妖怪屋敷 第23弾 後追い切腹 定光寺

妖怪屋敷 第23弾 後追い切腹 定光寺
徳川義直の後追い切腹者、その亡霊が定光寺に!

定光寺本堂
 妖怪街道(名古屋城-尼ケ坂-六所神社-長母寺―定光寺)は尾張徳川の落ちのび街道であった。僕にこれを気付かせたのは土居下には隠密同心の長屋があり、徳川義直の菩提寺が定光寺になっていることだった。どうしてこんな辺鄙な山深い寺を義直が選んだのか。一説によると義直がこの地へ鷹狩りに来て、その景色や雰囲気が気に入り、決めたという。写真右:定光寺・重文の本堂
 そうではあるまいと僕の直感的推理はつぶやく。義直は寝る折も寝返りを打つたびに脇差の位置を常に手元に置き変えていたという。彼は非常に用心深く、いまだ徳川家が安泰とは思っていなかった。義直が正式に尾張に入国した1616年は豊臣が滅亡した大坂夏の陣の翌年である。下剋上の戦国の世が終息したもののまだ火種は完全に消えていないと考えたのだろう。それに甥である三代将軍の家光との間がぎくしゃくしていていたりして、そこで落ちのびる最初のステップとしてここ定光寺を選んだのではなかろうか。複雑な地形と高所にあるこの寺は、他の国の者には分かりづらく、したがって隠れやすく、また護りやすいと踏んだのだろう。名古屋城から20キロ程の所でこれだけ鬱蒼とした場所は他にはない。しかも信州尾張藩領まで行くにも近い。

 ところで僕は定光寺にもう数十回も来ている。1回目は小学校の遠足だっただろうか。その時は義直の墓のある奥まで入った記憶がある。その後は奥まで入らなかった。紅葉狩りに来た時も本堂までで、奥は左甚五郎の彫刻のある門をくぐると何もないというジャリの頃の印象が強く、入ってもどうせ墓があるだけだし、お金(たった100円だけれど)を払ってまで見るべきものはないと判断したからだ。
写真下:徳川義直公廟
義直公の墓
 しかしこの妖怪シリーズを書き出してから、しきりと義直の廟が気になった。誰かが僕を呼んでいる気がした。そんなこともあり、60数年ぶりに義直の墓のある奥まで登ることにした。小学生のころはなんとなく見ていてその意味するところが分からなかったが、今回は正面の廟に向かって右側に9つの石造りの墓が整然と並んでいるのが目に焼き付いた。これはおかしいと。何故こんなところに別の墓がいくつも並んで存在しているのか。墓があることは何かで聞いたか読んだかして知っていたが、これらはエジプトにあるギザのピラミッドの直ぐ下にある小さなピラミッド群と同様に、その後順次建てられた、亡き妻たち等の墓だろうと軽く思い、その後は思考の外側においていた。

