妖怪屋敷第5弾 尼ケ坂

妖怪屋敷 第5弾
名古屋の妖怪銀座は尼ケ坂付近  №1

尼ケ坂
 先日、我が家へやって来た妖怪バスターの教え子二人は、この東区にある尼ケ坂が名古屋最大の心霊スポットだと言う。ここを中心に妖怪研究を進めているとか。
 名古屋城と徳川園を結んだ真ん中あたりに、北に下がっていく坂、尼ケ坂がある。写真右:尼ケ坂の坂(妖怪の本拠地と称される)
伝承によれば、以前このあたりで、武士と恋仲になった小町娘が妊娠し、そのため武士に捨てられた。その後娘は尼さんになったが、ついには気が狂ってこの坂で自殺したと言われている。その後誰が言うともなくここを尼ケ坂と言うようになった。100メートル東にも同じような坂道がある。ここは坊ケ坂と呼ぶ。母がいなくなったことに気付いた幼子は母を探す間に、疲れと雨に打たれこの坂で亡くなった。このことからこの坂を坊ケ坂と呼ぶようになったとか。まとめて幽霊坂と地元では言っている。

 ここにある片山神社は尾張山田郡十九座地区の首位を占めるところ。実は僕の生まれたのはここから北へ数百メートルのところだ。この山田郡は名古屋の北の玄関で、善光寺街道(現19号線)と犬山街道(旧41号線)、瀬戸街道(現大曽根本通り)が交わっている重要地点。そのあたり一帯を統括していた庄屋である山田家で僕の祖父が生まれている。長男だったが2号さんの子で、その後本妻に男の子が生まれたため、名古屋城の東、清水の土地をもらって造り酒屋を始めた。木曽街道(犬山に通じる稲置街道とも重なる)に面した店で人通りも多く繁栄していたようだ。
八王子神社
 その孫に当たる長男が僕だ。7歳で米国の爆撃機に家を焼かれるまで僕はいいところのボンボンで、遊び相手は常に女中さんだった。彼女に連れられ名古屋城を見に出かけたり久国寺に行ったり、時には数キロ離れた矢田川まで連れて行ってもらったことがある。前回の金城学院高校前の古木も神様が宿っていると彼女に教えられた。掛かり付けの医者がそのすぐ北にあって注射が痛く、行くのが嫌だったことを良く覚えている。普段は我が家のすぐ北にあり、大きな池もあった八王子神社が遊び場であった。ここも米軍に焼かれ池も埋まってしまったが先日、何気なしに一部焼け残った御影石のかこい柱を見たら祖父の名前が大きく彫り刻まれているのを見つけた。写真左:米国の爆撃から残り、御影石の囲いに彫り込まれた祖父の名前「山田清太郎」。(片山神社から北へ500メートル程のところにある八王子神社)きっとこの神社を立てる折、相当の寄付金をしたに違いない。孫の僕が見つけたことで、きっとあの世で喜んでいるだろう。僕たち絵描きが作品を残すのも、いずれ孫が美術館にやって来て「ジーちゃんの作品だ!」と喜ぶのを夢見て描いているのではと思ったりするが。

 ところで話を戻すと、この尼ケ坂の森やその中にある片山神社へは、当時一度も女中さんにつれて来られた覚えがない。距離的には女中さんに連れられて行く散歩道の範囲内なのだ。どうもその名前(幽霊坂)からして怖れ嫌われる場所で、用がない限り近付かなかったのではないか。母や女中さんがやんちゃの僕を黙らせるときには、「練兵場(軍事訓練をする場所。現名城公園)のサーカスに売り飛ばすわよ」だった。ここの広場には年に一度サーカスがやって来ていた。やんちゃな子はここに売り飛ばされ、体を柔らかくするために酢ばかりを飲まされて空中ブランコ等をやらされる、と脅されたものだ。
 今考えると、サーカス話で脅すより「幽霊の出る尼ケ坂に置いてくるぞ」と言った方が効き目があるように思えるのだが、何故そうしなかったのだろうか。またお祭り等で夜間外に出かける場合、尼ケ坂のある南側には決して行くことはなく西や北ばかりであった。「夜行くと光る首が飛んでくる」と女中は恐れていた。この女中さんは我が家の丁稚の一人と恋仲になり結婚をした。丁稚さんは戦後静岡の富士市で酒屋をやり商工会議所の役員になったりして大成功をしたとおふくろは自慢げに語っていた。「三枝?」という苗字だった。これを言われると婿養子の父は常に首をすくめていた。おふくろはどうもこの男が好きであったらしい。おふくろがまだ僕の親爺と結婚する前からうちの酒屋で働いていたわけだから、よくある話だ。だがお嬢さんと丁稚では実らぬ恋。子供の僕でもその雰囲気はよく理解できた。僕の親爺は当時名古屋全市での大学卒が一年で100人も出ない頃の大学卒者。商売はからっきしダメでいつも僕を連れて裏のでかい倉庫に隠れ、僕と当時珍しい三ツ矢サイダ―(?)を飲みあっていたことを思い出す。
片山神社の森と公園
 戦後、家を焼かれた僕等は大曽根の本通りにあった我が家の空いた借家に、高校一年になるまで住んでいた。夏になればその尼ケ坂の直ぐ際にあった公営プールに毎日のように出かけたり、徳川園や数キロ離れた長母寺まで蝉取りに出かけていた。だが何故か、そこより近くにあるこの大きな尼ケ坂の森や片山神社には一度も行ったことがなかった。蝉がたくさんいそうなのに行こうともしなかった。写真右:都心なのに冷やかな雰囲気の片山神社の森
 今回このブログを書くため初めて訪れたが名古屋市の中央にあり、市立工芸高校のほんの30メートル程北なのにこんな誰にも知られない不気味な空間があったとは信じられない。何故僕をこれまで寄せ付けなかったのか。隣の市立工芸高校には仲間の教員が常にいて100回以上は来ているのに。僕の妖怪に対する無意識の恐れがそうさせたのか、妖怪の結界が張り巡らされていたのか。次回に書きたいと思う。

※妖怪屋敷第3弾のブログを読んだ大垣の知り合いからメールが入った。それによれば、大垣のある銀行で子供が2度も自動ドアに挟まれる事故があり、医者に連れていく羽目になった。他の銀行では聞いたことのない事故で、町神様に聞いたら、以前井戸のあった場所へ井戸抜きの管も入れず銀行を建ててしまったことが原因だと言われた。以前の土地の所有者に尋ねたら確かに井戸があったという返事。早速業者に頼んで土地を掘り起こし管を通してもらったら、事故は無くなったとか。


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No title

もうご存じでしたらごめんなさい。尼ヶ坂のお写真間違ってますよ。

お写真の道は、近年、神社の森を切り開いて作られた道です。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MCB631&courseno=C3&photono=8

1963年の航空写真で見るとわかるように、この当時で道はありません。

では実際の「尼ヶ坂」はどこかというと、
片山神社の前を西に降りていく坂です。
http://sakasuki.blog113.fc2.com/blog-entry-5.html

現在は心霊スポットというよりは、「ちかん」と「薬物取引」のスポットです。


No title

ちなみに、「山田郡」も、現在の「大曽根の交差点」として
(実際の山田郡の中心部はもっと奥だと思いますけど)

尼ヶ坂から見たら、「北へ数100メートル」でなく
東北東(ほぼ東)へ、2kmありますけど。

せっかくですから、もっと正確な情報をお願いします。


カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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