針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展 現代美術の頂点としての60年代

「針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展」中間報告
 
 「針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展」も半ばが過ぎました。開催している堀美術館は名古屋文化のみち(豊田佐吉邸や川上貞奴の二葉館等、かつての豪邸が散在する歴史保存地区)の閑静な住宅地にあるのにもかかわらず、多い日は100人を超す人々が訪れ、大変な盛況で喜んでいます。県がやっているあいちトリエンナーレにも負けないと言われています。
 初日には神田知事も来館し、褒めていかれました。画集作りもやっとまとまって中に載せるコメント「針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展」の文も書きあがり、中に加える「針生一郎と名古屋」の文も書きあがりました。画集に載せる前にブログにも載せたいと思いましたので読んでください。


会場内
会場の様子 
左から ①と②:婆羅門シリーズ1,2(山田彊一作) ③と④:太郎と花子シリーズ3,4(山田彊一作) ⑤鬼子母神(ノロ燐作) ⑥仏壇(ノロ燐作)


風船の海
風船の海(ぷろだくしょん我S)


《針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展》概要


 今回の美術展は2009年の4月に針生一郎先生宅に私が訪問した折、先生との雑談から生まれたものです。しかし雑談とは言え、その意味するところは非常に深いものだと確信しています。折しも今愛知県が企画した現代美術のトリエンナーレがこの地で開催されています。やっとこの地も現代美術に目覚めたと言えます。だが針生先生は現代美術をこのような軽いお祭り形式で突然やることに疑問を持ってみえました。現代美術は針生先生やもう一人の代表的な評論家の中原佑介氏が指摘しているように、60年代があらゆる意味で一番盛り上がり、60年代の10年間が現代美術の全てであったということです。この60年代の検証をせずしての現代美術展は最も重要な根幹が欠落したようなものです。
 
 針生先生は60年代に名大で教鞭をとっておられ、名古屋の現代美術の作家たちとも交流があり、育ててもみえました。そういった状況の中で針生先生の企画した美術展があります。それは60年代中にこの地で行われた唯一の現代美術展で、「針生の選んだ9人の前衛展」(67年,納屋橋画廊)です。メンバーは浅野弥衛(故)、星野真吾(故)、水谷勇夫(故)、西尾一三(故)、伊藤利彦(故)、後藤昭夫、小本章、近藤文雄、山田彊一の9名でもう半数以上が亡くなっています。亡くなったのはそうそうたるメンバーで、この地の代表的な作家です。あと10年も過ぎると残りの作家もみな消えてしまうのではないかという危惧もあって、この時期にもう一度60年代を振り返るのは絶好のタイミングだと針生先生と話し合ったわけです。
 しかし残った4人では少ないからと今回は60年代の末に活躍しだしたメンバーも加えることにしました。その中でゼロ次元の岩田信市さんだけは、この企画が行政のやるトリエンナーレを盛り上げることになるのではと断ってきました。我々現代美術の作家たちは当時、既製の保守的美術界に対して反体制的思考と行動を取り、行政からイジメられ続けたので、彼の辞退も先生は理解されていました。当時は愛知では保守的な団体展(公募展)が全てを取り仕切り幅をきかしていました。
 昨今、いろいろなところで60年代が語られています。60年代を実際に生きた私たちから見ると多くの矛盾点に気付きます。市の美術館は1988年に開館されたものであり、県の美術館も当時、貸画廊形式で学芸員もゼロでした。この地の美術大学もこのころからようやく創立し始めたため、この時代の美術の動向を語れる人は非常に少ないのが現実です。
 
 この美術展を開催できたのは堀財団の堀誠会長のご厚意によるところが大で、また名古屋ボストン美術館の馬場駿吉館長や碧南市藤井達吉現代美術館の木本文平館長には何かとご助言を頂き感謝に堪えません。
 なお、大変残念なことに準備中の2010年5月26日に針生一郎先生が亡くなられましたが、先生のご遺志を尊重し、予定通り行うことに致しました。


