雪舟神話の欺瞞-その3

雪舟神話の欺瞞-その3
<雪舟は何故、明国行きを狙ったか。何故、遣明船に乗れたのか>

※本論に入る前に少し私見を述べたい。前回の文が複雑で分かりにくいという指摘をたくさんの方から受けた。これにはすごく反省している。私は芸術家であって学者ではない。だから私が雪舟について書くとしたら、学者のように史実を深く掘り起こしていく手法ではなく、同じ画家として雪舟の気持ちを理解して書けるのではないかと思ったのが雪舟本を書こうと思った理由である。これまで書いた本でベストセラーになったものもあり、雪舟というと堅い読み物という印象を持つ人にも読みやすく面白いという書き方ができるのではと考えてのことだった。それに福島原発事故で、世に知られるようになった原子力村の学者のような金銭的、学閥的縛りが私にはないことだ。全て遠慮なく、自由な立場で発言できるからという理由で書き始めている。だから今回以後は少々説明不足でも思うままを読みやすく、私の信ずる雪舟を表現したいと思っている。
 史実は正確であっても取りようで正反対になることもある。学生運動華やかであった頃、北九州の角マル系の活動家に聞いたことがある。「新聞に、火炎瓶の炎に包まれる機動隊員の写真とその手を持つ学生の写真が載った。学生は火に包まれる隊員を炎の中から助けようとしたのに、警察は学生が炎の中に押し込んだと判断し、逮捕した」と言うのだ。写真のように確かなものでも真実は分かれる。現在、それぞれの者が勝手に書くブログやツィッターだって勿論真実とは限らない。室町の時代、今の新聞、雑誌、本、ブログ等に代わるものはそれぞれの者が記す詩や文による自分史もどきだ。亡くなるとほとんど消えるが中には記録として大家や寺の蔵に残ることもある。学者にとってこれは宝のようなもの。だが内容はすごく危険だ。室町時代、官寺の五山十刹を抱える相國寺派とそれに加わらなかった妙心寺や大徳寺の対立があったし、相國寺の中でも先回のこのブログで書いたように龍崗眞圭や雪舟のような反細川、反幕府側の者もいる。詩や文を書く場合、身内になると持ちあげ敵になるとけなす。嘘だって書いてしまうのではないか。だからどちら側の文章か、誰に読ませたいか立ち位置を考慮する必要がある。そんなことも頭に入れて読んでいただけたらと思う。


雪舟筆『山水図』龍岡眞圭讃
 さて本論、「雪舟が何故明国行きを狙ったか」だが、明行きを狙うのは自己顕示欲が旺盛で、プラス芸術思考があれば当然のことだったと思う。明治以後のたくさんの絵描きがパリを目指したのと、そんなに違いはないのではなかろうか。ただ明治時代のパリ行きは、生まれや育ちがいいとか、資産家であればまあたやすく行けたけれど、室町時代の明行きは命がけの旅であり、ものすごい覚悟と意欲、行動力がいったことは確かだ。名もない貧乏画家が明に渡れた、それはもうそれだけでも、大芸術行為であったと言える。大パフォーマンスアートだ。こう言い切るのも私は人間が何かを創造しようとしてする行為も芸術と考えているからだ。近代の日本でも絵描きで歴史に残っている者はまず外遊している。洋行帰りということだけでその履歴に箔が付いたのだ。
 雪舟の時代も同じだった。彼が明に渡っていなかったら、狩野永納も狩野派のルーツとして崇めることはないし、その作品を注文する人もなかっただろう。注文に応じるのではなく雪舟が勝手に描いたとしても、名もない坊主が遊びで描いたとみなされるぐらいで、作品が100年も残っていることはあり得ないと思う。彼はこれらのことを完全に計算して渡明したと言っていい。
写真上右:渡明前の作 雪舟筆『山水図』  写真上中:右に同じ・その作品への龍崗眞圭(鹿苑僧録)による讃 ※讃とは東洋画において、主に観賞者によって作品に書き加えられ、元の作品の一部とみなされる文。レベルの高い人に書いてもらうと作品の価値も上がる。

 この時代、雪舟のいた相國寺では世俗を捨て修行僧として入っても、しばらくすると俗人に戻った者も多かったと思われる。禅宗僧の修行の場であるはずの塔頭寺院は、水墨画でお金を得ようとする文人画家の仕事場と化していたようだ。また稚児や喝食といった者たちは、上司の沙弥や首座達に当然のごとく若道(男色)の相手にさせられていた。若い僧は目上の要求を蹴ることもできず、自分だけ反抗しても、周りから浮いて虐められてしまうので流れに任せていたのだろう。稚児がより犠牲になるのは、灌頂(仏に近付く儀式)を受けた後は、菩薩の化身とみなされることになるからだともいう。この化身は仏が降りて来るまでの仮の宿(肉体)と見なされていたため、人と思わず気軽に男色に使われていたのかもしれない。そんなこともあり相國寺は禅修業や詩画を習う場所とはいえ、その陰には物欲や権力が渦巻き、淫乱の巣窟だったとも言えそうだ。
 また中国語に堪能な高僧は通訳としても役立つので、幕府や商人に重宝がられていた。そして高僧は遣明船に乗り、修業のためと称し、ついでに貿易仲介人の役目も果たし巨額の利益を得ることになる。明では遊郭や青楼で遊び、京に帰ればそのシステムを傾城屋(遊郭)に教え、遊びの通として受けいれられる。京の廓の規則も明帰りの高僧が作ったと言われる。足利幕府はそれを利用し、その傾城屋の女たちから税も徴収していたという。(遊女ひとり、年間5文だとか)。金貸し業を始めた高僧も多かったらしい。

