『名古屋力・妖怪篇』7月26日に出版

『名古屋力・妖怪篇』7月26日に出版

名古屋力・妖怪篇表紙

 7月26日は「幽霊の日」で、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』が1825年(文政8年)江戸の中村座で初公演された日に因んでいる。この日に合わせて僕は『名古屋力・妖怪篇』(写真右)を出版する予定である。

 そもそもこの妖怪本を僕が書いたのは、名古屋についての新しい発見が数々あったからだ。名古屋の街が持つ個性は歴史や民話、昔の人の言い伝えなどが絡んだ妖怪話から追っていくと分かりやすく、面白いと思った。例えば
・東区の金城学院のすぐ北にある尼ケ坂を僕の親父はなぜ恐れていたか。
・明治まで名古屋城から東に向かってなぜ人があまり寄り付かない森が延々と繋がっていたか。
・何故名古屋の主だった高校(旭ヶ丘、明和、東海、金城、市工芸)がこの緑のライン上にあるのか。
・どうして名古屋の冠婚葬祭は豪華か。
・レストラン等の開店祝いの花はなぜ派手か。
…等々のことを妖怪話からも解明できると思った。

名古屋力・妖怪篇裏表紙
 僕の教える中日カルチャーセンターの生徒さんで北陸の福井から通ってみえる人がいる。彼女が言うには、「福井の殿様(結城秀康)は家康の次男坊で豊臣秀吉の養子になったり、関東下野の結城家の養子になったり、色々苦労をしているが関ヶ原の戦い後は家康から越前北庄67万石に加増移封され福井越前松平家の祖となった。
 一方、尾張藩初代の義直は家康の九男。福井は愛知に負けていないが殉職者数では尾張愛知に次ぐ2番だと残念がっている」とか。福井の民にとっても目立つためなら死者数までも多いほうがいいのだろうか。これは名古屋人と同じ発想でとても面白い。この殿様、すごい剣豪であったらしいが相当短気で人を殺めたようだ。それに顔が醜く、らい病とか梅毒とかの噂があり家康も会うのを嫌がったという。このことについて福井県人は触れていないようだ。僕はすぐ秀康公の殉職者の数を調べてみたけれど分からなかった。今度の授業で福井の生徒さんに聞いておこう。秀康の墓見物に彼女は行っているらしい。ちなみに尾張の義直の殉職者の数は9人だった。当時尾張藩は鼻が高かったに相違ない。

目次1
写真上:目次1

 まあ名古屋もおかしな街だ。この殉職者数の多さを誇る風習が葬儀の花の数を誇るのとどうも関係があるようだ。僕のおふくろの葬儀の折、あまり関係のない人からも生花をいただいた。なぜだか僕はいぶかっていたが、親父は「その贈り主は自分が亡くなった折、自分も花が欲しいからだ」と話してくれた。「自分が死んだら、もらっても分からないのでは」と僕が言うと、「真の名古屋人は決して裏切らない」と親父は胸を張って言っていた。裏切ったら幽霊や妖怪となって襲いに来るとでも思っているのだろうか。「山彊先生、花一基贈らないだけで化けてくるのですか」。名古屋人にとって花一基と首一個と同じかもしれない。
そんな名古屋のあれこれを妖怪話を通して楽しんでいただけたらと思っている。


写真下:目次2
目次2

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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