『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑬⑭⑮

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑬⑭⑮

先回に引き続き妖怪街道に跋扈する妖怪たちを3つ紹介させていただくが、妖怪街道の妖怪に関してはこの3つで最後である。

⑬妖怪「踊り念仏」
出現場所:長母寺から三河方面


 妖怪街道が矢田川を越える手前に長母寺がある。江戸時代には矢田川を越えるともう民家もまれで街道とは言えなかっただろう。この寺は矢田川堤防のちょっとした高台にあり、西には名古屋城の金のシャチがくっきりと見えたはずだ。この寺は1179年、山田重忠が母のために創建したと伝えられる。その後鎌倉時代後期に高僧の無住国師がやってきて、寺は大きく再建され三河方面にも信者を増やした。それは国師が念仏を歌うように唱え、踊りも加えるようにしたからだといわれている。これが三河地方にも浸透し、今の三河万歳のルーツになったとも言われる。一度秀吉の政策に引っかかり、たくさんの信者を失い荒廃したが、江戸時代に入って光友は落ち延び街道の要所でもあるこの寺の再建をしている。

 また無住国師は死後の世界をこの世に伝えた妖怪坊主としても知られる。この話は僕の小学校4年の時に聞かされたものだ。小学4年の折、この長母寺の境内で全校の写生会が行われた。写生会の開始前、住職は全生徒を集めこの寺のいわれを語ってくれた。僕は幼かったのにこの時の情景は今でもくっきりと思い出す。「あの世からの伝言」とでも言うのだろうか。考えてみると僕が小学校5年から死後の世界を考えるようになったのはここからだったかもしれない。
 
2種の葉が生えた木
 住職の話によれば、昔々この寺には無住国師という偉いお坊さんがいた。このお坊さんが亡くなる時、「自分は死後の世界へ行くのだが、もしそこがいい所なら一年後ここの境内の木の1本に、全然別の種類の木も一緒に生えてくるようにしてあげよう」と言って亡くなった。その結果1年後には、1つの幹に違う種類の葉を持った枝が生えてきた。これがその木ですと、目の前にある木を住職は指さした。あの世は素晴らしい所なのだと言うことになる。この木はなんと今でも本堂の前にあるから見るといい。
写真右上:住職の話した樹木、無住国師が亡くなって1年後に生えてきたといわれている。左は1本の木から生えた全く種類の異なった葉、右は2種類の葉が茂っているその木。

 僕が描いた「踊り念仏妖怪」は歌うように念仏を唱え、踊ったということから、大根片手に念仏を唱え、腰を振る庶民風のものにしてみた。こんなふうにしてここの念仏妖怪は信者の気持ちを掴み人々の中に入っていったのであろう。


⑬妖怪「踊り念仏」

妖怪踊念仏


⑭妖怪「守山崩れ馬」
出現場所:守山城跡周辺


 長母寺から矢田橋を通って矢田川を渡るとすぐ前にこんもりした森が見える。長母寺からは川向うにあり絶好の写生ポイントだ。小学校時代の長母寺での写生大会では、いい場所なのにほとんどここを描く者はいなかった。何か描かれることを拒否しているようだ。この地は尼ケ坂の妖怪銀座に次ぐ不気味なエリアだ。ここは城下町内の妖怪街道の終着点から川を越えたところだから箱根の関所のようなところか。ここで妖怪たちは自分たちにとっての不審者を入れないように厳しくチェックしていたのかもしれない。

 僕が近所の噂として幼いころから常に聞かされていたのは「この地域はいつもどぶろくの匂いが充満していて、役場の人も中に入れない。道が狭く曲がりくねっていて入ったら出てこられない。犬も1匹もいないから住民に食べられてしまうのではないか」等々と言うものだった。ここも僕が妖怪の本を書こうとする数年前まで、一度も訪れたことがなかった場所だ。大戦中、日本人を攻撃していた艦載機がこの上空で何故か故障し、米兵が落下傘で降りてきた。それを怒り狂ったこの地の人達が殴り殺したという話もある。

守山城跡
 こんなこともあり、改めてこの地を調べたらすごい過去が分かった。ここ守山(森山)には信長の叔父である信光の居城があった。三河を平定していた家康の祖父である松平清康は尾張も支配しようと守山城を奪い取った。だが夜明けに馬が暴れ出して嘶いたため、配下の武将に清康は殺されてしまった。殺した若い武将は、常々織田と通じていると疑いをかけられていた自分の父が清康に殺されかけたと勘違いして、主君清康を襲ってしまったのだ。後を継いだ清康の嫡男宏忠はまだ十代前半で、力を失った松平軍は撤退を余儀なくされた。このことを守山崩れと歴史では呼んでいる。
写真右:守山城跡石碑

 僕は強引に攻め込んできた清康に怒ったこの地の妖怪が一計を案じて馬に乗り移り、これを嘶かせたのだろうと思っている。というわけで「守山崩れ馬」は妖怪が乗り移った妖怪馬のイメージで描いてみた。現在守山城は守山城跡という石碑は立っているが、辺りは道が細くて車が曲がれない箇所もあり、そして何処までが民家かということも分からない不思議な場所だ。


⑭妖怪「守山崩れ馬」

守山崩れ馬


⑮妖怪「追い腹もみじ」
出現場所:定光寺界隈


 落ち延び街道の尾張藩内での終着点が尾張徳川家の菩提寺である「定光寺」だ。ここは寺と言えど山城に近い。しかも山が深く、隠れるのにも絶好な場所でもある。ここを菩提寺としたのは光友だ。菩提寺としても、落ち延び街道上の一地点としてもこんなにふさわしいところはない。ここまで逃げ込めばまず見つけられにくいであろう。

 紅葉が美しく妖艶ですらある。紅葉というとこのあたりでは香嵐渓が特に知られるが、僕はここ定光寺が好きだ。長い階段を上り切った時、眼前に広がる紅葉した葉と青空のコントラストが素晴らしい。でも妖怪を調べ出してから、僕にはもみじの赤色は青空にほとばしる血潮に感じられる。ここのもみじは血で赤くなったのだ。ここには血が流される何かがあると。紅葉の時期になると何回も来たのはそんな理由があったのかもしれない。

 ここに来る人達はもみじと山門や本堂を見て納得して帰る人がほとんどだ。この奥100m程の山中には義直をはじめ、歴代の藩主の墓があるのだがここに立ち寄る人は少ない。義直公の霊廟に向かってすぐ右側に9基の小さい墓がある。ほとんどの人がここを無視するが妖気はここが一番感じられる。

殉死者の墓
 この墓は義直が亡くなった折に、殉死した家来達の墓なのだ。ほとんどの家来が本当は死にたくなかったはずだ。僕はこれを尾張藩のケチと見栄の結果による追い腹(主君の後を追い殉死すること)と考える。お金は使いたくない。だが世間体は気にする。お金を使わず「さすが御三家筆頭!」と言わせるにはこれしかない。9人もの追い腹なんて他藩では考えられない。
写真右:定光寺殉死者9人の墓

 9人の中には弱冠30歳で尾張藩の武家の婿養子になって、直ぐに死ななければならない者もいた。すごく無念であっただろう。定光寺のもみじはそんな武士たちの血と怨念に染められた結果かもしれない。尾張地区の葬儀では、花輪をたくさん並べていかに死者が皆から尊敬、あるいは慕われていたかを誇示するような習慣があるが、江戸時代初期、殉死者の数を誇ったのとどこか似ているような気がする。


⑮妖怪「追い腹もみじ」

追い腹もみじ
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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