クリムト 黄金の騎士をめぐる物語

「クリムト 黄金の騎士をめぐる物語 を見て

 愛知県美術館で「クリムト 黄金の騎士をめぐる物語」展が2月11日まで開催されている。作品群は当美術館にある≪人生は戦いなり(黄金の騎士)≫を中心にまとめたもので、ほとんど日本の周辺から集めたもの。椅子やジュエリーなど家具的な作品も多い。
 まずはクリムトの作品を紹介しよう。今回の美術展に展示されているものも数点含まれている。


写真①ウィーン旧ブルグ劇場の観客席
写真① 「ウィーン旧ブルグ劇場の観客席」28歳の折り、水彩画で劇場風景を描いて皇帝賞を受賞した作品(この作品等で社会に認められたが、自分の絵画がヨーロッパの美術から遅れていることに気付き、写実以外のデザイン的要素を加えていく。その後保守的な芸術界に革新を起こそうと、性的なテーマも多くなる)

写真②写真③
写真② 第1回の分離派展のポスター       写真③ 同ポスター(最初、ペニスが描かれていた作品)

写真④写真⑤
写真⑥
写真④⑤⑥ アトリエに恋人や娼婦、街で出つけた少女等を連れてきて描いたいかがわしいデツサン画。もの凄い数になる。これが愛好者に買われ資金源にもなる。そのため保守社会とも公然と戦い、逃避していくことになる。フランスやスペイン等では既に印象派から後期印象派に入り、新しい絵画を模索していた。世紀末の思考と相まってクリムト作品が万博等で大賞をもらうことになる。  

写真⑦  写真⑧

写真⑦「扇子を持つ女性」 1917作(ジャポニズムを加えた一般的に知られた作品)だがこの頃もうヨーロッパは立体派が飽きられかかった頃でクリムトは時代からの遅れを実感していた。
写真⑧「踊り子」渦巻き模様や構図が尾形光琳の紅白梅図を連想させる

写真⑨紅白梅図屏風
写真⑨「紅白梅図」尾形光琳

 金をふんだんに使った彼の絵は、日本の安土桃山時代の豪華絢爛な襖絵を連想させる。さらに流れる輪郭線や個々のモチーフとなる図、渦巻や三角などを見ると江戸時代の尾形光琳の紅白梅図屏風にそっくりだ。彼はこの絵を何処かで目にしたのではないか。彼は琳派の影響を受けたとも言われている。壁画なども多く手掛けているから、装飾的な絵画構成の絵も多い。
 しかしクリムトはそれだけではない。クリムトの作品に共通する最も重要なテーマは性であり、彼はそれを独創的な装飾スタイルで描きだしたことで世紀末ウィーン、さらにはヨーロッパに大きな影響を与えた画家と言える。彼の絵をじっくりと観察すれば、性が根源的なテーマとして描かれていることが分かる。だがこれ等はまだまだ上品な方で、彼の全作品を見れば、ポルノ雑誌と見紛うようなエロティックな絵がずいぶんある。それらはクリムトの価値を下げるものだろうか。否、決してそうではない。それらすべてがクリムトなのだ。
 ここで考えてほしいのは日本の浮世絵である。我々が浮世絵というと頭に思い描くのは、北斎や広重、歌麿などの風景画や美人画などだが、彼等は春画も多く描いている。そして世界に影響を与えた日本の浮世絵は春画があってこそ発展もしたのだということである。ただ公序良俗に反するということで一般には隠されていることが多いのである。
 それ故クリムトの本質に迫りたいならば、性というテーマを無視しては通れないだろう。そして19世紀末のウィーンも然りである。性が人間性の大きな役割を担っていると認識され始めた時代であり、性と取り組んだ芸術家、エゴン・シーレやココシュカそして精神分析の大家フロイトも生んだあの時代と場所なのである。
 しかし、真面目な保守社会の名古屋では 性はほとんど強調されず、隠されて展示されている。大学の授業でもクリムトを取り上げるつもりだが、僕はクリムトの真の姿を伝えようと思っている。


グスタフ・クリムト(1862~1918)

