フリーダ・カーロの生き方と芸術の評価

フリーダ・カーロの生き方と芸術の評価

 フリーダ・カーロの美術展(フリーダ・カーロとその時代、Women Surrealists in Mexico)は2003年11月に、名古屋市美術館でも催された。カーロについてはその数年前から「ブレイクしている」と言う情報を得ていたが、僕の若い頃は彼女の名を一度も聞いたことが無かった。シケイロスやリベラ、タマヨがメキシコを代表する3大芸術家だと教わったことはある。瀬戸市に居住していた北川民治の関係からか、名古屋市美術館にはメキシコ作家の作品は多いが、カーロを僕は見たことが無かった。今回のメキシコへの旅はこの名古屋市美術館の展覧会ではもう少しはっきりしなかったフリーダ・カーロが祖国や全世界ではどのように評価されているのかを勉強したいという狙いもあった。

フリーダ・カーロ美術館
 彼女のメキシコシティーの自宅(美術館)へ入ってまず驚いたのは、その広さだった。メキシコの治安の悪さからか、外側は5m以上の高い壁が延々と続いているだけだが、内部は豪華に造られていた。
写真右:フリーダ・カーロ美術館の中庭
 親は国の政府機関専属の著名な写真家であり、裕福な家庭に育ったが、幼児期に小児まひで足の成長が悪かったため、親はより一層彼女に愛情を注いだ。また娘時代に交通事故で全身が傷つき、生涯後遺症に悩まされ続けた彼女に親は広大な住まいも残したと思われる。

カ―ロの幼い頃の作品
 美術館はそのカーロが住んでいた家をそのまま使っている。それ故彼女のベッドや生活空間もそのまま残されており、幼い頃からの作品も展示してあるので、彼女の才能を調べるには都合が良かった。
写真左:幼い頃の作品
 大学への登校途中に彼氏と共にバス事故にあい、手摺棒が子宮を貫通し、脊椎、骨盤、右足などを骨折するという大惨事に遭遇する。寝たきりの病闘生活になった彼女のため、父がベッドの上にせめて自分の顔ぐらいは見られるようにしようと鏡を付けているのも痛々しかった。
 またボーイフレンドがパリに去った後、追っかけるように描(書)き送った絵付きの葉書の数々も展示してあるが、彼女がふられた結果になることが分かっているのでますます痛々しく感じられた。これ等の展示は名古屋での美術展では見られなかったものなので彼女の全体像を知るのに非常に役立った。
写真下:パリの彼氏に出したたくさんの絵葉書き
彼氏に送った絵付きの手紙

 僕がカーロについて知りたかったのは、以前ほぼ無名に近かった彼女が、この何年かで夫のリベラより、芸術家としての評価を上げてしまった理由である。絵画を描くための技巧のことしか頭にない画家が彼女の作品を見たら、ほとんどが「何故彼女の作品がここまで認められ、有名になったのか?」と思うにちがいない。彼女は決してデッサンや筆使いがうまいというのではない。デッサン力も我々と違わない。

断ち切られた自分を描いた作品
 大きく違うのは生きるための壮絶な戦いが、彼女の作品からほとばしり出て、それが見る人々を感動させることだろう。彼女の作品のすごさは、医者によって自分の体が解体されるかのような手術をこらえ、その様子を客観的にとらえ描いたり、心の奥底に眠る自分の精神の本性を描いていることと言っていい。
 カーロの作品は誰のものでもなく、まさしくカーロしか描けない、カーロ自身の体験を通した深層心理を表現しているのだ。
写真右上:断ち切られた胸からは鉄製の器具が見え、体のいたる所に釘のようなものが刺さっている

 これが今の日本の絵描きには欠けているのではないか。美術館などで見るほとんどの公募展作品は上手に描かれているけれど、皆どこかで見たことのあるようなものや、またキャンバスの上を器用になぞっている作品ばかりである。一方カーロの作品は絵空事を単にキャンバス上に描いたモノではないし、又他の誰の様式も入っていない自分独自の世界を描いているのだ。
 「山彊先生、そんなこと以前から分かっていたはずなのに、何故当時は評価されず、最近になって評価され始めたのですか」
そうだよね。僕もその点を考えながら美術館内を行ったり来たりしていたのだが、理由の一つとして、当時はメキシコも日本と同様に男社会であった事にも原因があるのではないだろうか。そこで言えることは、夫のリベラが存命の内は、彼の名誉を重んじ誰も妻であるカーロを持ちあげようとはしなかったのではないか。リベラの死後、彼女の作品が最初に認められたのがヨーロッパで、そこからメキシコへ彼女の作品の評価が逆輸入されていき、すんなり受け入れられたと考えるのが妥当ではなかろうか。
 また別の理由として、ゴッホもゴーギャンもそのようにして売り出されたのだが、画商や評論家達の誰かがカーロとその作品が売れる条件を満たしたとして、売り出しに動いたのではないか。絵画ビジネス的な見方でいえば、作品が有名になるためには、誰かがその為のアクションを起こさなければ世に知られることはない。僕は常にそう思って歴代の著名な作家達を見ている。例えばカーロの作品をそこらの女性画家が、仮にカーロが登場する前、そっくりに描いたとしても誰も相手にしないのではないか。画商や評論家が売り出したい、世に問いたいという作家は、彼(女)がどんな生き方をしてきたか、どんな経歴の持ち主なのかをまず調べるものだ。
 ある作家を売りだそうとする場合、まずその生き方にすごさのあること、またまとまった作品が手元にあることで測るのではないか。作品が自分の手の届くところにあるということは、画商等それによって生活せねばならない者にとって必要なことだし、世間もある程度たくさんの作品を見なければ応援もしないだろう。

体を固定するための医療器具
写真右:一生事故の後遺症に悩まされた彼女が身に着けていた身体を固定する医療器具や義足のような足の器具 カーロの人生は小説以上にすさまじいものであった。九死に一生を得た交通事後やその後の20歳ほど年上の師であるリベラとの結婚、それに続く夫リベラの浮気、イサムノグチやトロッキーとの彼女の不倫、映画にでも小説にでもなりそうな人生だ。そんな波乱万丈の人生の中でも彼女は絶望せず、気力、迫力を持って描き続けた。幸運だったのは親が金持ちであったことだろう。経済的余裕があったからこそ絵も描け、たくさんの作品も残せた。

 印象派以後の芸術を総括的に言えば、生き方そのものがアートであり、どれだけすごい人生を歩いたかということが作家または作品の評価につながってくると言っても過言ではないだろう。村上隆も同じようなことを言っている。「芸術家の生きる物語だけが、商品価値を得るのではないか」と。この定義にカーロはピッタリ当てはまる。


スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR