妖怪屋敷 第14弾 「おからねこ」と矢場の化け猫

妖怪屋敷 第14弾
「おからねこ」と矢場の化け猫

 「妖怪屋敷13弾」でネズミの話を書いた。ネズミとくれば猫、ということで思い出したのが、親父がよく聞かせてくれた化け猫話だ。場所は大須なので、東区の妖怪街道の話から外れるがちょっと書かせていただく。
「山田(親父のこと)さんは名古屋の生き字引だ!」と言われることを、すごく喜んでいた明治生まれの親父だが、造り酒屋の養子になってからの人生は、妻に虐げられる毎日で大変だった。僕が4歳の頃にはものすごい夫婦喧嘩をもうはじめていた。やり手のおふくろに親父はいつも一方的に怒鳴りまくられていた。それを見ていた僕は、子供心にも養子にだけはなりたくないと思ったものだ。
 ではなぜおふくろの家が親父を養子に迎えたかと言うと、この時代では珍しく親父が大学卒(商学部)であったことらしい。それに商学部卒だから商売もうまくいくとでも思ったのだろう。親父の里も、もと御典医でその後は茶華道の師匠をしている旧家で財産はある。けれど親父は次男でもあり、財産を与える代わりに大学を出したのだから、分ける財産は無い、として養子に出したと親父の親族は言う。それを結婚の折りにはっきりさせておけばよかったのだが、仲人は「財産は後から貰えるから、ひとまず・・」と言って縁談をまとめてしまった。夫の里には何十軒と借家があるのだから、おふくろは数軒でももらえるのは当たり前と思っている。おふくろは事あるごとに「いつになったら借家をもらえるの?」と親父に詰め寄っていた。
 敗戦後になって少し喧嘩が止んだ。自宅を含め20軒ほどあったおふくろの財産である借家もほとんどが焼けてしまったことによる。また敗戦後、大曽根本通り商店街(現オズモール)へアメリカ兵が買い物にやってくると、商店街のおっさんたちが通訳として親父を呼びに来るようになったことも親父の価値を高めたのだろう。それに茶華道の師匠の息子である親父は何かの集まりの折には、常に師匠である父親について出かけていたから、名古屋の噂話には精通するようになっていた。長男(親父の兄)もいたが見栄えがしなかったから次男ばかりの出番だったらしい。この師匠(僕の祖父になるが)は相当見栄っ張りだったと見えて、女性の同伴が必要な折りには妻で無く、指名してある艶っぽい芸者を連れて行ったという。外向けの妻なのだ。今時、こんなことしたら本妻に殺されてしまう。「祖父のDNAが山彊先生に引き継がれてるんですね」・・?
 僕の親父は何故か猫が好きで、犬は嫌いだった。どうも飼い主に従順な犬族は妻に従順で逆らえない自分を見ているようで気に入らなかったようだ。僕が犬好きだから幾度も飼っているが、その間親父は何度、噛みつかれ病院通いをしたことか。人間の犬嫌いは犬にも分かるのだ。そんな犬嫌いの親爺だが、猫の話になると饒舌になった。その一つが矢場町の化け猫話だ。

