妖怪屋敷 第7弾 幽霊坂の存在理由

妖怪屋敷 第7弾
<そもそも街の真ん中に幽霊坂のような暗い場所を尾張の殿様は何故残した?>

 「山彊先生、どうしてお城の近くに幽霊坂のような陰気な場所が存在するんですか?尾張徳川藩が当時としては中心地区である場所を整備しなかったのは何か理由があったのでしょうか」。もっともな疑問だ。身の回りにおかしな現象がある時は、支配者にとっての都合であることが往々にしてある。
 かつてケニヤに行った折、有名なブランド、キリマンジャロコーヒーを現地で飲んでみたいと喫茶店に入って注文したことがある。ところがキリマンジャロどころかコーヒーは全くないという。仕方なく紅茶を飲んだが現地の人々はコーヒーを飲まないことが分かった。聞けば理由はコーヒーを飲むと発情して不倫だらけになるからと言う。特に女性はコーヒーを飲めないと聞かされた。文献を調べてみると、なんとこれは当時統治していた英国が原住民にコーヒーを飲まれないよう、そういう噂を振りまいたためらしい。大切な高級輸出品を確保するためだったようだ。これも支配者の都合で生まれた習慣だ。

土居駅跡
 さて幽霊坂に話を戻そう。以前、名古屋城の東の堀に土居下という名鉄瀬戸線の駅があった。写真右:名鉄瀬戸線の土居下駅のあったところ
栄まで路線が伸びた今は、東大手駅になっている。何で土居下をこんな東京にあるような名にしたか分からない。名鉄に東京かぶれのアホがいたのか。これでは歴史のおもしろさや、地域の特異性がなくなってしまう。この駅は僕が明和高校へ通っていた時にいつも使っていたところ。美人の同級生とはじめて話をした場所でもある。ホームのすぐ脇は城の石垣があって、雰囲気は抜群だった。名前も風景もローカルで映画のロケにでも使えそう。地味な目立たない場所だが、お堀がそのまま電車の線路になった中にある駅は一般道路より低い位置にあり、周りは石垣以外、一面目にも鮮やかな緑の木々や草に囲まれた空間だった。当時流行っていた『青い山脈』とダブったものだった。そうだ、もう一度言いたい。「駅名を変えた馬鹿。こんな者が名古屋をつまらなくするのだ」

 ここには江戸時代『御土居下御側組同心』という特殊な組(隠密)屋敷があった。普通、城の脇は重臣の屋敷で固めるのにここだけは違っていた。ここには尾張の殿様に何かあった場合、定光寺から木曽の隠れ家まで落ちのびるための手伝いをする同心達が住んでいた。直ぐ上の明和高校の場所には筆頭家老の成瀬家があったから一応その配下に入っていたのであろう。定光寺から木曽へ逃げのびるための先ずの目的地は矢田の長母寺で、次は大森の金城学院大学の直ぐ脇にある大森寺であったのではないかと僕は推測する。

長母寺正門
 長母寺は1179年、山田次郎重忠が熱田明神のお告げで興した寺と言われ、全国に100近くの末寺を有した大寺だったが、戦国時代の動乱の頃太閤秀吉の検地でお寺の土地はかなり召しあげられ、江戸の頃は廃寺の一歩まえであったのを尾張二代藩主光友が再建している。写真左:長母寺正門より
 また大森寺は1661年、藩主光友が母を祭ったところ。それまであった小石川伝通院(徳川将軍の菩提寺)内にあったものを移築したという。
 この寺については僕の亡き親爺に幾度もその謂われを聞かされていた。
 尾張の殿様(初代義直公)が瀬戸方面へ狩りに出かけ、帰る途中急に雨が降ってきたので、現在の守山区大森の付近の百姓家で馬を下り、雨宿りをした。その時庭で体の弱い父親に行水をさせていた娘が、突然の殿さまの来訪に慌てふためいて、父親と行水の盥ごと持ち上げて裸の父を殿様から隠した。殿さまはこの怪力がいたく気に入った。正室も側室もいたが、お世継ぎとなる子宝に恵まれず、なんとか世継ぎをと思っていたのだ。この娘なら健康な子を生むに違いないと思い、即、お側女にしたというわけだ。初めはお湯殿の清掃を言いつかったとのこと。その後、その娘はめでたく懐妊した。さあここで大問題が起きた。殿さまのお子を汚い百姓娘が、その汚いまた下から産んだのでは歴代の穢れになる。さあどうするかになってその結果、腹を切って出すことになった。今と違って縫うことも消毒液も、麻酔もなく、結局娘は死んでしまった。