《針生一郎と名古屋》 

 針生一郎先生とこの地の繋がりは大きくいって3つあると思われる。
 1つは1957年から10年弱、名大の竹内良知教授が講師として針生先生を呼んだことから始まった。先生は夜行列車で来名し、当時名古屋城に残った旧兵舎で講義用ノートを作ったとか。その時の学生たちがこの地に現代美術を広める役割りを果たしている。元名古屋造形大の中村英樹教授、元テレビ愛知副社長の石井守、元豊橋技術科学大学教授で愛知県美友の会にもかかわり合っていた宮崎和光等々である。出品者の一人であるノロ燐はモトカレであった学生の一人から先生を紹介されている。
 2つ目は先生が長いこと新日本文学の会長でもあり、その読書会等への参加でこの地へたびたびみえて文学会にも刺激を与えたこと。
 3つ目はこういった公的な仕事とは別にこの地を代表する画家、水谷勇夫を通しての繋がりも大きかった。先生と彼とは銀座で個展をした折に知り合ったようだ。私とのつながりはこの水谷勇夫から先生を紹介されたことが最初だ。先生が名古屋へみえると毎回のように水谷宅で酒盛りがあった。酒の肴には、ほぼ毎回おでんと蕎麦等で質素なものだったが話は常に盛り上がっていた。
 今回出品者のVAVAグループの三人(小本、後藤、石原)は、1965年に岐阜の長良川河川敷を使って穴を掘ったり木曽川に小屋を建てたりした「岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバル」(別称、針生アンパン展)を運営し、針生先生に認められたようだ。50年後の現在開催中の「あいちトリエンナーレ」では、堀川のほんの一部を使用した展示すら行政は認めようとしないことを考えると、現代美術に対する当時の行政の態度は実に太っ腹であったと言える。
 現代美術作家がほとんどいない名古屋では、ここへの参加は数人で水谷勇夫、岩田信市、ノロ燐、それに私ぐらいであった。これには我が国、評論界の御三家と称される針生さん以外の中原佑介、東野芳明も加わり、参加者も数百人におよび、針生アンパンは日本の代表的な現代美術の祭典となった。
 1969年頃になると学生運動はこの地にも広がり愛知県立芸大や名古屋造形大学では学生が自主的に針生先生を講演に呼び、運動を繰り広げていた。美学生等は美術界のゲバラのように針生さんを思っていたようだ。針生さんの登場で驚いた県芸大側は機動隊を校内に入れ、退学者も出る騒ぎになった。
 またその1年後、若い芸術家や市立工芸高校で久野真の前衛的かつリベラルな教育に刺激を受けた生徒たちが、愛知県美術館にゴミを美術作品として出品した。作品とは認めずゴミとして美術館側が撤去したことから、裁判に発展し、これがいわゆるゴミ裁判となった。原告の5人の若者を支援する立場で、岩田信市や石井守、そして私がこの闘いに加わることになった。裁判の折、若者側の証言に立ったのは原告以外では針生一郎、水谷勇夫、山田彊一の3人であった。保守性の強いこの地区の作家は、ほぼすべて裁判に関わることを嫌がった。

 針生先生がこの地になぜこれだけ関わり続けたのか。先生は仙台で味噌醤油製造を営んでいた素封家の長男として育った。野間宏が先生の実家に泊まった折、玄関から裏の倉庫まで300mもあり、そこをトロッコが走っていたため「針生さんの家には列車が走っている」と言ったそうだ。(その後家は没落したと言うが)。
 仙台は名古屋に似て封建的な地域である。その中で現代美術の前衛を掲げて生きることのしんどさ、新しい美術を認めさせる難しさを痛感したのではないだろうか。名古屋に来て先生は故郷仙台を思い起こしていたのでは、そしてそれが今日まで名古屋とかかわり続けた要因だったのではないかと思えるのである。先生の最後の企画展がこの名古屋であったのは何かの因縁なのかもしれない。
 
※4年ほど前、私の名芸大のゼミ生の野中迪宏君が筑波大学の院に合格した。その折、私はシルク版画作品を、妻は提出論文を指導した。それに対して彼は何かお礼がしたいと申し出てきた。私は針生先生の奥さんが亡くなり先生が日々困って、庭も荒れ放題になっていたことを知っていたので「その気があるなら私に代わって針生先生の庭掃除を月一でしてくれないか」と頼んだ。早速庭掃除を申し出た彼は先生に好かれ、先生宅で開かれている勉強会にも参加が認められたという。筑波大では「針生先生に指導を受けている」と話したら修士論文もすんなり通ったという。彼から先生の面白い言動を逐一知らされているがここでは記さないことにした。葬儀の折に彼は、棺を担ぐ数少ない一人にもなっていた。
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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