妖怪屋敷第12弾 建中寺

妖怪屋敷第12弾
建中寺 折れた桜の木に何故赤褌?を巻くのか

 名古屋の妖怪を調べていると、必ず二代藩主の光友が出てくる。大森の百姓の娘から生まれた光友の時代より城下町名古屋は大きく栄えていくが、繁栄の裏には多くの怨念も伴い、妖怪が跋扈する時代に尾張も入ったようだ。幽霊が描かれた浮世絵等も多く見られることはご存じのとおりだ。
キセルと宗春
 尾張は江戸に比べて妖怪や幽霊の話題が少ないように思われるのは、保守的な思考のお国柄で怒りや怨念を自ら抑え込んでしまうからだろうか。尾張藩は豊かな財政で、領民に対する税率も4公6民で取り立てが少なかった。だから庶民の恨みつらみが無く、これだけ気を使ってくれているお上に逆らってはいけないと言う考えが育ったのだろうか。いや、逆に考えると、その政策がお上に盾突かない従順な領民を作り上げたと言えるかもしれない。
 敗戦後に造られた名古屋自慢の100m道路も、戦後のどさくさにまぎれて役人が勝手に土地の所有者から奪ったものだ。名古屋人は役人に逆えないし逆らわない。この地の庶民感覚を役人が利用してのことだ。以前にも書いたが山田一族もそのため、敗戦後は見るも無残になってしまった。こんな街、日本中探してもない。我が親族も墓場で、いずれ化けて出てやろうと虎視眈々狙っているのではあるまいか。
 名古屋は軍需工場が多かったからアメリカ軍の標的となり、工場のみならず多くの家屋敷が完全に焼かれてしまった。アメリカ軍は妖怪のエリアを丸ごとB29爆撃機で破壊してしまった。それも現在の名古屋に妖怪話の少ない原因とも言える。「その怨念が山田彊一の妖怪ブログに発展したわけですね」。まあそれもあるかも知れないけど、あの二人の教え子が訪ねて来なかったら、僕はこのブログは書いていなかった。「妖怪が、二人を先生の家に導いたわけね」。そうかも。名古屋の妖怪に関してはこの地に代々住み続けてきた僕だからこそ、実体験や親爺などの見聞を通して実証できることがあるのではと、近頃は思っている。

 まあ愚痴はこれぐらいにして、名古屋のそのような状況に気づいた教え子の妖怪バスターの二人は、きっとこの地にもたくさんいるだろう妖怪の掘り興し等の研究に励んでいる。もし奇怪な現象、妖怪らしき出来事に惑わされている方がいたら妖怪バスターの彼等に連絡を取ってくれていい。妖怪同人サークル『怪作戦』http://ranyoutei.blog.shinobi.jp/です。ハンサムで頭のいい子たちですよ。妖怪にも好かれそうなタイプだけれど・・。

桜木に赤い布 さて、そんな名古屋の基盤を作った光友が建てたという尾張徳川の菩提寺、建中寺をまたふらっと訪れた。今回はただ庭のツツジ見物とか、東京等の知り合いを案内するのではなく、妖怪の気配はないかという目的で来たのだ。するとやはりあった。本堂の西側に植わっている桜の木が途中で折れているのだが、なんとその折れ口に赤い褌(お腰?)状の布が巻きつけられていた。写真右:折れた建中寺にある桜の木に赤い褌状の布が掛けてある。老木には命が宿ると言われているからの行為か。お地蔵さんではあるまいし、これは何かあると思った。木をお地蔵さんと同等に扱っている。その近くには赤い帽子をかぶった(よだれかけはピンクに近かったが)正真正銘の御地蔵さんが数体立っていた。写真下:建中寺内の赤帽を被った石地蔵。地蔵のよだれかけに赤い布を使うのは、地蔵和讃にも詠われているように「幼くして亡くなった子供たちが地獄の獄卒に痛めつけられるとき、母が身に付けていた肌着=腰巻でこさえた赤いヨダレかけや帽子を付けていると、獄卒も虐める手を緩め、子供たちも母の匂いで安らぐという」ということからきているらしい。昔の子供たちは生まれても無事に育つ方が珍しいぐらいであったとか聞く。
 
赤帽をかぶった地蔵 お地蔵さんのように赤い腰巻の巻かれた樹木も、折れてしまった(=死んだ)木があの世へ行って、閻魔に虐められないために取り付けられたのではないだろうか。赤い色はそういうわけで危険を防いだり、妖怪封じの役割をも持っているようだ。
 あの宗春の子も8人いたというが成人までに7人が亡くなっている。これはあまりにひどい。妖怪の怒りを買ったための、たたりかもしれない。というのは、宗春がこの建中寺を参拝の折りは、真っ赤でわずかに黒みを帯びた猩々緋の着物をはおり、屋根のない駕籠で2間余りのキセルを銜えた容姿だったという。写真最上:輿でないが牛に乗ってキセルを加える宗春
 猩々緋の染料は桃山時代に南蛮船で持ち込まれたもので、カイガラムシのメスを乾燥させ作るものらしい。この生き物に妖開封じの効能があるようだが、いかんせん宗春は派手に演出しすぎた。決定的なのはキセルだ。このことはもう妖怪を恐れず、妖怪もどきの行為と言っていいのではないか。妖怪は表に出ず常に裏方であるべきなのだ。赤い色で妖怪封じをするにしても謙虚さが必要だ。

ダリ風景の中の肘掛椅子 実はあのシュールリアリズムの画家、サルバドール・ダリも似たような事をしている。10㎝程も跳ね上がった妖怪もどきのひげを蓄え、数メートルのフランスパンを担ぎ、ニューヨークの街中を、行き交う人の視線を受けつつ歩いたという。ダリも容姿や行為が妖怪といってもはばからない画家だ。彼は、ソファーから赤い樹木が生えてきたり写真右:ダリ作「風景の中の肘かけ椅子」1949、美女の胸や腹から引き出しが出てきたりといった、日本の妖怪たちをも、あっと驚かすような作品を描いている。彼はゲイっぽいから子供はいないが、いたら宗春のようにほとんど亡くなっていたかも知れぬ。
 加藤清正も名古屋城築城の折り、職人たちを煽って元気にさせるために、この赤いお腰を身に付けた遊女を、石遣り(石の運搬)に同行させたという。妖開封じと職人のやる気効用を兼ねた行為だったらしい。そのついでに加藤清正も発情したらしく、この折に梅毒に罹ったと言われている。宗春やダリのようにやり過ぎたのだ。

僕のお面と緋色のボルト作品
 「山彊先生もこの猩々緋で守りをやっているのですか」。勿論。僕のアトリエを訪問した人は部屋の西側中央に僕の石膏で取ったマスクがボルトの刷られた猩々緋の布で守られていることに気付いたはずだ。これは、もう20年も前からやっていたが、妖開封じであることに気付いたのは、実は最近このブログを書き始めてからだ。知らないうちにやっていた。「さすが妖怪屋敷のあるじだけありますね」

写真左:アトリエにある僕のお面とボルト作品の猩々緋のドレス
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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