大森寺正門
 その後それを知った藩主光友はここに母を弔う寺(大森寺)と墓を造ったという。写真右:大森寺正門より
娘は幽霊か妖怪になって出てやればいいのに出てこない。きっと亡くなったけれど百姓娘の息子が尾張藩主になったのだから大満足だろうと周囲は思ったのであろう。幽霊や妖怪は周りが恐れなければ出現しないのだから。
 この話はよく調べるとつじつまが合わないところがある。この百姓娘、つまり2代藩主光友の母乾(いぬい)の方は光友を生んで後、体調が優れず9年後に江戸で亡くなっている。もちろん若死にだが、上記のように帝王切開まがいの出産で死んだとは思えない。しかしながらいくら殿さまのお手がついた娘とは言え、当時の厳しい身分階級にあっては、光友を産んだ後もしばらくは女中扱いであったということだし、心身ともに苦労があったのだろう。そんなことが僕の親爺の聞いたような逸話となって、地元に残っているのかもしれない。 
いやそれより親爺の腹をたち割って直ぐ死んでしまった話が本当で、江戸で9年間生きていた百姓娘は世を欺く替え玉かもしれない。いくら殿さまの子といえども腹を立ち割って出すなんて残酷過ぎると、下々に言わせないための行為だったりして。

 さてさて殿様の脱出ルートだが、この大森寺の後は田畑にも適さない志段味が原を抜け定光寺まで行く。ちなみに定光寺は尾張徳川家初代藩主義直が気に入っていた寺で彼の墓があり、この寺も尾張徳川家の菩提寺である。すべてを計算されて徳川家の寺が配してある。ここから木曽路に抜ける。これが殿の脱出ルートだろう。
 ではそもそも出発点である名古屋城から長母寺まではどこを通って行ったのだろう。これが幽霊坂も含む妖怪銀座ルートであるまいか。現在瀬戸線が通っている線路の北側は北に下る坂になっており、人家も少なかったと思われる。人通りが少ないから隠密同心は人に気付かれず殿さまを土居下から連れだすことができる。その後尼ケ坂にある片山神社を抜け、坂に沿って片山八幡神社から徳川の別宅(現徳川美術館)へ。そこから山田天満宮を抜け、直ぐ上にある長母寺にたどり着くと言うコースだろう。妖怪は徳川家を守っていたともいえるようだ。

 「ところで山田家は徳川家と何か係わりがあるのですか」。母の法事の折り、僕の大曽根の本家の叔父は山田家の家系図がどこまでも遡れると話してくれた。僕の母が生まれた大曽根の本家は江戸時代から続く商家で、現在の北区東区に広がる大曽根界隈の土地は全て山田の土地だったという。従って大曽根一帯を取り仕切っていたのであり、徳川園から西100mの所にある片山八幡神社の氏子総代を代々勤めていた。片山八幡神社(旧名大曽根八幡社)は継体天皇の頃始まり、尾張徳川家2代藩主光友が東照宮の神主に造営を依頼し徳川家の氏神としたという謂れがある。こうなると徳川家と大きなものでなくとも何らかのつながりがあった可能性も出てくる。僕の願望的想像だが、山田家は『御土居下御側組同心』と関係して隠密と手を組んでいたのではなかろうか。そうなると山田、隠密、幽霊、妖怪はすべてつながってくる。さすれば妖怪屋敷山田家の存在意義がグーンと高まることになるが、いかがなものでござろうか。


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まとめtyaiました【妖怪屋敷 第7弾 幽霊坂の存在理由】

妖怪屋敷 第7弾<そもそも街の真ん中に幽霊坂のような暗い場所を尾張の殿様は何故残した?> 「山彊先生、どうしてお城の近くに幽霊坂のような陰気な場所が存在するんですか?尾張徳川藩が当時としては中心地区である場所を整備しなかったのは何か理由があったのでしょ?...

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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