妖怪屋敷 第31弾 陰の集合エリア

妖怪屋敷 第31弾 
守山城~小幡城~竜泉寺 ― 負(陰)の集合エリア

 僕は小学校が六郷小で、中学が大曽根中だ。大曽根中学から矢田川を越えた直ぐの所が守山西中学のエリア。川向うの景色を写生会などで遠くから見て描くことがあっても、当時は行ったことは一度も無かった。戦後10年以上にわたり、行くと殴られ、捕まって帰れないよとか、みんなが違法のどぶろくを飲み、無法地帯になっているとか言われ、完全な異空間だと思っていた。僕達の中学にも乱暴な生徒がたくさんいたが「守西中の生徒がやってきた」と、誰かが告げると、蜘蛛の子を散らすように逃げだしたものだ。親達も何かあるといけないから近付かないように、言い伝えてきたのではあるまいか。
 この近辺のことを記した研究物を読んでいても、ここは名古屋の負(陰)の集まるところと書かれている。尾張徳川の落ちのび街道の途中にもあたっている。このあたりは矢田川と庄内川が合流する新川中橋までの三角形の地形で、両川に挟まれ、大風や豪雨の時には川の氾濫や崖崩れなど、常に恐怖と隣合わせだったと思われる。もちろん現在はすっかり整備され、住宅地帯となっている。
 僕は同じ守山区にある、大森の金城学院大学に勤めている。守山区は西から東北に広がる長い地形で大森は守山区の真ん中あたりにある。上記の守山西中学のあたりは守山区の西の端に当たる。同じ守山でも雰囲気はかなり違う。大森は男子大学生のあこがれの場所だった。歌にも「瀬戸電乗って、大森に行けば♪金城の可愛い姉ちゃんが・・♪」と唄われている。

白山神社内の石山
 この妖怪屋敷のシリーズを書きだしてから、陰の集まるところと言われる守山城付近のことが何となく気になり、先日勤め帰りに寄ってみた。確かに異常な空間だと確認できた。多くの霊気や亡霊を感じる。車でぐるぐる回ったが、坂道に加えて道が狭い。それでも何とか行けるだろうと進んで言ったら、狭すぎて角が曲がれない。仕方なく50m位を数十分かけてバックするはめになった。一方通行の標識も無いし、車では通行不可などの看板も無い。行政もここには入りこんでいないらしい。道の整理がなされていない。「ここではこれまで沢山の人が犬死にしているぞ」という霊気すら感じる。車で進むのは無理と判断し、車を直ぐ近くの白山神社にとめ、あたりを歩いてみた。
 この白山神社からして異様な気を感じる。神社境内の左側には小さな丘があり、そこには様々な時代に、さまざまなところで造られたと思われる石碑が寄せ集められている。例えば、吉之神社と彫られた石碑が見られるがこの名に該当する神社はこのあたりには無く、何故それがここにあるかも分からない。写真右上:白山神社内の石山
矢田川の上下流にもこの名の神社はない。またここは不思議なところで、古墳になっている小高い山の上に奈良時代の頃、社が建てられたものらしい。どうもこの近くには古墳群が密集していたようだ。エジプトのルクソールにある「死の谷」のようだ。
 そんなことから数年前のエジプト一人旅を思い出した。観光地を効率よく回ろうと街中で自転車を借りたら直ぐ壊れ、自転車屋に行って壊れたと話したら、お前が壊したといいがかりをつけられ、1万円程要求された。自転車屋のおやじと大げんかになり、何事かと思った通行人20~30人に取り囲まれたことを思い出す。多分多くの日本人は、危ない目にあうよりお金を払うパターンが多いのでこういった詐欺が横行するのだろう。僕は理に合わないことは受け入れられない。絶対払わないと言って自転車屋を後にしたが、追っかけてきて殴られる覚悟もしていた。しかし、そうはならなかった。この男はカモにならないと思ったのだろう。

守山城址宝勝寺写真上左:守山城址                          写真上右:宝勝寺
 この白山神社の数十m北西にかつては守山(旧森山)城があった。現在は宝勝寺という寺が建っている。戦国の一時期、織田信秀の弟信光の居城となっていたが、家康の祖父の松平清康が三河を統一後、尾張も手に入れようと陣を布く。だが1535年、馬が数頭、啼いたことで自分の父が主君の清康に殺されたと誤解した家来の息子が、その主君である清康を打ち取ってしまった。これはよく知られた事件で、この事を『守山崩れ』といい、主君を失った松平軍はそのため進行もせず、本拠地の三河に引き上げてしまった。これがなかったら松平軍は尾張の地を奪い、その後の信長の登場も無く、桶狭間の合戦も無かったのではないか。したがって信長や秀吉も歴史への登場も無く、日本は早めに今川か徳川氏の地になっていたかもしれぬ。この『守山崩れ』の折にも、味方同士で殺し合うという無意味な死者を多数出している。ここには何か人の心を狂わせる負のバリアが罹っているのだろうか。

竜泉寺
 また当時この守山城の2kmほど東に小幡城もあった。秀吉と家康の小牧・長久手戦の折り、ここには家康が陣を布き、さらに2kmほど北の竜泉城には秀吉軍が陣取った。だが本隊がぶつかる前の前哨戦で秀吉軍が2500余、家康軍が550人程、兵の命を失っている。この地ではこの時代だけでも相当な無駄死があったわけだ。この時は秀吉が撤退ついでに、竜泉城と隣にあった竜泉寺まで火をつけてしまった。写真右:秀吉に焼かれなかった竜泉寺の門(重要文化財)
 竜泉寺は奈良時代創建とされる古い寺で、本尊は六観音の一つである馬頭観音だ。この観音はヒンズー教のビシュヌ神が馬に変身して悪魔と闘ったという説話が起源となって、観音としては珍しい怒った形相をしている。目をつり上げ、きばを出し、髪の毛も荒々しいが、人間以外に馬や家畜も救ってくれる仏である。まあよくある癒し系の仏ではないわけだ。この地にはこんな仏像がいると奈良時代から僧たちにも感知されていたのだろう。

チベット寺院の門
 この竜泉寺の北東100mほどのところにはまた、怖い形相の仏を祭る、日本で唯一のチベット寺院が数年前に建てられた。写真左:近くに出来た日本で唯一のチベット寺院
これも何かの縁かもしれない。40年も前に僕は一人、チベット旅行をして山中の寺院を見て回った。空気が平地の7割程しかなく、厳しい自然の中信仰をつなぎとめるには、その激しい自然と闘って人々を守ってくれる怖い形相の仏が必要だと、ここに寺を建てた僧は思ったのではないか。同じようなことが竜泉寺の馬頭観音にも言えるようだ。
 一度このあたりを歩いて1000年以上前からの霊気に浸ってほしい。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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