1862 彫金師の父の7人兄弟の2番目として生まれる。
1876 ウイーンの工芸美術学校に入学。
1883 弟たちと3人で芸術家会社を設立。
1886 ウイーンの劇場、階段室の天井画を依頼される。
1890 水彩画(旧ブルク劇場の観客席)で第1回の皇帝賞受賞。〈超写実的な作品で〉
1892 父と弟を失う。
1894 ウイーン大学大講堂の天井画を依頼されるが下絵の段階で反対が多く出る。
1897 仲間とともにウイーン造形芸術家協会を離脱し、分離派を結成。初代会長就任。
1898 第1回分離派展開催。ポスターをクリムトが制作。ポスターには兜をかぶり、手には槍と見るものを石に変えてしまうメドゥーサの首をはめ込んだ盾を持つ女神アテネが、象徴的シーンを見守っているようすが描かれている。女達を助けた神話の戦士テセウスが牛頭人身のミノタウロスを倒している。原画にはペニスがあったがポスターの作品は木で隠されている。
   クリムトは20世紀を目前にして取りつかれたように仕事に励む。それまでの穏やかで細密で、写実的な画面は変化し、熱狂的、精力的に瞬間をとらえたようなエロティックなドローイングになる。新興成金の資本家達の支持を得て、生活に困らなくなる。
1900 第6回分離派展に依頼されていた大学の天井画を出品。教授の87人が反対する。
   一方でこの絵は、パリ万国博覧会で金賞受賞。
1903 分離派展内でクリムト個展。
1904 貴族の邸宅の食堂に装飾を依頼されたりして、ますます有名になっていく。
1905 大学講堂の天井画の契約を破棄し契約金を返す。分離派から脱退。
   喝采をもって迎えられたクリムトの野心は、ここに至ってある意味で完全に打ち砕かれた。どんな微妙なニュアンスも喜んで理解し、受け入れてくれる金持ちの支援者たちのために仕事をしたからこそ、クリムトの今があり、アトリエで仕事をすることができた。しかし、明らかに装飾へとのめり込んでいく作品の現実逃避は、窒息寸前の生活環境と仕事環境からくるものだ。金持ちの支援者たちのグループと、アトリエという隔離病棟の中で、クリムトの芸術は出口を失っていく。
1906 芸術家同盟を結成。
1907 エロティックな画集を出版。
1908 芸術家同盟第1回を開く。ココシュカ作品展示。クリムト「ローマ国際美術展」金賞受賞。
1909 芸術家同盟第2回を開く。エゴン・シーレ作品展示。
   スペインとフランスを旅行。パリ旅行の最大の収穫は野獣派のアンリ・マチスの作品との出会いだった。マチスは絵画が平面であることを最も明快に示した画家である。かつて色の段階塗りで画面の奥行きを示したが、マチスはキャンバスの塗らないところを残すやり方でそれを変えたりした。マチスが認められた1年後、ピカソが立体派を持って登場することになる。アートは画面の色塗りだけでなく、その前に思考があることを、人々に知らしめた。
1911 ローマ国際美術展で再び金賞。オーストリアでは民衆の秩序を性的な絵や行為で乱したとして短期間だが投獄されている。
1912 芸術家同盟の会長に就任。
1915 母死去
1917 ウイーン美術アカデミー名誉会員。教授になることに閣僚4人が反対。
1918 脳卒中で死。認知された子供3人(二人の母)。それ以外14人の子の母親がクリムトが父であると申し立てた。


○ウィーン分離派=アール・ヌーヴォーなどに刺激を受け、これまでの保守性に不満を持つアーティスト(画家、彫刻家、工芸、建築等)を中心に、新しい造形表現を主張するグループ。モダンデザイン風、世紀末の官能的、退廃的な雰囲気を漂わせている。クリムトがタブーであった性に切り込んだのは効果があった。

○ココシュカ=1886~1980近代オーストリアを代表する一人。当初は画家というより詩人、デザイナーとして知られた。ドイツのドレスデン美術大学の教授。第二次大戦中はスイスに亡命。クリムトはココシュカとシーレを親身になって支援した。デザインで逃げた自分の跡を継いでくれると思ったのかもしれない。ココシュカはそんなこともあり、ブルジョワ階級に衝撃を与える美術界の野蛮人として、丸坊主で街を歩き回った。クリムトを越えた表現主義という言葉がまさに当てはまる作品を描いた。
写真⑩
○エゴン・シーレ=1890~1918.オーストリアの鉄道技師の息子。父親梅毒で死亡。
象徴主義、表現主義の影響を受ける。クリムトに好かれ画商の紹介を受け、画家としての生活を始める。街中で娼婦や少女を見つけ連れて来ては、モデルにして裸の絵を描いた。少女の親に訴えられる。実の妹との関係も持つ。第一次大戦ではもう有名であったため前線へ出ることはなかった。ヨーロッパを襲ったスペイン風邪で亡くなる。
写真⑩ エゴン・シ―レの作品「夢の観察」1911作 

 19世紀の間に人口が10倍にふくれ上がった都市ウィーンでは、19世紀末には、まさしく世紀末特有の爛熟と頽廃が社会に充満し、風俗も乱れていた。芸術の都ウィーンでも古い価値観を破壊し新しい生き方を見つけようとする多くの芸術家や一般の人々がいた。 クリムトはそういった人々の代表的人物であった。彼の作品は人物の登場しない風景画を除けば95パーセントが、女性を中心に描いたもので性を売り物にしたようないかがわしい作品が多かった。振興ブルジョワ人でクリムトの作品を買った人がたくさんいたのも事実である。
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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