針生一郎が選んだ60年代の現代美術展、終わる

〈針生一郎が選んだ60年代の現代美術展の終幕にあたって〉

 名古屋の閑静な歴史地区にある『文化のみち堀美術館』は地下鉄の駅からは少々遠く、やや交通の便が悪い。なのに、期間中なんと2500人程の来館者があった。来館したほとんどの人が「あいちトリエンナーレよりレベルが高い」と話していかれた。トリエンナーレの提灯担ぎになるからと出品を辞退した岩田信市さんまで、出せばよかったと反省していた。トリエンナーレに利用されたのではなく、利用したことになったのかもしれない。現代美術が最高の盛り上りを見せた60年代の美術史における歴史的意義を、この美術展は再確認させてくれたと言えるのではないか。「あいちトリエンナーレは内容が軽いけれど、ここは重く見ごたえがある」とも何人かの人から言われた。針生先生は亡くなられたけれどここ名古屋で蘇ったのかもしれない。

 「山田さんは全部を取り仕切って奮闘したようだけど、どうでしたか?」と質問されたことがある。生前の針生さんや各作家達、それに財団の堀会長との打ち合わせや交渉でものすごく大変だった。実際とても疲れた。美術家はみな、自分が一番才能があり、偉いと思っているから調整が大変だ。やっとオープンしたら出品者の後藤さんから「あんたは僕たちVAVA現代美術集団を軽く見ている。二階に展示するのは失礼だし、マスコミが来たら先ず第一に僕たちの活躍ぶりを語るべきではないか」と怒鳴りつけられた。
 VAVAに関してはここ名古屋では60年代当時も美術関係者が完全に無視をし、現在ではほとんど忘れられ、その存在すら知らない美術評論家もいる。この60年代前衛美術家への無視は僕に対しても同じことだった。お上にたてつく反体制的な前衛芸術は、保守的なこの地では急速に終焉を迎えたのである。まだ現代アートの何たるかも知らず、田舎文化の中に浸ってお山の大将でいたこの地の体制側の画家たちは反体制と言う危険な地域に足を踏み入れたくなかったし、自分たちとは違うこの時代を語りたくないのだ。60年代は愛知のほとんどの絵描きにとって猿の惑星のように知られたくない時代なのだ。それを今回僕らは公にした。これだけでも今回の展覧会をやった意義は大きいと僕には思える。

 余談だが、一つ面白いのは後藤さんが怒鳴った話を聞いた出品者の近藤文雄さんが家に帰って、60年代の美術雑誌『美術手帳』(10年分)に写真等が載った出品者の回数を調べ、僕に夜FAXを入れてきた。近藤が7回、僕が6回、後藤が4回、庄司や小本、石原が2回、ノロは1回と・・。まあ暇な男だ。だが彼もあのすごかった60年代の名古屋を動かしたのは自分だと言いたいのだろう。
 芸術家たちは皆自己顕示欲が旺盛なのだ。まあそれが彼らの制作欲を高めているのだからしかたがないが。庄司さんが展覧会閉幕後、「ぼくは60年代末に名古屋へ帰ってきたからほとんどこの時代の名古屋における美術の動きを知らないのだよ」と話してくれた。彼が我々に高飛車で冷たかったことが理解できた。彼と同じように60年代末に帰名し、60年代のこの地の美術を何にも分かっていないのに、堂々と当時のことを述べている評論家がいる。無論60年代に活躍した美術家(例えば今回の出品者)の誰にもインタビューしたこともない。この美術展を観て多分反省してくれたと思いたい。彼に対して「60年代の美術状況を勉強もせずに勝手なことを書くな」と怒っているギャラリスト達もいる。

