妖怪屋敷 第10弾 長母寺

妖怪屋敷 第10弾
長母寺の極楽樹(あの世が極楽だという証拠の木)

 あの世から「ここはいいところだよ。死ぬのは怖くないよ。閻魔も優しいし、妖怪も仲間だよ」等のメッセージをこの世に届けた坊さんがいた。皆さんもこの方法を使えば、死んでからの連絡ができる・・試してみては?

 もし尾張徳川藩の殿様が豊臣の残党か謀叛者に追われ、妖怪街道を抜け、ここ長母寺にたどり着いたら、名古屋城方面をふりかえってひとまずホッとすると同時に、その情景を懐かしんだに違いない。大きな沼地や城から伸びる鬱蒼とした森が目に焼き付いたであろう。きっとアブハンブラ宮殿を去らねばならなくなったイスラムの王ボアブティルもそんな感情に耽ったのではあるまいか。まあそのようなことをここ長母寺に来た折、ふと思い出した。幸いにも徳川家は260年余の長きにわたって安泰で、そのようなことは起こらなかったが。
写生会で描いた場所
 この長母寺は東から北に曲がりこんだ矢田川を見下ろし、景色の良さで知られ、僕が小学校の4年の折り学校は初めての写生会をここで催している。徳川園や建中寺という選択もあったが、高低があり、描く場所の多様さから長母寺になったのであろう。この写生会では僕の作品が学年で一番になり、帰ってから校内の廊下に貼りだされた。このことは今でもくっきり思い出せる。階段を上がった掲示板の右上だ。これを境に僕は絵に対してすごい自信をもつことになった。小学校6年生の学年を除いて、中学校でも常に美術は誰にも負けなかったと思う。6年生の時だけは担任が現代美術をやる若い教師で、僕はおとなしく目立たなかったので絵も無視をされた。先生の評価は、うまい絵はだめでピカソのような塗り方を善しとしていた。その僕がピカソ好きの現代美術家になるなんておかしなものだが。でもその先生がいたから僕の負けず嫌いに火がついて、現在の僕があるかも知れない。

 この写生会の時の作品は、この寺の松の木と石燈篭、その前に広がる池と数々の木々があるゴチャゴチャした場所を描いたものだ。写真右上:僕が小学校4年の時に写生会で描いた場所  描くものが多すぎてまとまらないが、だからこそ描きたいと思ったようだ。他の同級生はほとんどが完全に描き込める川の風景や、山門や本堂、石燈篭だけを描いていた。しっかり分かりやすく描けているが単純でおもしろくなかった。描く対象をハッキリとした単純なものより、あいまいで複雑なものを選ぶという僕のこの精神は今でも続き、デッサンが難しくても自分の思うところを表現するようになっている。こういった単一でない表現だと人は勝手に好きなように想像してくれるからいい。

 戦後はやたら自殺が多く、小学校の際を通る中央線での飛び込み自殺が結構あった。情報を得て僕等小学生は昼放課などに学校を飛び出し見に行ったが、その時は現場は既に片づけられて血の痕が残っているくらいだった。寺での首つり自殺も多く、この長母寺でもよくあったと聞くが、僕が写生場所に選んだ燈篭周辺ではなかったようだ。今見てみると石燈篭の前には岩もあって、この寺の妖怪封じスポットのような気がしてならない。槇の木も近くにあったかもしれない。この長母寺、今は池の周囲はフェンスが張り巡らされていて当時のように自由に出入りできない。
 しかし前に触れたかもしれないが、この寺のおくりさんは優しく、頼めばきれいなハスの花が咲き誇る池まで入れてもらえる。以前庭が見たくて垣根から覗き込んでいたら、彼女が出てきて「わー、CBCテレビに出てる人!」と言って歓迎されお茶まで御馳走になったことがある。(その頃僕は毎週火曜日の夕方にコメンテイターとしてCBCテレビに生出演していた)

同じ幹から2種の葉
 さて、この長母寺は、承久の乱で活躍したことで知られるこの地の領主、山田重忠が母のために1179年、創建したものだと言う。その後、鎌倉時代後期に高僧の無住国師がやって来て寺は大きく再建された。無住国師は民に慕われ、亡くなる折には人々が別れを惜しんだという。死に際して彼は言った。「私はこれからあの世へ行くが、もしあの世に極楽があるならば、ここの木に檜の芽を生やしてやろう」と。そして檜の枝で身体を清め、あの世へ旅立ったとか。しばらくして種々の木に檜の芽が生じたので、これは極楽がある証拠の木ということになった。現在も本堂の石垣の中の椿、山茶花、榊、ねずみもちなどの木に、檜の芽と呼ばれる寄生木が生えているとのことだ。
写真右上:1つの根から二種類の木の葉

合体した2種の木
 僕の小学生の時の写生会の当日、まずお寺の住職がこの寺のいわれや、注意事項を話してくれた。ほぼ全て忘れてしまったがその中で一本の木に二種類の樹木が生えていて、これはここの以前の住職があの世から指図したものだと説明していたことは良く覚えている。今回あの話の木はまだあるか確認に出かけた。檜の木で写真右:合体した榊の木とシャリンバイ(?)の木(小学生の時に説明を受けた場所にもう檜は無く他の場所を探したら合体した樹木があった)はないようだったが確かに2本が合体した樹木があった。榊の木にシャリンバイ?らしき木が同時に生えていた。
 「山彊先生、死後の世界は極楽と言うことですか」。そのようですね。きっと檀家の人たちは大喜びしていたに相違ない。だからこの寺はその後、人々の信仰を集めているのであろう。皆さんも死ぬ時、何かいい残しておくといい。憎い連れ添いになら「あの世で私がはやくあなたに会いたいと願ったら、仏壇にハエをとまらせる」とでも言っておくといい。あの世に呼ばれないよう、いつも仏壇はきれいにし、お供え物も蠅がとまらないよう、常に新しいお供え物をしてくれるようになるから。
 この無住国師、やり手だったと見えて漫才も作り、仏の教えをおもしろく説いていた。弟子の徳若はそれに節をつけて、人々の前で歌えるようにしたという。これが長母寺の寺領であった知多に広がって、尾張(知多)漫才が始まったとか。

 この文を書いてから、もう一度朝の長母寺の様子が知りたくて出かけた。庭ではボランティアのご婦人が庭木の手入れをしていた。僕との世間話の中で「この庭には朝狸や白鼻心が出ることもあるんですよ。蛇はしょっちゅうですがね」と話してくれた。戦後はここでの自殺者も多かったけれど今はどうですかとの僕の質問に「えー…」と口ごもられ、否定はしなかった。無住国師は「死後には天国が待っている」と言って死んだのだからこれが知れたらここは自殺の名所になってしまう。妖怪封じのための灯篭や池の周辺をフェンスで囲ってしまったのは自殺防止のためなのだろうか。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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