雪舟神話の欺瞞 その5 遣明船で五島列島の奈留からニンポーへ

雪舟神話の欺瞞 その5
遣明船で五島列島の奈留からニンポーへ

奈留島の海岸風景
 応仁元年初春、雪舟47歳の折り、彼は五島列島の奈留島の港で良風を待って待機していた。写真右:奈留の海岸風景
ここは明に持ち込む日本商品の集積地であり、中国貿易の日本の最前線でもあった。造船機能も備え、200m程の高さの山には奈留氏の城もあった。船は甲板に遣明正使のための居住区を増設したものであり、また輸出品の硫黄、銅等の鉱産物や刀剣、槍や鎧、扇子や屏風等あらゆるものがここ奈留で積み込まれた。
 遣明船は3隻を親船として、それぞれたくさんの随船を従えていた。幕府の正使船は「和泉丸」、細川氏は「宮丸」、大内氏は「寺丸」で雪舟は寺丸に乗り込むことになっていた。雪舟はここで数十日過ごすが、どんな心境だったか、考えると楽しい。恐怖と希望が交差して、人生の中で最高の興奮の時ではなかったか。大海を渡る恐怖、明での悪路難路も予想されるが、そのようなことは取るに足らなかったと思う。人間、怒りや目的が鮮明ならば何も恐れないものだ。
 私も30代の頃、保守的な名古屋で体制に歯向かう前衛芸術を目指したため、四面楚歌の状態に追い込まれ、全てに怒っていた。私を取り巻く画家連中、新聞社、美術館、体制側について出世すべきだと私を罵倒する身内等々。美術に関してはこの名古屋で誰にも負けないと思っても敵が多すぎた。その頃はベトナム戦争で米兵と闘うベトコンがある意味、うらやましかったものだ。正義という思いがあり米兵を倒すという目的が鮮明だった。だから敵を倒すため、何時間でもウジ虫のわくような地中に潜っていられると思ったものだ。
 雪舟も年老いたとはいえ、今に自分の力を知らしめてやるという意気込みで、対権力僧、対相國寺と目的がハッキリしていたから恐れはなかったと察せられる。この頃は空海や最澄のころと違って、既にある程度正確な羅針盤も使われるようになっていて、東シナ海を渡る恐怖はそれほどではないと思われるが、もちろん安全という保証は今よりはるかに低い。

奈留大明神
 私も雪舟のそんな気持ちに少しでも近付きたいとこの地に、宿の予約も入れずやって来た。奈留での私の宿は、航海の安全のための祈祷や能が奉納された奈留大明神のすぐ前の民宿であった。写真左:民宿前の奈留大明神。
フェリー乗り場から一番外れたところにあり、辺鄙であったから選んだのだ。ここは一文菓子屋と郵便局も兼ねた民宿だった。奈留大明神は聞くところによると、以前にあった海の際からここに移したという。島は八つ手のような曲線を描いて陸地がつづき、3日程もあれば隅から隅まで歩けそうだ。信号機も1機しかない。私は民宿で自転車を借り、島中を走り回った。途中の山道で転倒し、両膝を大きく擦りむいてしまった。すぐ1軒しかないコンビニ兼薬局へ行くが赤チンや大きなバンドエイドがなく、結局膿ませてしまい2,3週間風呂に入れなかった。傷跡が消えたのは1年後だった。
 雪舟はここに数十日滞在していたが、当時のこと、どうしていたか知りたかった。雪舟の乗った大内氏の船は数十日後日本を離れたが、幕府船や細川船は応仁の乱で京都が乱れていて、積み荷も順調にいかず、そのうちに風向きも変わって1年間ここに留まることを余儀なくされた。

 私がここへ来る必要に駆られたのは、雪舟の気持ちに同化したかったのと、雪舟の痕跡に少しでも触れたいという願望からだ。空海の痕跡がいたるところにあるように、雪舟も存在した証拠がどこかにあってもいいと思ってのことだ。前述した恵鳳によると、雪舟は当時京都をしのぐ勢いのあった山口の地で、ものすごい有名人であると言う。その有名人が数十日もここに滞在していたのなら、何処かにその痕跡がある筈だ。記念碑があってもいいし、描きまくった水墨画の一枚でも奈留氏の記念館か庄屋の蔵にでもあり、島の宝物になっていても不思議ではないと踏んでいた。だが何もなかった。島の住民も空海や最澄は知っていても、雪舟については何のコメントもなかった。廃墟となった島の小学校を美術博物館としてオープンしていたが、雪舟の名は何処にもなかった。この島に雪舟の面影が全く見られないことは、明へ渡るまでの雪舟は無名に近かったという私の雪舟観が当たっている気がする。この島で渡明待ちをしている者は相國寺直々の画僧も多く、大内に住む画僧なんて相手にされなかったのではないか。だからここでの雪舟は作品の1枚も描いていないと想像できる。絵でも描くと、かつての相國寺の仲間に「知客の身分でよく偉そうに習ったような顔をして絵が描けるな」とでも言われそうで、それを恐れたのではないか。

夏井の井戸
 島には空海も飲んだであろうといわれる「夏井の井戸」と呼ばれる井戸が入江の数メートルの所にあった。この井戸の水は夏でも腐ることがなく、遣唐使の頃は柄杓で汲んでいたという。きっと雪舟もこの水を飲んでいたであろう。写真右:空海も雪舟も飲んだと思われる「夏井の井戸」。
ここでの雪舟はおいしい魚を食べ放題で合ったと想像できるが、私の民宿の食卓にはたいした魚は並ばなかった。「2、30年前は魚釣りの客がわんさとやって来て、この廊下でも寝ていた」と宿のおばさんは話してくれるが、今はほとんど来ないと言う。島を歩いてそのわけが分かった。陸と海の境目は全て護岸工事がされ、これでは魚が逃げ出すだろうことが想像できた。島の一番の産業が公共工事であると聞いてまた納得した。魚は逃げても国からのお金は欲しいのだろう。今思い出すと原発の福島とダブって映る。原発は怖くても、都市へ出稼ぎに行かなくてもいい地元での仕事が欲しいのだ。
 さて雪舟は奈留島の隣にある遠値嘉島で順風を待って幕府船や細川船より1年も早く、東シナ海へ漕ぎだすことになった。これも雪舟にとって幸運だった。この1年が雪舟の「四明天童第一座」を得るチャンスにつながった。時間的ゆとりがあった(「四明天童第一座」の位が得られたのが事実とするならばだが)。短い滞在で、相國寺の僧と一緒だったら、彼等の横やりが入り、奈留島での生活と同様に動きが取れないことも想像できる。大内氏の船が他の船より1年も前にニンポーへ着いたことは偶然とは言いながら、雪舟に運が味方したのかもしれないし、またその幸運を自分の糧としていく雪舟は、やはり大芸術家と言っていいだろう。このような私の見方を、雪舟研究者はしようとしていない。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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