 さて最後にあいちトリエンナーレをどう総括するか。妥協を許さない針生先生なら、ひどいものだ、散々だといったかもしれない。確かにいろいろな美術関係者が述べているように問題点も多々あった。しかし総括的に見て、この愛知に清須越しの先祖代々400年にわたって住んでいる根っからの名古屋人である僕から見れば、まあこれなら成功だろうと思われる。この保守的伝統の強い名古屋においてこれだけの美術展ができたのだ。神田知事のトップダウンで(今回は河村市長とよく似ている)進めなければ古い体質は抜けなかっただろう。
 毎年行われる、郡部の中学校が催す名古屋への社会見学の生徒をうまく取り込んだのも成功と言えるかもしれない。それは単に入場者数を増やすのに役立ったということでなく、彼らが将来の愛知に希望を与えると思うからだ。学校内で行われる古い体質の美術教育から放たれて、あいちトリエンナーレ展を生徒たちは観たのだ。彼らに美術とは何かを考えさせるよい機会になったに違いないと思う。僕たちの展覧会まで中学生らは鑑賞しに来ていた。 彼らに夢を託したい。


〈針生一郎先生の思い出〉

 ここでちょっと針生先生のことをお伝えしたい。僕の約50年間にわたるお付き合いや、最近の『針生一郎の選んだ60年代の現代美術展』の打ち合わせや、僕の教え子の筑波大生(前述)からの情報の中から、表にでないであろう先生のエピソードなどをお話したいと思う。針生先生と言えば前衛美術界を代表する重鎮で堅いイメージが強い。しかしそれだけではない先生の人間的でおおらかな柔らかい面もこれらの話から知っていただけたらと思う。

 2年前、僕は針生先生の書斎で、少し前に亡くなられた奥様の、窓際に置かれた位牌を前に線香をあげていた。奥様はこの庭が大好きであったと先生は言ってみえたから、庭の望める窓際に位牌が置かれているのだろう。僕の名芸での教え子が筑波大院生になって名古屋のわが家へ訪ねてきた時、僕は彼に針生先生の所へ庭掃除に行ってはどうかと提案した。高齢の一人暮らしでは庭の手入れも大変だろうと思ったし、若い芸術家の卵である彼にとっても針生先生との出会いはきっと意義あるものになるだろうと思ったからだ。
 庭の清掃をしていたおかげで彼は針生先生の開いている勉強会にも加えてもらい、先生の身近な一人になった。彼の掃除姿を見て、真似をして掃除を始めた針生信仰者もいたとか。ある折、休憩で呼ばれて書斎に行くと、ものすごくカビ臭いお茶が出されたという。急須に入れたお茶の葉が何日も変えられていなかったようだ。カビも同じような緑色だから見抜けなかったのだろう。
 また先生は詐欺にもよくあわれていたようだ。一度は床下にハクビシンがいると業者に言われ、その駆除に16万円取られたそうだ。勿論ハクビシンなど存在しなかった。また例のオレオレ詐欺で、偽の息子さんからの電話で、「女に子供をはらませた。200万円振り込んでほしい」と言われ信じて引っかかってしまったという。きっと自分の息子ならやりかねないと思ってしまったからのことだろうか。
 動脈留で血管が3㎝に膨れ上がり、「タバコを止めたら、もう少し生きられる」と医師から告げられているのに「止める気はないんだよな」と公言されていた。倒れられたのは玄関でのこと。何かの仕事に出かけようとしていたらしく背広姿だったそうだ。御用聞きの魚屋さんが午後に訪れて見つけられたとか。気鋭の美術評論家として針生先生は最期まで現役のまま死んでいきたかったのではなかろうか。

 先生はたくさんの美術展の審査もしてみえた。亡くなられた後主催者はその穴を多くの他の審査員で埋めることにした。僕の知り合いのある美術館のボランティア学芸員によると、審査がうまく進まなくなったという。ほぼ全員がそれぞれ別々の作家を選び、票が重ならないのだそうだ。針生先生のような芸術、学問に優れた評論家がいなくて、それぞれが勝手に入選者数人と受賞者一人を選んで審査を閉じたという。会議ではそれぞれの審査員が主義主張を通すので、ドングリの背比べとなり、分裂状態になってしまったのだ。やはり我が国にとって偉大な人を失ってしまったような気がする。
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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