生きることへの活性剤

誤診だった癌検診―パプアニューギニアの旅と同じ―

 保健所で毎年受けているバリウムを飲んでの癌検診で、はじめて要検診の連絡がきた。1月の終わりの金曜日のことだ。近所の病院へ行こうにも週末でやっていない。いろいろ考えたが、どうせ見てもらうなら癌センターがいいと、月曜日を待って早速胃カメラの予約を取りに出かけた。すぐその場でも検診してもらいたい私に、医者は一番早いところで来週の月曜日だと伝えた。私の家は癌家系。おふくろは59歳で胃癌となり亡くなった。おやじは大腸癌と前立腺癌、弟は前立腺癌ともう私は癌から逃げられない。だがありがたい事に、私は未だに癌はおろか病気で寝込んだこともない。
 だからこそ今回のこの通告にはまいった。あと20年は生きてやっておきたいことがある。絵で生き残りたいし、小説「雪舟」では日本の古い美術体質をひっくり返したいと思っている。堀財団の「Dアートビエンナーレ」は10年やって若いアーティストを育てなければならない。あと生存期間が1,2年と言われたら私の生涯設計が全て崩れる。胃カメラを飲むまでの1週間がなんと長かったことか。心配のあまり、これまでの食生活のパターンを変えようと、おやつはコーヒーやケーキを止め、お茶と饅頭にした。またここのところずっと豆乳を飲んでいるが(ドイツ滞在中、ミルク製品漬になっていた知り合いが大腸癌になったため、牛乳は良くないと聞き豆乳に変えた)またミルクに戻そうかとも考えた。夜も熟睡できなかった。
 1週間後胃カメラを飲んで調べた結果、何の異常も見つからなかった。「保健所の検査は誤診でしょう」ということだった。この1週間の恐怖をどうしてくれるのか。しかし何はともあれこの日の夕食のおいしかったこと。一番よかったのは俄然やる気が出たことだ。朝、寒いから起きられないということは一切ない。毎日が新鮮になり、パワー全開。
 ふと気がつくと、この気持ち、私が毎年のように一人旅でアフリカやニューギニア等へ出かけて帰ったときと似ている。行けば危険に遭遇し、死ぬ一歩手前だったことも度々ある。もうこんな苦しい旅など二度としたくないと思う。ところが帰国すると、生き残れたことがやる気のエネルギーになり、生活ペースが上がる。こういう旅行を精神がたるむころに毎年やるので、人には「山彊先生はいつも元気ですね」といわれる。私にとって旅とは死神へのチャレンジであると同時に、生への活性剤でもあるのだ。今年は「第二回Dアートビエンナーレ」の準備に忙しく、危険な一人旅を止めていたが、奇しくも同じ状態になってしまった。

「山彊先生、旅で死ぬほどの状態とはどんなことですか」。兵士やギャングから銃を突きつけられたことも3、4回ある。まあ話せば山ほどあるが、パプアニューギニアの話をしょう。ここを旅の目的に選んだのは以前「人食い人種の島」と称されていたことや、性の自由がありながら何故か家庭が崩壊せず、エイズ(私は日本初のエイズ美術展を主催している。米国ではエリザベス・テイラーがやっているので2番煎じだが)も特に問題視されていないといった点でどうなっているのか疑問を持ち、その村社会を調べてみたかったからだ。

 日本からオーストラリア、ケアンズへ飛び、そこからパプアニューギニアの首都ポートモレスビーに向かった。機内ではオーストラリア航空の乗務員に「何故そんな超危険なところへ独りでいくのですか。ボディガードをつけずにホテルから出てはいけませんよ」と忠告もされた。首都ポートモレスビーから、パプアニューギニア第2の都市と言われるラエに向かうローカル機がなんと2時間も遅れてしまい、明るいうちにホテルに着けると思った計画がくるってしまった。乗り換えたローカル線の機内では心配を少しでもなくそうと、隣に座る原住民らしき乗客に話しかけ、現地の情報を知ろうとししたら、この男、なんと現地の警察署の副所長であつた。
 2時間遅れ、ラエの空港に着いたのは夜の9時であった。空港から町までは50キロに及ぶジャングルの1本道。この地域の案内本によるとギャングがうようよいるから夜は車も走っていないという。けれど「まあ空港ロビーで一夜を明かし、朝まで待機していればいいか」と勝手に判断した。ところが降りて驚いた。空港とは名ばかりで裸電球が1個灯るだけの小屋だった。飛行機に逃げかえろうと振り返ったら、もう機も逃げるように飛び去ってしまっていた。タクシーやバスなどいるはずがなく、20人ほどの乗客は偉い人らしく部落の者がトラックで出迎えていた。彼らが行ってしまえば私はただ一人。ギャングの餌食になることは分かり切っている。おろおろする私を機内で知り合った副所長が「おれの部下のトラックに乗れ。俺の知るホテルまで送ってやる」と声を掛けてくれた。ありがたや!そしてすぐ空港に集まってきていたミニトラックに乗り込んだ。トラック5台は私の乗る車を先頭に、「よーいドン」という感じで、固まって1時間余のジャングルを通り抜けた。固まって行動しないとギャングに襲われやすいからだ。こんな旅を繰り返していると常に先読みしていかないと生き残れない。真っ黒けの怖そうな男だったが機内で話しかけておいてよかったとこの時ほど感謝したことはない。

