雪舟神話の欺瞞 その6 雪舟 東シナ海を渡る

雪舟神話の欺瞞 その6
雪舟 東シナ海を渡る

五島列島の島々
 しばらく前まで甲板では船頭たちの酒盛りの声が聞こえていたが、今は何の音もしなくなった。東シナ海を渡る寺丸は、夜の凪ぎに捕まったらしく進まなくなっている。船べりを打つ波の音もない。写真右:東シナ海を進むと最後に見える五島列島の中の小さな島
 雪舟は、船底で横になっていた。禅宗の僧には当然酒をたしなむ習慣もなく、酒の勢いで眠ることもない。寝返りを打つこともなく、寝る折に仰臥はしない。上を向いて寝ることは屍睡といわれ死人がやることなのだ。下を向くことも許されない。これは男が女を抱くときの体位で淫睡と呼ばれ悪夢のもとと言われる。一般には女性との同衾なら男にとって嬉しいことだが、僧にとって性欲は邪悪なことなのだ。だから雪舟も人前ではその規律を守り、右わきをつけて寝っている。女性と添い寝する場合左の脇をつけるから、右になるのだろう。だが時には夜更けに半風(シラミ)に襲われ逆になることもある。この時代、禅僧の性道徳は地に落ち、「一人が出家すれば10人の女が淫せられ、一方に寺があれば四方が淫せられる」とささやかれ、僧の世界は乱れるだけ乱れていた。が、だからこそ、せめて一般人の前では禅僧の規則で決められた体位で眠るのだ。
 甲板は船頭たちに譲り、商人や僧たちは船底で眠る。正使、副使は甲板にしつらえられた居住区で眠る。船底で寝ている雪舟の右耳下には木枕があり、船内の音は全て船底の板を通し、拾うことができる。無音の中しばらくすると、「ガリガリ、ガリガリ」という音が伝わってくる。どうも船内に積まれた米櫃を、人が寝静まったのを見定めてネズミがかじっているようだ。玄米を固めに煮たお粥用の米を狙っているのかもしれない。ネズミの番用に唐猫を2匹乗せているが、人間と同様に眠っているのか、動きを止め捕獲に入らない。突然の乗船で船酔いをしているかもしれぬ。中国の猫は遣唐使船でたいせつな巻物をネズミから守るため、もう数百年も前に日本へ連れてこられている。だからこの二匹の猫は子孫として百年ぶりの里帰りになる。

写真下:切手になった明船のイラスト
遣明船切手
 この時代日本は竹や木材の豊富さもあって大きな容器は桶樽中心になっている。桶樽はスギ材や日本特産のさわら(ヒノキ科)で造られ、軽く丈夫で長い航海にはより適している。水や濁り酒と、灯明に使う油はここに詰め込まれネズミは太刀打ちできない。雪舟にとって木をかじるネズミの歯音だけは気になる。幼いころ、空腹と修業で米櫃の玄米をそのままかじり和尚さんに見つかり、「こら、ネズミめが」と叱られた経験がある。ネズミと同列に扱われたことへの屈辱がいまだに尾を引いている。「家にネズミ、国に盗人」と世間で言われたそのネズミ並みに扱われたことが心から離れない。
 雪舟と言えば、本堂の柱に縛られ、涙でネズミの絵を描き、そのうまさに和尚さんが本物のネズミと間違えたという逸話が有名だ。しかしこれは後から狩野永納がでっちあげた作り話である。にもかかわらず、数々の書き手や話し手がこの逸話を取り上げている。雪舟を正しく評価したいのなら作り話と注釈を付けたとしても、そろそろ使用は控えるべきだ。雪舟を語る講演者は、ほぼすべてこの偽話で講演を盛りあげる。まあだから、人が飛びつくだろうことを狙って狩野永納は『本朝画史』に、この作り話を挿入し話を盛り上げ、雪舟を歴史に登場させたとも言えるだろう。

 ネズミの歯音は雪舟に昔を思い起こさせ、さらに今後の自分の行く末に思いを巡らせた。
今この船に乗って嵐にあって遭難する確率はかなり高い。よしや無事明にたどり着けたとしてもその後のことは全く未知数だ。夢を追いかけて明に渡ると言っても不安と恐怖は限りなく広がる。自分は日本国が正式に派遣している僧ではなく、ある意味勝手に遣明船に乗り込んでしまった一介の名も無い僧なのだ。あれこれ考えだすと雪舟はますます眠れなくなった。
 恐怖に直面した場合、多くの人はそれから逃れようとする。だが、ある種の人間は負けると思っても、恐怖と対峙し、逆にそれに立ち向かうことで恐怖から逃れようとする。雪舟もこの種の人間だった。他の禅僧のように身の安全を確保しようと早いうちに危険な場所から逃れようとはしない。恐怖から逃れるのではなく、恐怖に歯向かう行動を起こす。多弁で人懐っこいのも、知らない人に立ち向かうという行為の裏返しと言える。どうなろうと死より大きな恐怖は無いと承知しているからでもあるのだろう。明へ渡ろうとしているのも、その延長線ではないか。
雪舟はこの明船に乗るまでまともに絵を描こうとしなかったし、自分に絵の才能があるとは思ってもみなかった。大内に滞在中作品を描きまくったとすれば、それは人々が相國寺の僧イコール水墨画の達人と思っているから描かされたのだ。
 画聖とまで言われている雪舟をそこまで私が断言するのは私なりの根拠がある。絵描きは自分の実力を知っている。雪舟はまさかあの筆さばきで自分を達筆とは思っていなかっただろう。彼は大内の人々に嫌われて明行きがだめになることを恐れ、相國寺にいたころの周文の立ち居振る舞いを思い出し、見よう見まねで描きだしたのだ。雪舟は周文から絵を学んでいたと自分で言っていたから、私が述べていることと矛盾する。しかし、相國寺鹿苑院幹主が自ら記した当時の日記を見ると、周文の時代、宗湛、正信、能阿弥等たくさんの水墨画家が登場するが雪舟は何処にも登場しない。もちろん当時はまだ雪舟を名乗っていたわけでないが、その前の名である等楊も登場しない。雪舟が自ら宗湛に御用絵師の位を譲ったにしてはおかしい。大内氏の領内で身を処するための嘘だと思われる。けれどそれによって大内の民が喜んでいるのだからそれはそれでいいと思ったのではないか。喜んでもらうためには描かねばならないし、より喜んでもらうためには自分を天才に見せなければならない。ピカソも同様のことをやっていた。ピカソはこんなことも言っている。「郊外に出てきれいな花を見つけると、神も私と同じ芸術家だったんだ」と。これはピカソが自分を神と同等にまで持ち上げて宣伝していた例だ。

写真下:明(中国)の陸地が見える。(500年後の今は、大気汚染でかすみ陸地がまともに見えない。昨年の僕の旅より)
明(中国)に近づく
 ふと気が付くとネズミの歯音は聞こえなくなっていた。明行きという大きな目標の前にネズミごときはたいしたことではないと思えてきた。雪舟は自分がいい人生を送っているとは毛ほども思っていない。今までの人生に満足しているならばこんな旅に同行し、船底で転がって寝ているはずはない。不満だからこそ、相國寺の僧たちに一矢報いたいからこそ、こうして船に乗り、嫌なことでも平気でいられるのだ。私がアマゾンやアフリカ等へ過酷な一人旅をするのも全く同じ発想から来ている。
 船は真っ暗闇の空間に浮遊しているように感じられる。凪ぎとなった空間は油の海に迷い込んだように静まり、これが極楽の善見城につながるか、はたまた八大地獄につながる地獄行きなのかと不安と恐怖を呼び覚ます。
 「等楊どん、眠れませんねー」良心が話しかける。「そうだね」と良心に答えるというわけでもなく返事をする。彦竜も何となく眠れないようで寝返りを打っている。良心、彦竜の二人は今回雪舟と同行して明へでかける禅宗の僧である。年長の雪舟は、僧としての位は二人より低いが、機転が利き世渡りがうまいので二人の親分格の役割が回ってくる。このころはすでに雪舟という号を龍崗眞圭からもらっていたが、慣れた呼び名の方が仲間としての親近感がわく。
「明のおなごはどうかのう」雪舟はとぼけた返事をした。別の話題で切り返す雪舟に不安でしょうがない2人の同行者は、ますます尊敬の念を高めていった。


※この章より書き方をかえてみた。というのは明での資料がほとんどなく、同行の周興彦竜や呆夫良心、桂庵玄樹(寺丸副使)等が、明における雪舟の動向について書き残しているが、それもほんのわずかにすぎない。しかも対相國寺を意識したものなのでもう一つ信じられない部分があり、つじつまの合わないことが多い。従って遣明船上から明における雪舟の動向については、きっとこの様であっただろうという私の創作のストーリーが時々登場することになる。
 一番の問題は雪舟が日記を残していなかったことだ。彼は筆まめではなかったと思われる。また自作の絵に書かれた署名の文字を見ると当時の僧としては決してうまいとは言えない。そんなことも雪舟が日記や書き物を残さなかった理由ではないだろうか。
同行の者が帰国後記したところによれば、明滞在中には雪舟は超有名人であったとある。これも少々疑わしい。もしそうなら、帰国してからもいろんなところからのお呼びがかかるはずだから、そのためにも普通なら記録を残しておく。また帰国後本人が書くことだって可能である。またもし雪舟がそれほど著名な画僧だったら、同行者や知人だけでなくもっと多くの人が雪舟について書いていてもいいはずである。このあたりを含めてこの後私は次を書き進めたいと思っている。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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