矢場地蔵尊
 明治の初め、現在の矢場町にはたくさんの矢場(楊弓場)があった。その中に特ににぎわっている1軒の矢場があった。気立てのいいおかみさんとそのおかみさんから離れない白い飼い猫が人気で評判になったらしい。まあ招き猫の役をしていたのかも知れない。矢場は売春宿も兼ねていて、きれいどころもたくさん置いていた。これらの女を矢場女と言うが、その一人とおかみさんの亭主ができてしまったらしい。追い込まれたおかみさんは近くの木で首をくくって死んでしまった。
その後、矢場の店は新しいおかみさんとなった矢場女が仕切るようになった。評判の猫は新しいおかみさんには懐かなくて、店には出なくなった。しばらくしてそのおかみさんはおかしなことに気が付いた。おかみさんがトイレから出て来ると、いつもそのトイレの前にネズミの屍骸が置かれている。ドキッとしてあたりを見回すと亡くなった元のおかみさんの愛猫が新しいおかみさんを廊下の縁側の下からじっと見ている。爛々と光る猫の目が自分を睨みつけているように思われた。そんなことが何度も続き、あまりの不気味さでおかみさんは、雇っている小僧に猫を殺して捨てて来るように命じた。
 その後、おかみさんの生活は穏やかになったが、猫がいなくなったせいか店の客が減り始めた。そしてしばらくすると、不可解なことがおこり始めた。猫がいないのに、またトイレの前にネズミの屍骸が置かれるようになったのだ。猫が生きていて戻ってきたのかと疑い、キョロキョロ見まわすが猫は見当たらない。殺させた小僧に確かめるが、間違いなく殺して堀川に捨ててきたという。おかみさんの恐怖は日々募り、ついに見えない猫を恐れるあまり家の厠も使えなくなり、街中を放浪し野糞をするようにまでなった。このことは街の噂となっていった。そして恐怖に耐えられなくなったおかみさんは、ついに猫を捨てたという堀川に、自ら飛び込んでしまったとか。矢場の主人は自分のしたことを悔いて、殺した猫の祠を造り、供養をしたと言う。

 僕の親父はその場所が現在の大須4丁目のあたりであると言う。ランの館の前ぐらいになるのか。そこには矢場地蔵尊とか清淨寺、大直禰子神社、石神社、楽運寺等の寺社がたくさん存在する。親父の言っていたのは多分矢場地蔵ではないかと思い、このブログ用の写真撮影を兼ねて確かめに出かけた。そこには由緒ありそうな古い六地蔵があったがいまいちピンとこない。写真右上:矢場地蔵尊の六地蔵周辺。都心のど真ん中なのに不思議な暗さを感じる。

大直禰子神社大直禰子神社内の石の猫
写真左:大直禰子神社    写真右:大直禰子神社の拝殿下に無造作に置かれた石の猫
 そこから50m程南にある大直禰子神社は「おからねこ」と呼ばれ、暗くて小さなひなびた神社だが、雰囲気は親父の話に一番しっくりと合う感じだった。おからねこという名前から猫に関する神社と思って、猫を捨てに来たりお参りに来る人も多いと言う。だからか猫には関係ないと書かれた立て看板もある。これが本当なのかそれとも神社の管理者やご近所が迷惑するので、そのような看板を出したのか分からない。僕が訪れた折、社の下に100年程前に造られたらしい古びた猫(招き猫?)の御影石による石像(30㎝程の)が置かれてあった。ひょっとしてこれが親父の化け猫話を裏付ける証拠ではないかとも思ったりもするが。一度皆さんの目で確かめてきてほしい。

新天地の巨大招き猫 この古ぼけた招き猫を見てすぐ思い浮かんだことがある。大須の新天地と仁王門通リの交差点に10年くらい前に、2m余の大きな招き猫が安置されたことだ。今はご丁寧に赤い屋根まで付いている。ごく一般的な一番よく目にする定番の招き猫の大型版だ。写真左:大須商店街にある2m余の巨大招き猫。
 これを知った当初は、正直ちょっとばかかと思った。こんなもの何故置くのか。置くならもっと話題性がある水木しげるのねこ娘のようなものとか、創造性のあるオリジナルな招き猫、例えば両手で招いている猫とかにしてはどうかなどと思ったものだ。大須には現代美術をやっている友人のロック歌舞伎の岩田信市さんや原智彦君、ミュージシャンの竹内健人さん、姫屋の娘で陶芸家の宮島孝子さん等がいるのに、よくこんな置物を造らせることを許したなと思ったりもした。だが今、化け猫話を調べていてこの招き猫を見ると、矢場の死んだ白猫が妖怪となってこの招き猫に乗り移ったような気がしてきた。大須には妖怪が似合う。大須に妖怪の雰囲気を作ると、新たな傾向を付加したおたく文化の街としてさらに発展するのではなかろうか。妖怪はきっと大須を訪れる多くの外国人にもうけるはずだ。願わくはこの大きな招き猫のどこかに、矢場の化け猫の話を書いておいてほしいと思った。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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