 その後ここラエの町で数日間滞在して奥地に入る下準備をし、原住民の乗るボロバスで奥地に近いゴルカの町に移動した。ここは17時に外出禁止令が出され、商店の分厚いシャツタ―が一斉に降ろされる。私の宿のフロントには銃を持ったガードマンが二人立っている。まだ明るかったが19時には一人での夕食を終え、バンガロー形式の部屋に籠った。真夜中の12時ころ「パスポートを見せよ」とポリスを名乗りドアをノックする者がいる。こんな夜中、おかしいと思い「いま裸だから少し待ってほしい」と告げ、すぐフロントへ電話を入れる。「ラスカル(ギャング)だ。ドアを開けるな!」との指示。私はすぐデーブルや机をドアに立てかけた。その間3度ほどノックが入るが「ジャスト ア モメント」で通す。この間にフロントからガードマンが助けに来てくれると思ったが、とんでもない。ガードマンはフロントから離れることはない。離れたらフロントがやられてしまう。ドアの外のギャングと「開けよ、開けない」のやり取りが4,5時間あり(実際は1,2時間だったかもしれないが、私の体でドアに立てかけたテーブルを押し続けていると時間は無限に長く感じた)、空が赤らんできてギャングは退参。やっと震えが止まった。考えてみるに、こんな田舎にやってくる外国人はほとんどいない。一人でも来ればすぐ目立ち、ギャングの格好のカモになる。ホテル側も情報を流しているかもしれない。そこでギャングに金品を奪われたとしても自己責任でどうしようもないのだろう。金品で済むならまだいいが抵抗して命を奪われることだって大いにありうる。

バス内で知り合った現地男性
 翌朝、前日知り合いになった原住民の男が私を訪ね、奥地の両親の住む部落へ案内するという。この男はここへ来るボロバスの中で知り合った者。ただ一人子連れであったので信用し、子どもの写真を撮り、「ついでにあなたの両親も撮りたいから、翌朝私を連れに来てほしい」と言っておいたのだ。(一人で奥地の部落へ入るにはこの手がいいと判断)。その折バスの乗客20人程には日本のキャンデーを配り、仲良しになっておいた。その乗客全員に「明日は彼の両親の住む部落へ行く」と大声で告げておいた。もし男が私をジャングルで襲おうとしても、バス内の客が知っているから諦めるだろうことを狙ってのことだ。常に生き残るための次なる手を打っての行動だ。そんなことも考えて日本からキャンディーなども用意していったのだ。
写真右上:僕を母親たちが住む部落に案内してくれた男性。後ろの茅葺の家は女性専用の部落
 彼の部落では信じられない出来事ばかりを体験した。この地では女性の体から出る血や尿、汗等は全て毒とされ、男は近づかないように教育されている。これが性行動をある程度押さえエイズ患者も少ないのだろう。
男性の母親と姉妹たち
写真左:男性の母親と僕       写真右:男性の姉妹やその子供たち
 それもあってかここでは男女が別々に300mほど離れたところに集落を作って住んでいる。結婚をし子供ができても家族単位で暮さず、男は男、女は女だけで暮しているのだ。しかしそれだけで男性の性衝動は処理できないから、女性のほうもいろいろ防御態勢をとる。かわいらしい少女も近付くと多くの子が手によく切れそうな長刀を持っている。これで男たちから身を守っているのか。少女たちは私にすごく恥ずかしそうに話しかける。彼女たちは外国人に慣れていなくて素朴で純粋だ。彼女らの素朴な優しさに心が癒されほっとするのもつかの間、次の日には何が起きるかわからない旅が待っている。まあこのように死と隣り合わせの旅を経て日本に帰ると、私には生が新鮮になり、俄然元気が出るのである。

 近ごろの若者はこんな生き方を好まない。何故か。私が教える日本福祉大学で400人ほどの学生に尋ねたことがある。「死んでから次の世界があると思う人」で手を挙げたのが7,8割。「来世はなく死んだら完全におしまいと思う人」で挙げたのは1割弱。いつまでも死なない、永遠の人生があると思ったら、死を意識した今しかできない冒険やしんどい仕事などするはずがない。今の日本の若者は、死を背負っていない。これがやる気のない若者が多い原因ではないか。そしてそれを教えない教育が悪い。以前は大家族だったから祖父祖母の死や苦しむ姿を、いやでも見せつけられた。私は自分が飼い育てていたウサギやニワトリが目の前で殺され、その日の食卓に上がって食べた経験がある。だから小学校5年から死を考えていた。
 私の癌検診から若者の死生観へ話は飛んでしまった。「死後は完全にないよ。今しかやることができないよ」。今日も私はこの言葉に追いかけられている。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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