湖亭春望図天興清啓讃
写真上左:渡明前の作 雪舟筆『湖亭春望図』  写真上右:左に同じ・その作品への天興清啓(遣明船正使)による讃

 こんな中、雪舟は相國寺内での位が知客(六頭首の4番目。同じ位に鐘つき役の知殿、風呂役の知浴があった)であり、蔑みの対象になることはあっても何かのおこぼれを得られる立場ではなかった。雪舟は枯淡虚静の僧ではなかった。私もそうだが、普通の者ならここで高僧たちへの反発や恨みから、今に見返してやると考えるだろう。そのためには、明国行きしかないことに彼は気付いていた。勿論知客として得た情報で大内氏も遣明船を出すらしいという情報も当然知っていた。だから雪舟は30歳半ばで相國寺を出て、山口の大内領へ下ったのだろう。相國寺にいては、たかが下級武士の出で、知客の身では明船に乗れる可能性はゼロに等しい。大内氏は瀬戸内海の大半を支配し、朝鮮との貿易で巨万の富を得て、室町幕府より財政は豊かで明船を整えることも可能な豪族だ。山口に下れば、京に憧れる民の多い中、たとえ知客の位だったとしても都の相國寺から来た僧だと尊敬されるだろう。食い扶ちは見よう見まねの水墨画でも描いて売ればなんとでもなると雪舟は踏んだのではないか。

 山口では『蝸紡』(カタツムリの殻のように小さい家)と称せられる雲谷庵に住み、人付き合いの良さを生かして、相國寺で覚えたワンパターンの宋元画の模倣絵を描き、周囲に与えまくったのではあるまいか。この地で明船に乗るためには大内家の重鎮や権力を持つ僧に近付く必要がある。特に大内氏による遣明船の正使になる天興清啓や副使になった桂庵玄樹、水西寺の牧松周省には、猛烈なアタックを掛けたに違いない。この場合も相國寺での知客の役が効を奏しただろう。大内氏14代の政弘もそんな関係で雪舟を知り、憐れんで雲谷庵を建ててやったのだろう。「山彊先生、何故雪舟の人好きあいの良さまで言い切れるのですか」。描く絵を見れば性格が分かる。学生を教える時、作品で性格判断を良くやっていた。両親が離婚した者、自殺した者も数百点ある作品から当てることができた。この点でも私なりの雪舟が書けるという思いで今書いている。

 さて、こんな折、旧知の恵鳳が幕府の依頼を受けて大内氏の説得にやってきた。恵鳳は幕府に仕えていても反幕府的、反相國寺的な思想の持ち主であった。その点雪舟と似ている。恵鳳はこの折の雪舟との再会を『竹居西遊集』に書いている。「雪舟はこの地のヒーローで下僕でも子供さえも彼の偉大さを知っている」等々と。これは相國寺への当てこすりと思って間違いがない。相國寺で完全に無視をされた雪舟がこの地では大きく認められている。相國寺の持つ価値観が正しいのか疑わしい。現に経済は大内氏に負け、遣明船の費用も大内氏に立て替えてほしいと願っているではないか、と相國寺の連中に間接的に言っているのだ。まあ様々な努力の結果、雪舟は大内氏の出す遣明船の隅に遠慮がちに、たいした役割もなく乗れることになった。

 ついに大望の大海原へ漕ぎだしていくのであるが、このとき彼は48歳であった。当時の感覚ではもう人生の晩年といっても過言ではない。50歳に届かんとしている身であっても、難破する可能性も多いにある東シナ海の横断や中国大陸での生活に不安など、雪舟にはなかったのではないか。相國寺や社会に対する恨みは、全ての恐怖や不安を棚上げにする。ここからが真の意味での芸術家、雪舟の誕生だ。さあこの後どうやって自分を高めて売り込んでいくか。絵の実力だけに頼らない、プラスアルファーがいる。

※私も一人でアフリカやアマゾン奥地、人食いの島だったパプアニューギニア等に出かけているが、自分としては完全に芸術をしている意識だった。今の時代そんなところへ行ったからと言って誰も芸術行為とみないことは承知していたが、誰もやっていない、やれないことをしてみたいのがアーティストなのだ。
(まあ私の場合は渡仏、渡米はもう時代遅れで、あるとすれば世界的なコンクールでの賞取りぐらいであろう)。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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