北斎大須達磨妖怪と女郎妖怪

北斎大須達磨妖怪と女郎妖怪

北斎漫画
 我が家の宝物の一つに幕末に刷られたと思われる北斎漫画の本がある。僕の大学時代に丸善の古本市で2千円程で買った本だ。当時コーヒー代が50円程だったから、今なら1万円以上するであろう。
写真右:僕が買った100年以上前と思われる『北斉漫画』本
なぜ学生の身で無理をして買ったのか。北斎が好きであったこともあるが、最終ページに大きなヤギの絵があったからだ。このヤギ、目は顔の左右ではなく上下に二つ並んでいる。それに加え胴体にも目が3個ついていて、合計で目が5個ある。どうしてこんな動物を北斎は思いついたのか信じられなかった。これでは本物そっくりに描くことを上手いと評価する江戸時代の一般庶民には理解されず売れないのではないか。
写真下:たくさんの異様な目を付けた北斎のヤギ
5つ目のヤギ
 なぜこんな絵を描いたのだろう。僕には北斎が当代随一の絵師としての誇りから、小手先だけの上手さを狙ったのではなく、芸術に正面からぶつかっているように感じられた。だとすると日本では江戸時代に、シュールリアズムというダリやエルンストがやって有名になった技法をもうすでにやっていたことになる。
 5つ目のヤギは現代美術に匹敵すると思うが、ちょうど今妖怪本を出そうとしている僕から見ると、妖怪絵と言ってもいいと思える。我が家(妖怪屋敷)には、世界各国のお面や変わった絵や置物など妖怪のようなものが色々あるが、このヤギもたくさんいる妖怪の仲間に加えたい気がする。

大達磨図
 ところで北斎は、名古屋にも訪れ、派手なパフォーマンスをやっている。1817年、名古屋を訪れた彼は、大須の本願寺西別院で畳120帖大の大達磨絵を藁を束ねた特大の筆を用い即書で描いた。これは名古屋の出版元永楽堂の主催で行われ、一日がかりで描かれた巨大な絵は名古屋の人々を大いに驚かせたという。このことは北斎と親交が深かった高力猿猴庵が『北斎大画即書細図』に描いている。感動した人々は北斎を「達磨先生―だるせん」と親しみを込め呼んだという。
写真右:北斎が120畳の大達磨絵を大須で描く様子を伝える図
 120畳の広さとなると、どこにどう線を描けばきちんとした絵になるのか見当もつかない。見物人とて同じで、描かれている間はどんな絵が出来上がるのか皆目わからなかっただろう。出来上がった後、つるされた絵を見て皆があっと驚き拍手喝采となる趣向のパフォーマンスのわけだ。この即書パフォーマンスを北斎は15年ほど前に江戸で行っている。1度経験しているので名古屋ではスムーズにいったようだ。
 
 北斎は何故名古屋でこのようなパフォーマンスをやったのだろう。調べてみるとまず1814年に名古屋の永楽堂から北斎漫画の初巻が出されている。その後江戸の角丸屋から2~10巻、そして11~15巻(最終巻)までをまた永楽堂から出している。ここで腑に落ちないのはなぜ2巻から10巻までを東京で出したのかということだ。勘ぐってみるに1巻の売れ行きが名古屋地区ではあまり伸びず江戸の出版社に変えた。永楽堂としてはまた自分のところから出してほしい。そのためにはまず名古屋で売れなければならない。1巻が出されたあと3年目に永楽堂が北斎を呼んで大達磨絵を描かせている。北斎と永楽堂は売れない本の知名度を上げるためこんな派手なパフォーマンスをやったのではないか。
 当時の名古屋の見世物興行年表には「西掛所本堂の東北の庭、茶所の前において、江戸の北斎という絵師が当春より七間町の宿屋に泊り、大画の達磨を即書す」と書いてある。
 僕はこの巨大な達磨絵について北斎にしては上手ではないし、何のためにこんなことをしたのだろうかと不思議に思っていたが、やっと今回分かった気がした。北斎漫画を売らんがためのプロモーションキャンペーンだったのだ。パフォーマンスは大成功で、町ではこの噂で持ちきりとなり本の売れ行きも伸びたようだ
 ただ僕としては、いかに売上げ目的の見世物で描いた絵であれ、あの常に新しいことに挑戦し続けた北斎が、だれでも思いつく達磨を、全然特徴のない描き方で描いたことがとても残念に思われる。巨大絵だから仕方がないかもしれないが、せめて5つ目のヤギのようなものか、その他の北斎の絵に見られるようなアイディアがほしかった。北斎にとって完全にやりたいことではなかったため、やる気が削がれ、いつもの絵のような覇気や斬新さが出せなかったのかもしれない。

 これは先回の愛知トリエンナーレについても同じことが言える。当時の愛知県知事、神田知事を中心に主催者側は必死に盛り上げているのに、他県から選ばれた作家たちは作品作りに体を張っていない。東京や大阪などですでにやっていたような再現をしているように思えた。僕には名前だけ貸せばいいという出稼ぎ現代美術作家に思えた。まあこの名古屋にトリエンナーレ作家として選ばれるだけの人材がいないことも問題だが。いないというよいも作家同士がいがみ合ってだれも選べなくなったのが現状だ。公募展作家、芸大の先生を中心にした画家グループ、それに個人で活躍する現代美術家(外国や東京、大阪はこの作家がほとんどだが名古屋は少なく無視をされている)が張り合って県も動けない状況になっている。今回はどうなのか見守りたい。

北斎大須達磨妖怪
 けれどまあ、どんな絵であっても北斎は北斎だ。北斎の大達磨絵を使って僕の北斎大須達磨妖怪を描いてみた。北斎は妖怪のすごい作品もたくさん描いている。1点位名古屋ものがあってもいいと思い。僕が北斎に代わって描いてみた。
写真左:僕の描いた北斎大須妖怪

 北斎大須達磨妖怪のついでに遊女妖怪も描いてみることにした。徳川宗春のころに作られた3つの遊郭の一つが蔓(かずら)町にあった。質素倹約を勧める享保の改革の時代にあらがって、過度の倹約はかえって庶民を苦しめると考えた宗春の政策により、当時の名古屋の城下町は江戸や上方を凌ぐほど活況を呈していたという。宗春の治世は10年ほどしかなく、財政破綻や風紀の乱れから、遊郭や芝居小屋が縮小や禁止を余儀なくされた。名古屋女郎らは仕事をなくし、夜鷹にでもなり、恨みを持って亡くなったものは妖怪にでもなったのではないか。だったら遊女妖怪がいても不思議ではないと思い描いてみた。
遊女妖怪
 明治時代に書かれた名古屋美人論の本によれば、名古屋人は御三家筆頭尾張藩の領民ということで料理に気を使い、よく煮込んだ、美味しい品を食べており、そのため顎を使う必要がなくえらも張っていなくて、口も小さいがやや出っ歯の顔つきといわれる。そんな風に描いてみた。

写真右:僕の描いた大須遊女妖怪
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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