雪舟神話の欺瞞 その4 雪舟とピカソ

雪舟神話の欺瞞 その4
雪舟とピカソは似た者同士

益田兼堯像
 「先回、雪舟の絵から彼の性格が読めると言われましたが、雪舟はどんな性格だったのでしょうね」
 雪舟の『益田兼堯像』に描かれている人物の手の小ささや、自信のなさそうな描き方を見た時、私はなぜかピカソが22歳の折りに描いた『ソレルの家族』を思い出した。ピカソのこの作品もやはり雪舟の絵と同様に、まだ絵を描くことに慣れていない感じがあり、おどおどし、手は小さく自信のなさそうに描かれていた。写真右:雪舟画「益田兼堯像」59歳作

 ピカソはまだ無名だった頃、スポンサーの仕立屋に「家族を描いてほしい」と頼まれた。貧乏画家だったピカソにとって食べていくためにこの依頼は有難かった。当時の一般の認識では、プロ画家は肖像画もでき、デッサンが上手なのは当たり前とされていた。ソレルの家族(部分)写真下:ピカソ22歳作「ソレルの家族」(部分)
そのため写真に撮って描くことは、依頼主の手前、画家としてのメンツが許さず、デッサン力に自信がなくても直接描かなければならなかった。目の前にポーズをとる仕立て屋の家族がいては、写真は使えないし、形をうまく誤魔化したりするのも困難であった。それ故、『ソレルの家族』は結局見苦しい出来栄えでデッサン力の無さが際立つ作品となっている。(ちなみに当時画家たちはほとんどが写真を使って肖像画や人物画を描いていた)

 画家として名を成し始めた頃結婚したロシア貴族の娘、オルガは「自分の肖像画を写実的に描いてほしい」とピカソに頼み、実際肖像画を描いてもらっている。しかし、ピカソが亡くなった後、絵と同じポーズをとっているオルガの写真がピカソの記録箱から出てきた。何か理由をつけて写真を撮り、これを使って彼女の気にいる写実肖像画を描いたのだろう。ピカソも雪舟もデッサン力はあまり優れておらず、若いころは自信が持てず引け目を感じていたようだ。しかし彼等はそれにとどまらず画家として名声を得る道を模索していく。

 ピカソを長年調べていると、結構ハッタリ男ではなかったかと思えてくる。一例を挙げると、パリのメトロ駅前で出会った16歳の清楚で可愛いマリー・テレーズに「僕のモデルになってくれませんか?そして世界のアートの歴史を変えましょう!」と言って口説いたという。時にピカソは50歳近く勿論妻もいたが、マリー・テレーズにマヤという女の子まで産ませている。
 一方雪舟については彼と一緒に明へ渡った彦龍周興がこんなことを書いている。「雪舟は絵が欲しいと言ってきた者を部屋の隅に待たせておく。その間自分はお酒を飲んで瞑想し、またある時は尺八を吹き、声高く詩を吟じる。やがておもむろに筆を取ると、その後は龍が水を得たるが如く一気に描いていく」と。丁寧に描いてもまともに描けないから、スピート感でごまかすのだが、庶民はこれに案外引っ掛かったのだろう。同じ絵描きとしてこれは気恥ずかしいし、やりたくない行為だと僕は思った。だがピカソも雪舟もこんなことを平気でやっている。

 ピカソはまた仲間作りのベテランで毎晩のように洗濯船と称される自宅アパートに仲間を集めていた。そこには画家仲間はもちろん、コレクターも画商も評論家もさらにはきれいな女達も気軽にやってきていた。性格が暗かったら天才ピカソは生まれなかったと思う。ピカソはその生涯に数え切れないほどの女性と関係を持っている。口説きの天才でもあったわけだ。上にあげたマリー・テレーズもその一例だ。雪舟もピカソに似て人脈作りに長けていたのではなかろうか。
 「では山彊先生、雪舟もピカソ並みに女癖が悪かったと言うのですか」。勿論そうだと思う。専属の女性がいなかったから歴史には登場していないが、遊郭等へは常に通っていたと思われる。でなければあの時代、90歳近くまでそれほどうまくもない絵をあれほど自信を持って描き、諸国へ自由に渡り、闊達に生きられるはずがない。「雪舟は僧侶だったのに、そんなこと言い切っていいのですか」。江戸時代の成人女子の5人に1人は、その手の仕事をしていたと聞く。室町時代はもっと性に自由で、何の違和感もなく男たちは、周辺で性処理ができたのではないか。コロンブスの持ちこんだ梅毒が日本に波及するのは江戸以後のことだし、この頃は結婚形態を取らなければ性は与えられないといった性道徳もなく、誰でもお金さえあれば性処理に不自由はなかったと思われる。坊さんと寝れば極楽へ行けると思った女もいたかも知れない。雪舟にそこいらの女とできた子供でもいるかもしれない。仮に中国に渡った雪舟がかの地にハーフの子を残してきたとすると、もっと雪舟論は面白くなる。あり得ないことではない。私が書こうと思っている「小説・雪舟」も、これぐらいのことはしたいと思っている。この時代キリスト教が日本に伝来するが、明治時代にキリスト教が日本の性道徳に与えたような影響は室町、戦国時代には人口に膾炙しなかった。

倣玉澗山水図 写真右:雪舟作 「倣玉澗山水図」 重要文化財 年代不詳 (数分で描いたと思われる作品、うまいか下手か分からない。私もどこかで突然、何か描いてと言われると、雪舟のこのやり方を知らなかった時代からこの手で逃げる)
 この時代には、下剋上と土一揆が頻繁に起き、実力を握った者が血統や家柄に関係なく時代を引っ張っていくようになっていた。時代には男時と女時がある。今は間違いなく男時であると、雪舟は幕府のど真ん中の相國寺内にいて把握していたのであるまいか。時代が変わる、世の中が変わる、平坊主でも歴史に残れるかもという感覚を雪舟は得ていたと思われる。そのターニングポイントとなる応仁の乱の始まりを明で過ごすことになる雪舟は、人生の持ち時間に無駄がなく、動乱の始まりという時の腐食に侵されることもなく、幸運であった。
 1985年頃、エイズが蔓延しロック・ハドソンが亡くなると、ある学者はこの年が病理学から見て人類史のターニングポイントになると断言していたが、雪舟もこの時代を、ある意味でそんな悟りで生きようとしていたのではあるまいか。この時代から庶民は1日、2食から3食になったし、木綿や畳を使い、醤油も料理の味付けで使用するようになった。容貌で勝負できない女たちは、米や魚、酒こうじ売りの外商に乗り出していた。全てが大きく変わりだしたのだ。
 そんな中雪舟は、遣明船に乗りまず五島列島の1つの島、奈留島へ向かう。ここは明国へ渡る日本の船が、春に吹く順風を待って係留する港。博多から船に乗り、五島列島の島々が眺められるようになった折りの、雪舟の高揚感は想像に難くない。私も数年前、同じコースで奈留島へ渡ったが、夜明けに浮かぶ五島列島の島々の影が今でも脳裏にこびりついている。その後、東シナ海を越えて中国のニンポーへ入った折は、現代ならではのショックを受けた。港に近付くにつれて海の水はどぶ川状に黒く濁り、空は公害で視界は悪く景色がまったく見えなかったからだ。雪舟が渡った時は、憧れの大国、明に到着の感動に酔いしれていたに違いない。

 前回の補足だが、雪舟の欺瞞 その3で龍崗眞圭に雪舟の文字をもらったと書き、その後直ぐ明へ渡ったように書いたが、最近見つけられた文献では、明へ渡る7年も前に雪舟を名乗っていたらしいことが判明した。もし雪舟が従来言われてきたように超有名だったとすれば、その間に雪舟の文字の入った作品がいっぱい残っていてもいいはずだ。その間の作品が一点もないとはどういうことか。それに今でこそ名を知られた雪舟だが、亡くなる折は何処で何時、誰が看取ったかも定かでない。彼が亡くなる頃は名もない一介の坊主でなかったかと推測される。雪舟の名がはっきりと歴史に登場するのは江戸時代になってから狩野永納によってである。


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まとめtyaiました【雪舟神話の欺瞞 その4 雪舟とピカソ】

雪舟神話の欺瞞 その4雪舟とピカソは似た者同士  「先回、雪舟の絵から彼の性格が読めると言われましたが、雪舟はどんな性格だったのでしょうね」 雪舟の『益田兼堯像』に描かれ

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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