妖怪屋敷 第42弾 我が家の隣に徳川光友の「妖怪烏天狗の社」があった!

妖怪屋敷 第42弾
我が家の隣に徳川光友の「妖怪烏天狗の社」があった!

烏天狗面
 大学1年生の折り3千円余もする烏天狗の伎楽面を、無理をして買ってしまった。当時の公務員の月給が1万円もなかった時代だった。このお面、今でも部屋に飾ってあるが、何故衝動買いをしたかやっと分かったような気がした。烏天狗が買わせたようだ。
写真右:大学1年の折り大金をはたいて買い、我が家の壁に掛る烏天狗面。その後30年近くお面は買わなかった。右下は石膏のラオコーン像、さらに右は米アーティスト、ハンセンの生きている人間そっくりの作品の隣に同じポーズで座る僕、自分で作った自分の顔のお面を付けている。名古屋デザイン博の折りにテレビレポーターとして取材した時のもの。

 少し前、後輩の一人から連絡を受けた。「山彊先生宅って第2代尾張藩主の徳川光友が作らせた烏天狗の社があったところではありませんか」というものだ。その後輩は守山区に住み、近くに地域文化研究者の川本文彦氏がいて、貰った本から気付いた話だという。
 彼女によると光友の母が祀られている大森寺付近の人たちが集まって、母、乾の方の勉強会をしているという。乾の方が腹を切り裂かれ光友を産んだ後、どうなったかという事が気になっての集まりでもあるらしい。女性だからの反応なのだろうか。乾の方は生き残り、江戸に移って数年間生きていたという尾張藩側の記録は、彼女らも信じていないようだ。腹を切って生きているはずが無いのに、尾張藩はなぜ嘘をつくのかなど気になっているのだろう。まあ徳川尾張藩発表が本当か、地元の噂が本当か調べているということでもあるのだろうか。彼女達は僕の親父が述べる「乾の方の亡きがらは、こっそりと徳川園正門前の胞衣塚に埋めてあるのでは?」という思いには至っていない。

片山八幡社
 さて後輩の言った烏天狗の話、すぐ調べてみた。これは岡本柳英の『名古屋の坂道』に載っている。我が家から100メートル余真西に光友が改建させた片山八幡神社(落ちのび街道の途中にある)がある。その片山八幡社の東側の斜面は以前、鬱蒼とした竹藪が続き、さらにその竹藪の東側は広い沼地になっていた。ちなみにその沼地の南に大曽根屋敷(現在の徳川園)があった。この沼地は僕の曽祖父達が幕末前後に埋め立て宅地にしてしまったところだ。
写真左:片山八幡神社。手前の道路の所はかつて広い竹藪だった。そこを切り開いて市電が通されたが、その後市電は廃止され、現在の状態になった。

 その埋め立て地に当時岡本柳英が住んでいて、烏天狗の話は彼が書いている。岡本は土居下同心の末裔で画家。彼は先祖代々居住していた土居下を、明治になって、台頭してきた軍に追い出されこの埋立地に来たらしい。現在の僕の家の隣だったかもしれないし、もう数十m片山八幡神社寄りだったかも知れない。その神社に隣接する斜面の竹藪の中に高さ2メートル、面積5平方メートル程の台地が作られ、そこに烏天狗の社が建っていたというのだ。幼かった僕にはその覚えはない。その後僕が小学1年生の時、この地は太平洋戦争の米軍の爆撃で焦土と化してしまった。

 では何故この烏天狗の社が出来たのか。『金城温故録』によると、光友が尾張の江戸藩邸から帰京する折、箱根の宿舎で奇怪な夢を見たらしい。側近が光友の寝起きの顔から、その異常さに気付いたほどだったという。光友の夢枕には天狗に似たすごい形相の妖怪が現れ、「しずめ、しずめ」と叫び、そのたびに口から青白い炎を吐きだしていたという。身なりは神官の装束であった。烏天狗は日本古来の妖怪で一説によると龍を定食にしているとか。

 名古屋城に着いてから光友が山伏頭を呼びよせ、どうすべきか尋ねたところ、その像の実物大を作って祀るとよいと告げられた。そこでお抱えの彫師に創らせたが、あまりのリアルさでそれを見た奥女中が脳振とうを起こし気絶してしまったという。他の者も気味悪がり、そのため光友が再建した片山八幡神社の横に社を作り、床下に埋めてしまったとのことだ。これが前述した竹藪の中の小さな台地の社だったのだ。皆が気味悪がるからと言って埋めてしまったわけだが、それでは烏天狗のたたりがあるといけないので、社を作って供養したのだろう。落ちのび街道を守らせようという気もあったのだろう。

 大戦前、片山八幡社の東側に市電を通すために竹藪を整地した折は、掘っても木片しか出てこなかったという。これ等の話を調べた僕は、その内容に驚きを隠せなかった。前述したように、僕が大学生になり最初に買ったのが、名駅前にあった骨董屋に飾られている30㎝程の烏天狗のお面だった。消えた烏天狗は僕の家で再現していたことになる。

 最初に僕がこの烏天狗のお面を見たのは高校生の時だった。画家でもあった担任の個展を見に名駅に行った折、その会場の近くの店で見つけた。その後この伎楽面が何故か、気になって仕方が無かった。大学生になってからもしばしばその店を訪れたが、何時まで経っても売れる気配もなかった。それで大学1年の時に当時の僕のお小遣いの大枚をはたいて(まだ彼女がいなかったから使えた)、ついに買ってしまったというわけだ。これまでなぜ僕がそんなに買いたいという衝動にかられたのか説明できなかった。ひょっとしてここに住み着いた妖怪烏天狗のせいではないかと気付かされた。と書きつつ信じようとはしない僕だが、不思議な偶然だ。購入して半世紀以上我が家の応接間の中央に飾ってある。

烏天狗イラスト
 僕は今まで、病気らしい病気をしたことが無い。中学校から大学そして教師として勤めた50年間以上に渡り、病欠は盲腸の5日だけだった。公務員に与えられている当然の権利の有給休暇も取ったのは30年間で3~4日だった。盲腸の手術の6日目には出勤し、生徒に担いでもらい4階の教室まで授業に行ったことがある。使命感もあるが、病気に負けることが嫌なのだ。
 「この烏天狗の伎楽面が先生の健康を守っているのではありませんか」と、妖怪好きな女性に言われた。そうかこの伎楽面を無くしたら、すぐ大病になって亡くなってしまうかも知れない?
 我が家にはこれ以外にもアフリカなど世界各国の仮面がいっぱい飾ってあるので妖怪だらけだ。知らず知らずのうちに我が家は妖怪達の集合場所、すなわち妖怪屋敷になっていたわけだ。そのうちにかあちゃん(妻)も妖怪と化して猫むすめならぬ猫ババアになるかも。その先駆けが烏天狗だった。我が家へ訪れたら方は、拝んでいくと御利益があるかも?

写真:僕の描いた烏天狗のイラスト。若い人向きに描いてみた。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR