『F氏の絵画コレクション展』

驚きの『F氏の絵画コレクション展』
豊橋市美術博物館にて  8月26日まで

F氏の絵画コレクション

 僕が憧れ、目標にし、またライバルとして競い合った芸術家達の作品251点が展示されている。それが『F氏の絵画コレクション展』である。写真右:『F氏の絵画コレクション』冊子の表紙
 今や世界のアートの寵児である奈良美智や草間弥生、僕の若い時、美術界の神様のようであった脇田和や糸園和三郎、それに北川民次や山口薫、鶴岡政男に小山田二郎等そうそうたる作家の作品群が並ぶ。
 その上さらに驚くのは、これらの作品が美術館の集めたものでもなく、大企業が購入したものでもなく、普通よく行われる新聞社が借り集めて展示したものでもないことだ。
 なんとそれはただの美術教師兼芸術家がこの30から40年かけて購入したり、自分の作品と交換したりして集めたものなのだ。何十年も前に購入したから今より安かったとしても何千万円はかけているだろう。
 
 これを成し遂げたのは僕の先輩の近藤文雄氏だ。彼は先輩の中で僕が唯一尊敬でき、競い合う絵描きだった。当時この地方の美術系大学は愛知教育大学だけであったから、先輩の中でというより全ての絵描きの中で目立っていた。名古屋地方は美術的に遅れ、絵描きは日展とか二科展等公募団体作家がこの地を取り仕切り、マスコミもそれに追従していた。

近藤文雄
 そんな折、講談社が世界現代美術全集を戦後日本で初めて発行した。この全集には、全世界からピカソやマチス等を含む百数十人が、日本からは六、七十人程の画家の作品が選ばれていた。その中で愛知の作家は2人と1グループ以外誰も選ばれていなかった(河原温や荒川修作、赤瀬川源平はニューヨークや東京に住んでいるので除くが)その一人が近藤文雄でもう一人が僕、グループはゼロ次元(代表岩田信市)であった。
写真上:世界現代美術全集『現代の美術』第3巻より 左ページ 河原温  右ページ 近藤文雄
写真下:同第3巻 左ページ マッタ  右ページ 山田彊一
山田彊一作品掲載ページ

 近藤文雄や岩田信市もそうであったと思うが「ヤッター、これで愛知の美術を変えられる」と思ったのではないだろうか。われわれが旗手となって名古屋のアート界を東京、大阪並みにしようと・・。だがとんでもなかった。封建的な意識が強いここ名古屋では我々は単なる変わり者、異端者と見なされ、ますます無視をされ始めた。
写真下:同第11巻 左ページ ゼロ次元  右ページ the PLAY
0次元


 当時は、政治も芸術文化も反体制、前衛運動が隆盛を極めていた。名古屋の旧態然とした芸術状況の打破を目指す若い芸術家たちが県の美術館に、ごみをナイロンのふくろに詰め、縄で碁盤の目に仕切られたマスに1個ずつ置き作品として展示した。それに怒った美術館側や公募団体が仕切る審議員会は作品を撤去してしまった。作品はキャンバスに絵具と思っている連中だ。世界の美術界が、東京が、大阪がどうなっているか全く知らないようなのだ。この頃愛知の美術館には学芸員が一人も採用されていなかった。田舎名古屋の役人は、美術館に学芸員が必要なことすら知らなかった。美術館の役人は区役所と同じ人事だった。
 それまでも役人や世界の美術状況をまったく勉強しようとしない公募展の画家達には頭へ来ていた世界現代美術全集組は、今こそ彼等の不勉強ぶりをあぶり出してやれるとして裁判に持ち込んだ。これでますます公募団体との軋轢は深まった。だが旧体制が幅を利かす名古屋では、多勢に無勢、勝てるはずも無く、異端者視はさらに強まった。その後岩田信市は大須ロック歌舞伎を始め、僕は名古屋を出て世界の僻地への旅やパフォーマンス展、その後は世界規模のコンクール展での賞金狙いに焦点を合わせていった。近藤文雄だけは目立った動きをせず噂も聞かないので、きっと美術教育に邁進しているのかなと思っていた。
 
 それが今回の美術展で彼が何をしていたかが分かった。こっそり彼の美術的感覚が善しとする作品群を集めまくっていたのだ。彼は絵をあまり発表してないからもうアートから逃げたのかなと思っていたが、そうではなかった。名古屋的美術観を越えたいい作品を集めていたのだ。僕はこれもアートの一つのやり方だと思う。個展や海外への一人旅は1回すれば百万円近くなる。僕は60ヶ国程外国へ行っているし東京個展も名古屋より多い。これらを合わせれば彼が絵を買い集めたぐらいのお金は使ったかもしれない。だけれど僕には彼の真似はできない。だから自分とは違った生き方にますます尊敬の念が湧く。

 だが一つ気になることがある。これらの作品を今後どうするつもりなのかだ。このまま彼が亡くなれば、税金がものすごくかかる。結局彼の集めた作品を家族は売らざるを得ないだろう。そうして歯抜けになった彼の作品は、もう一貫性もなくその価値を失う。
 きっと彼が願っているのは、どこかの美術館が全ての作品をまとめてコレクションしてくれて、使ったお金の半分でももらえないかということだろう。これは今の公立の美術館のシステムでは不可能だ。一般人にも知名度の高い奈良や草間の作品だけなら貰ってくれるが、それをすると『F氏の絵画コレクション』の意味が無くなる。
 こんな話をある私立美術館のオーナーに話したら、「僕のやれることならお手伝いしてもいいよ」と言われた。これは有難い言葉だ。「山田君ならどうしたらいいと思うか」と聞かれたから、作品全部をコレクションしてあげるならそれだけでもうれしいだろうが、まあ欲を言えば彼の名が付いた美術館でも出来て、そこの館長をやらせ、それ相応の月給を、また作品購入に使ったお金の何がしかでももらえると彼としてはとても嬉しいのではないか」と言っておいた。さあどうなるか。近藤先輩は豊橋より名古屋で常時展示したいと思っている。彼の申し出はとても魅力的だと思うが。 

※近藤文雄氏のエピソードを1つ
 僕が、「近藤先輩はすごかった、美術手帳の年末特別号(12月号)にその年に活躍した作家が掲載されるけど、60年代の美術手帳にはいつも取り上げられていたね」と言ったら、近くにいた他の著名な現代美術作家が、「僕も6~7回は載っていたよ」と発言した。その発言に怪訝な顔付きだった近藤氏は翌日、60~69年の美術手帳の12月号、計10冊を全て、重いのに豊橋の自宅から抱えてきて、「昨日の話はおかしいよ。60年代では僕が7回、山田君が6回、あと愛知県地区で4回以上は1人もいなかったよ」と発言した。彼の几帳面さがうかがわれる。芸術家は負けん気が強いと言われるが、静かな彼にもそんなところがあるのだなと感心した。



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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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