が出る。

写真下:上から名古屋百鬼夜行図部分1,2,3
名古屋百鬼夜行図部分1 (350x263)
 これは僕が25歳の折に考え出した誰もやっていない技法で、どこの美術展やコンクール展に出してもこの作品は、好評だった。この技法を使った僕の作品は講談社の『現代世界美術全集』やPARCO出版の『現代美術小辞典』にも載っている。

名古屋百鬼夜行図部分2

名古屋百鬼夜行図部分3

 「山彊先生、これまで何故その作風を続けてやってこなかったのですか」。僕がこの技法を完成したのは60年代の中ごろで、多くの若者は学生運動に明け暮れ、東大紛争の真っただ中だった。教え子たちの多くも栄や県庁前の集会へ行ったりしていた。彼らが僕のところにやってきて熱く語っていく。「先生、のんびり作品を創っているときじゃないですよ。行動しなければ始まりません」と。彼らの真剣さに押され、そして僕の中にも当時の政治体制に納得できない気持ちもあり、時には絵を捨て集会に行ったり、東京の反戦運動に加わったりしていた。(いつも反省するのだが僕は教え子や後輩に弱く、彼ら彼女らに頼まれると、公務員としてやばいと思ってもNoと言えない。教え子がセールスで高額な何かを売りに来ても断れず買ってしまう)
 この頃芸術分野ではカウンターカルチャーが花開き、既成概念を放棄して新しい芸術を生み出そうとする傾向が続き、前衛芸術やアングラ芸術、観念アートにパフォーマンスアートなどが盛んで、従来のタブロー中心の絵を描いているのは田舎画家の行為と見なされた。そんな時代の中で僕の美術作品もやはり反体制的なものになっていく。30歳頃からは観念アートとパフォーマンスアートを取り混ぜた作品を多く制作した。キャンバスに向かって絵を描いたり、少なくとも紙の上に絵を描くという行為はしなくなっていた。ところがこれを10年近く名古屋でやっていると、ほぼすべての絵描きから「あいつはバカかきちがいか、絵も上手く描けないからあんな反対運動ばかりしているのだ」と言われるようになった。学生運動も下火となり、画家としての岐路に立たされてもいた僕は、20代の墨作品へ戻ろうかとも考えたがやはりやめた。芸術は創造であり、常に前に進むもので後退であってはならないと考えていたからでもある。
 世の中はバブルの時代に入り、美術の分野では賞金額もべらぼうに大きい現代美術のコンクールが花盛りになった。僕はここに至るまで画家として自分のやってきたことが間違っていたとは今でも思っていないが、絵描きとしての再起の起爆剤にこれらに挑戦してみようと考えた。これ等の美術展で賞を取れば、僕を罵倒した連中を見返せると思ったこともある。その結果、この時期僕は中日展を皮切りに様々なコンクールで大賞を取りまくった。僕に対する画家たちの態度が明らかに変わってきたのも確かだった。コンクールの受賞はうれしくもあったが、これらは結局、人が人を評価するのは肩書きなのかと考えさせられた出来事でもあった。
半沢直樹の倍返しではないが、僕は普通の思考人間になってしまっていた。テレビの半沢直樹について、「所詮作り話でチャンバラ劇の延長だよ」と言われるが僕にはあのストーリーがもろに納得できる。半沢の相手に当たる支店長や常務に相当する僕の相手はすべて消えてしまった。年を経たし時代も変わった。それでも僕には半沢直樹精神がまだ宿っている。僕の頭の中で生き続ける彼等の亡霊と闘っているのだ。この亡霊たち、今開かれている「あいちトリエンナーレ」の作品群を見たら自分等の田舎志向を恥、エンマの前で切腹でもするのではないか。

 話を戻すとして今回妖怪本を出して、でかい妖怪絵を描くなら、この墨絵のような技法しかないと思い、50年前の技法を使っているわけだ。
 僕の妖怪本の中にも挿絵として載っている『名古屋百鬼夜行』の妖怪は、カラーで既に80匹ぐらい描き上げている。これを使って大きな妖怪絵を描こうというわけだ。妖怪は人の前に出る折は色付きで登場するが、彼らのたまり場=墓場ではモノクロになるのではと思って仕上げてみた。
 僕が妖怪画の大作を描いた理由は、1つには今回の妖怪本でたくさんの人から「絵も面白い。オリジナルの妖怪をもっと見たい」という要求があったことだ。それに加えて、考えてみると日本で世界的に認められている画家たちは、作品のほとんどが妖怪かそれに近い画像ばかりだ。村上隆や奈良美智、松井冬子も、また引退を表明したあの宮崎駿監督の作品も妖怪のような主人公が多い。また漫画通に言わせると「手塚オサムが消えても水木しげるは生き残る」なのだそうだ。
 浮世絵で外国人に好かれている多くの作品も葛飾北斉や歌川国芳、月岡芳年等の妖怪絵だ。これまで日本の各地で発表されている妖怪展の絵は(水木しげるは除く)既に描かれている江戸時代等の妖怪絵の再提示がほとんどで、またどの本を見ても昔の焼き直しで、一度見たらもう見たくない。僕の今回の妖怪本はそのあたりを頭に入れて文も絵も描いたのだ。「新しい妖怪本を開拓しましたね」と言ってくれる妖怪通もいた。どうなるかわからないが、絵の方もその線で描き上げてみた。そんなつもりで『名古屋百鬼夜行図 墓場編』作品を見て頂きたい。

 さて前回から始めた名古屋百鬼夜行の妖怪を、前回に続き、また2点を紹介したい。
ひとだまを発する妖犬山彊
4『ひとだまを発する妖犬山彊』写真左

 僕はひとだまに遭遇したことがある。僕が今住んでいるところは蟄居させられた宗春が気を休めるために眺めていたという大曽根屋敷の池のほぼ真ん中だ。ここにはよくひとだまが出たと亡くなった親父が言っていた。そんなこともあり僕の頭からひとだまをいっぱい発生させてみた。本を出してから周囲の者たちにあんたが一番の妖怪っぽいと言われたこともあって。


山彊のボルト妖怪






5『山彊のボルト妖怪』写真右

 またまた僕の妖怪で申し訳ないが、僕はボルトの映像を版画にすることによって沢山の賞を得ている。ボルト作品を思いつかなかったら自己満足の平凡な絵描きであったかもしれない。だからボルトさまさまで首をボルトの上にさらしてみた。亡くなったらこんな墓石にしても面白い。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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