愛知洋画壇物語

名古屋画廊が『愛知洋画壇物語』を出版
――ブルーな気持が解消され――


 日本国民誰でもそうだろうが、東日本大災害後、不安がつのり毎日気分が重く暗い。被災者への思いも勿論だが、政治家の動きにも気分が暗くなる。大連立などして欲しくない。もともと原子力発電所など今回の地盤を作ったのは自民党である。その中でもベテランの総裁経験者等が連立を組めと言っているらしいが、いずれ検証で福島原発を作った張本人として裁かれなければならない身だから当然だろう。組んだら追及しづらくなる。管総理も組んだことで半分は逃げてしまいそうだ。大連立を提唱したのは管首相だと思っていたら、今日(4月7日)の新聞に首相は「大連立を働きかけたことない」という記事があり、混乱するばかりだ。この大災害、地震と津波だけだったらまだ割り切って気持を変えられるが、原発事故は終わりが見えない。だから悶々とする。美術家として無力なのも悔しい。

 私など個人的にこの災害と無関係に見えるが、そうではない。堀科学芸術財団の『Dアートビエンナーレ』の秋への延期や数々の講演や仕事のキャンセルで今年の予定は完全に狂ってしまった。私がこうなら、東京や東北方面に住む人は何百倍もすごいだろう。
 このようなブルーな気持になったとき、僕がいつもやる手がある。雑踏の中に身を置くことだ。人々のざわめきが活力をくれる。それでもだめなら仲間を呼んで、与太話でもする。そうこうしているうちに、また頑張るか、という気分が湧いてくる。
愛知洋画壇物語
 しかし今回はこれでも気が晴れない。そんな折、送られてきたのが名古屋画廊出版の『愛知洋画壇物語』(風媒社)だった。(写真右) 画廊主が出版するこのような本は商売がらみが常で、これまではあまり読んだことはないが、表紙に岡田徹や浅野弥衛ら画商として仕事になりにくい画家の作品が取り上げてあるのを見て気が変わった。読んでいくと荒川修作や赤瀬川源平、それに荒川が恐れたという岩田信市まで名を連ねている。勿論画廊の売り込みたい作家も入っているが、お金儲けに絞らず美術界を広い意味で見ようとしている。だからこの災害時の読み物としても悪くはない。そのことが新聞社にも分かるのか中日も朝日も大きく取り上げていた。金城学院大学の山村教授が「敵を作らない妥当な選択だね」と筆者の中山真一ギャラリーオーナーを褒めたとか。「(東京でトップの日動画廊に対して)名古屋の日動画廊と言われているだけのことはあるね」と友人の財団会長も言う。
 この本は大正期の大沢鉦一郎から現代の浅野弥衛までの代表作家を順に6人挙げ、その同時代に活躍した作家を並べ、その時々のアート事情を説明している。読みやすい構成だ。読みながら気付いたことは、この本が特に強調するこの地の画家たち、鬼頭鍋三郎や横井礼以、杉本健吉、北川民次らは私が美術を始めた頃の大作家で、私がある意味でお世話になった人ばかりだったということだ。彼らがいなかったら今の私はないだろう。

初めて新聞に載る審査員
 私が19歳になった折、彼らを審査員としてこの地で一番でかいコンクール『働く人々の美術展』が催された。主催が日本赤十字社で、後援が愛知県や名古屋市、名古屋商工会議所。協賛が丸栄、エルモ社、東芝、三菱、日立、中部電力、東邦瓦斯等々だ。あの時代で洋画だけで375点応募があったという。物資の無かった時代にものすごい賞品がもらえるからということもあったかもしれない。ともかくこの地のやる気あるほとんどの画家が応募したのではないだろうか。写真上:初めて僕の名が新聞に載る
自作の前の僕写真右:自作の前の僕19歳
 応募者の中で19歳だった私は一番若かったと思う。そこでなんと私が最高賞を取ってしまった。すごく嬉しかった。今考えると縁故社会の名古屋で、よく何の繋がりもない若造の私を選んでくれたと驚くが、きっと審査員の視野が全国的であったのだろう。だが私は若さのためかそんなことも目に入らず、すぐに心はニューヨークや東京に移ってしまい田舎名古屋での受賞を喜んでいる自分を恥じるようになっていた。

 今回『愛知洋画壇物語』を読んで、半世紀前の当時を思い出してしまった。取り上げてある作家名が気になり当時のアルバムを探した。アルバムには当時の審査員名や中日新聞の記事とか、また桑原知事から賞状をもらう私と自作の前で写る私の記念写真が出てきた。
 ところが2年後、僕はアメリカで開かれた「ニューヨーク日本美術家代表展」で脇田和、糸園和三郎氏等14人の中に私が選ばれた。若気の驕りからか、地元での美術展の大賞作品を飾っておくのが恥ずかしくなり、焼いてしまったことを思い出す。この行為は私の凄い自信だったのか、自分を無にして追いこもうとしてのことだったのか分らない。この時代の作品写真も上記のもの以外なにも残っていない。次に進むために過去にしがみつきたくなかったのだろうか。
 こんなことを思い出すとブルーな気持ちが消えていた。災害後の今、なにも無かったがやる気に満ち満ちていた若いころの写真を出して見るのもいいかもしれない。
秋の中国の展覧会に向けて『Dアートビエンナーレ』を成功させるため、近々香港や北京へ行ってやるぞと思ってもいる昨今だ。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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