妖怪屋敷 第38弾 名古屋に妖怪美女伝説

妖怪屋敷 第38弾
美人の里(名古屋)に妖怪美女伝説

 「山彊先生、中国で死んだはずの揚貴妃が熱田神宮にいたっていう話がありますが、あれは本当ですか。そうなると彼女も妖怪ではありませんか?」。熱田神宮に楊貴妃の墓と言われる小山がある。これには相当無理があるから、事実とすると妖怪でなければ話は成立しない。楊貴妃という美女だから妖怪話にそぐはないと思っていたが、立派な妖怪神話になると思った。
楊貴妃伝説
 史話によると楊貴妃は玄宗皇帝と逃げる途中、馬嵬で殺されたと言われる。ところが墓と言われる場所に亡骸が無いため、いろんな物語がいたるところに広がっている。その一つが小舟に乗って日本海へ漕ぎだし長門に漂着したというのだ。名古屋の楊貴妃伝説はそれとは異なるものが伝わっている。長門とは違ってより非現実的だから妖怪話に近いのだが。
写真右:山口県油谷町「楊貴妃伝説」パンフ

 では楊貴妃と熱田神宮とはどう繋がるのだろうか。唐の玄宗皇帝は若い頃、日本侵略を狙っていたそうだ。それを察知した熱田明神は玄宗皇帝のもとに、こっそり神に仕える美しい女神を送った。日本への侵略を断念させようとしたのだが、まあある意味刺客の様なものか。彼女は妖力を使い揚貴妃として玄宗皇帝に仕え、性的魅力で玄宗皇帝の精気を抜いてしまったのだ。皇帝は楊貴妃に溺れ、日本への侵略どころではなくなってしまった。そのため部下の謀反にあい、都を追われることになった。これで役目を果たした揚貴妃の化身である熱田の女神は、名古屋の熱田神宮へ帰ったというわけだ。徐福のように船で日本へたどり着いたか空を飛んだか知らないが、まあ妖怪とすれば帰るのは簡単だったのではないか。

楊貴妃の墓熱田神宮内
 この楊貴妃話は名古屋に昔からあり、熱田神宮の本宮横の社務所脇トイレを過ぎて50m程北へ行けば楊貴妃のお墓にぶち当たる。樹齢1000年程になるのではと思われる神木の前にある。常に(?)清水の湧く小さな池があり、その中央に50㎝程の岩山がある。それが楊貴妃の墓と言われている。
写真左:熱田神宮にある楊貴妃の墓石
 この池の前に来て、置かれている柄杓で清水を汲み、池の中央にある楊貴妃の墓石と言われる小岩にかけ、かかったら美人になるとか言われている。かける量によって美人度が上がるとか。若い頃、一度ここへ彼女を伴いチャレンジさせたかったが、そんなことしたら「私って不細工なのね」と言われそうで出来なかった。
 広い熱田神宮の分かりにくいところにあるので、知っている人はあまり多くない。僕のおやじが言うには、戦前はもっと大きかったという。それが小さな小山に変身したのは、山口県民の誰かが盗んでしまったのではないかという。
楊貴妃の墓 山口県
 実は山口県には楊貴妃の立派な墓もあり、彼女を祀る二尊寺という寺もある。まあこれも嘘っぱち臭いが、山口県ではこの楊貴妃寺が観光の目玉になっている。
写真右:山口県の二尊寺にある楊貴妃の墓石
 名古屋が楊貴妃伝説を大きく唱えると、山口県の楊貴妃寺の影が薄くなるため、山口県人が盗んだと名古屋人が邪推したのだろう。僕は戦争の爆風で飛んだのではないかと思うのだが。

 ところで問題は名古屋人がどうして無理をして楊貴妃伝説を作ろうとしたのかだ。ひょっとすると名古屋人は自分達の街には美人が多いと言いたかったのではないか。
 東京の新橋は芸者の里で、かつての著名人の奥さん(正妻)やお妾さんはここで見染められることが多かった。その新橋の芸者さんの実に70%程が名古屋出身と言われている。名古屋は美人産出地なのだ。これの裏打ちをしたかったため楊貴妃伝説をでっち上げたのかもしれない。

 20年程前になるがNHKのディレクター氏が我が家を訪ね、『名古屋美人論』の番組を作ることになったが、僕に出演してくれないかと依頼した。当時僕は『きしめん紳士が行く』(風媒社)を出版しこの地方ではベストセラー入りをしていたから、名古屋の美人に関することや諸事情が聞きたいための訪問であったようだ。彼は明治43年出版の中央公論の特集『名古屋女論』を持ってきて、これをたたき台に名古屋の美人を過去から現代までいろいろ特集する番組を作りたいと考えていた。
 この中央公論の内容もいい加減で「名古屋は料理に優れ、それぞれの具が丁寧に柔らかく調理してあるから顎を使うことも無く(だからえらが張っていない)、また歯でしつかり噛む必要も無く(だから歯が少し前に出てくる?)、歯と唇が少し出て男をとろかせる美人顔であるとまとめてあった。どんな顔かよくわからないが、これをもとに番組のために僕は名古屋美人なるものも描いた。
 この『名古屋美人論』の番組は夜の8時から8時45分までのゴールデンタイムに放映され、ステージの背後に金城学院大学の学生を中心に美女100人が雛段のように並ぶというおまけもついていた。美人の定義とは何かに始り、その時代時代の美人の変遷、特に西洋文化の普及以後の美人の容姿など様々な話題が語られ、僕も現代美術作家としての意見を結構言いたい放題言わせてもらった記憶がある。どんな顔が美人かはそれこそ十人十色であるから、当然数学の答えのように1つに決定できないが、名古屋人に美人が多いと言われれば、この地の人々は悪い気はしない。
 「山彊先生、名古屋人の典型的な美人顔は例えばどのようなものでしょうか」。保守的なこの地は外から入るものがほとんどいなくて、独自の顔立ちをしていると言っていい。例えば信長の妹のお市の方。これは戦国一の美女としてあまねく有名だが、どんな顔だったかは描かれた絵から推察するしかない。
斎籐きち19歳
 それと「唐人お吉」こと斎藤きち。彼女は尾張国知多郡で船大工の次女として生まれ、4歳で下田に移っている。7歳で河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習ったが14歳で村山家から離縁され芸者となったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となっている。彼女は17歳の時、病床に伏せていたアメリカ総領事ハリスの所に看護婦として送られるが、看護婦の概念を知らない当時の日本人には外人相手の娼婦―洋妾(らしゃめん)と呼ばれて蔑まれ、その後も悲惨な運命に翻弄され最後には下田の稲生沢川に身を投げ死んだ。この場所をお吉ヶ淵というそうだ。
写真左:斎藤きち 19歳の時
 この二人が僕の選んだ名古屋美人になるが、美人はなかなかつらいもので、妖怪の様な生きざまをしなければならなかったんだなあというのが僕の感想である。



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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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