殉死者の墓
 だが今回は、妙な違和感が僕を立ち止らせた。亡霊が僕の足を引っ張っているようだ。実はこれは義直の後追い切腹(商い腹とも言われる)で亡くなった家来たちの墓であった。写真右:義直公の墓の前にある殉死者の墓
主君が亡くなった後49日以内に、主君への忠誠心の証しとして切腹する風習が江戸時代の初めにはあった。(その後この風習は禁止令が出た) その数が多ければ、殿さまがいかに家臣たちから慕われていたかを表すバロメーターとなり、また切腹した家臣は武士道精神の模範として崇められ、家禄も上がり残された者達の生活も保障された。拒否すれば、周りから不忠義の者と冷たい目で見られ、生活は成り立たなくなる恐れがあった。主君が亡くなる前、死を願い出て腹を切り埋葬してもらう風習があるなんて、今の我々には想像ができない。中には30歳や32歳の小姓上がりの若い武士もいた。彼らたちの無念の叫びが僕を、もう一度墓に導いたのかもしれない。
 「山彊先生、切腹といっても自分から殿と一緒に死にたいと願い出た人たちでしょう」
そうだが、弱冠30歳で誰かのために死にたいと思うだろうか。「アフガニスタン等では自爆テロで望んで死んでいくでしょう。若くても死を恐れない者はいますよ」。あれは日本の大戦中の特攻隊と同じで、支配者に洗脳された結果、憎き相手と刺し違えて死を選ぶ者達だ。この9人は恨みや怒りがあるわけではない。きっと世間体や周りからの強要による無念の死であったに違いない。となれば幽霊妖怪の類の心境に繋がり、蘇ってもおかしくはない。彼等は、誰か自分を理解してくれるものが来ると、テレパシーでその怨念を伝えるのではないか。
 この9人のうち、一番死にきれず最後まで逃げきろうとしたのは、やはり一番若い志水八郎衛門でなかったかと思われる。甲斐出身で義直の小姓になり、その後志水家へ婿養子に入り、親戚中からいじめられた。そんな折、義直公が病になった。すると沢山の側近が殉死を申し出た。彼は養子の身で他国出身だからそこまで忠義の気持ちもなく、殉死なんてとんでもなかった。ところが志水家としては死んでくれないと肩身が狭いし、石高も増えない。ついでに態度のでかい養子を処分するには今がチャンスと、どうも親戚が勝手に養子の跡取りも殉死すると申し出てしまったらしい。武士に二言があってはならない。嫌がるのを強引に切腹させてしまった。
 この時代大名家では殉死の数を競うようになっていた。この9名の殉死者は大名の中でも特出し、徳川本家よりはるかに多かった。ちなみに家康の折りは無で、2代将軍の秀忠は一人だけだった。
 義直の死は華々しく9人もの殉死者で彩られたが、この精神が名古屋の派手な冠婚葬祭のもとになっているようだ。祭壇の豪華さや花輪の多さが問題にされる土地柄である。まあ言ってみれば殉死者は式場に飾られる花輪と同じような存在ではなかったか。東京に住む娘の話によると、名古屋はテレビも新聞も結婚式場と葬祭のコマーシャルがすごく多いという。志水はこの派手な葬儀のターゲットに、婿養子だからなったのではあるまいか。この無念さを彼は僕に伝えようとしている。 

 このような殉職については森鴎外が小説、『阿部一族』で書いている。藩主の死が近づくと、側近たちは一緒に死なせてほしいと、殿に申し出る。許されると切腹し、殿の近くに葬られ、跡取りの石高が増える。嫌なら辞められるかというと、そうはならない。次の領主や重臣たちのいじめに遭い、最後はお家の断絶になることだってある。子供や妻のために嫌でも結局は切腹を受け入れられされる。『阿部一族』の中では、阿部氏は殿に殉職を申し出るが、殿は阿部の人望も踏まえ死を望まず、息子のために生きて面倒を見てくれないかと頼む。もし許可のない状態で死ねば殿の命に従わなかったことになり、唯の犬死になる。殿の死後、阿部は躊躇するが、周囲の非難もあり結局犬並みの死を選ぶ。殿の許しを得て死んでいれば石高も増え、跡取りに無事家督を譲れるが、彼はこうはならなかった。そして最後は家族全員が壮絶な死に追い込まれるようになる。鴎外はこれを劇的に描いている。

名主宗吾の幽霊
 ところで、この尾張の殉死者、志水家の婿養子のように無念さと恨みの怨念を抱きながら死んでいった者は結構多いのではないか。一般的に江戸時代の幽霊はほとんど女だが、ひょっとして男の幽霊もいてこの様な怨念から成仏できていない霊も多いのではと想像される。そこで探してみたら、浮世絵によく似た男の幽霊を見つけた。名主の宗吾は、重税に苦しむ農民を代表して処刑覚悟の直訴をする。訴えは認められたが自分だけでなく、妻子も磔にされてしまった。こうなると死んでも死にきれない。そこで幽霊となって現われる。浮世絵版画の中では珍しい男の幽霊だった。写真右:名主宗吾の浮世絵幽霊

 志水八郎衛門の切腹日は1650年の5月7日だから、この日に定光寺で彼の成仏する会を持ってもいいと思う。こうすることによって、お上に逆らわず、財産も顧みず派手な葬儀を行い、世間体ばかりを気にする名古屋から、悪しき風習を一つでも葬りたいが。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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