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『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑧⑨⑩

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑧⑨⑩

 名古屋の妖怪街道にまつわる妖怪を先回から紹介し始めたが、今回もそれに続いて⑧⑨⑩と3つの妖怪を紹介したい。

⑧首塚地蔵
出現場所:延命閣地蔵院から首塚付近

延命閣地蔵院の地蔵 妖怪銀座の西側にこじんまりした延命閣地蔵院がある。
写真右:延命閣地蔵院にある久国寺から一体だけ移されたという地蔵
 このあたりは2度の空襲で完全に焼き払われた。我が家も同じくB29の爆弾で倉庫と飼い猫を失い、さらに2度目の襲撃で柱一本残さず母屋も焼き払われた。この地蔵院は、江戸時代には罪人の処刑場であったことやこのあたりで辻切りが横行したため、暗く陰気で、怨念が祟っているという評判があった。そのため、家康に関係があり、名古屋城の鬼門寺でもある久国寺の八代目の和尚が寺に安置してある六地蔵のうちの1体をここに移し替え、供養をして怨念を鎮めたと言われる。このようなこともありここはその後、お助け寺になったというが、僕は知らなかった。現在の地蔵院は空襲で焼かれ新しくなっているが現在もお助け地蔵と呼ばれている。
 
  この地蔵院の100m程西に10坪ほどの首塚があるが、こちらはほとんで知られていない。この文を書いている途中、妻や娘がこの首塚を知らないというので連れて行った。驚くのはいつ行ってもごみ1つ無くきれいに清掃されていることだ。安産祈願と言ったお金儲けの寺院と違ってここにお祈りしても何のご利益もないであろう。なのにどうしてこのようにきれいに管理されているのか。きっとこのお地蔵妖怪が誰かに乗り移ってやらせているに違いない。僕も妖怪を調べるようになってから美術制作も健康もすこぶるいい。「山彊は妖怪にのめり込んでいてついに妖怪になってしまった」と周辺では言われている。

 ここの妖怪を描こうと考えていたら、切られ晒されている首を抱かえる地蔵が脳裏に浮かんだ。首の中には無実の罪で斬首され成仏できないものも多かったのではないか。赤い前掛けはそれらの雑念を解き放つもので、釈迦入滅後、弥勒菩薩の登場まで必死に現世に留まる衆生を救い続ける菩薩妖怪として描いてみた。賽の河原で獄卒にいじめられている亡者を救うのもこの菩薩と言われる。

⑧首塚地蔵

首塚地蔵


⑨「尼亡霊」
出現場所:尼ケ坂、片山神社付近


 尼ケ坂は侍に騙されて恋仲になり、子まで宿した後捨てられた町娘が尼になり、坂にあった杉の木で首つり自殺したことから尼ケ坂と名付けられ、名鉄瀬戸線の駅名にもなっている。どうしてこんなに暗い名前を付けたのだろうか。尾張徳川藩は殿様の落ち延び街道にしておくため、人々を寄せ付けない工夫をしたと、僕は勝手に想像している。

 この尼ケ坂はその昔は人もほとんど寄り付かないような細い坂道だったと思われるが、敗戦後、占領軍の米兵から日本の生娘を救うという名目で行政が300m北に作った遊郭へ抜けるための幅広い道路となった。男に騙され首吊りしたその名の付いた場所に、男の性処理のため作られた女郎街への切通しをつくるなんて皮肉なものだ。親父がこの道を掘り進めた幾人かの人たちが祟りで亡くなっていると言っていたが調べようもない。そんなこともあってかこの森のすぐ西側にこれ等の怨念を鎮める首塚が今でも存在している。
 4、5年後にはアメリカ軍もいなくなり、もっぱら名古屋市民のための女郎屋街となったが、それも昭和33年の売春禁止法施行まで。しかし今でも丸い外灯や2階の欄干が残っているから昔がしのばれる。あの女優、宮本信子の家も2年前まで残っていた。

 この尼ケ坂付近は誰が訪れても異界に入り込んだような妖気を感じると思う。すぐ隣の片山神社は一説によると、飛鳥時代後期の684年に、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)によって創建されたといわれ、不思議な結界に入り込んだような静寂に包まれている。ここは宮本信子と伊丹十三が結婚式を挙げたことでも知られている。

途中で切られた杉の木
 ここには地面から5mほどのところで切られて、そのまま残っている大きな老杉もある。自殺した尼さんが使った杉の木だとも言われている。どうしてこんな木を無理して残すのだろうか。
写真右:途中で切られているが、ご神木となって紙垂(しで)が掛けられている杉の大木

僕の創作『尼亡霊』はこれ等の雰囲気に動かされ、死後と生前の合体尼妖怪にしてみた。

⑨「尼亡霊」

尼亡霊


⑩妖怪坊ヶ坂
出現場所:坊ヶ坂、片山神社付近

坊ヶ坂
 妖怪の森に建つ片山神社の東隣に細くて不気味な暗い坂道がある。この坂道を「坊が坂」という。前述の首つり自殺した尼さんの幼児が母を追いかけこの坂の途中で力尽きたという。そこで付けられた名が「坊が坂」なのだ。これは自然発生的についた名前であろう。 
写真右:車がやっと通れるほどの狭くて不気味な坂道、亡ヶ坂     

 江戸の文化文政の頃というから人々も経済や文化に恵まれ、思考的にもゆとりがあったのだろう。この時代は妖怪話が一番多く語られた頃だ。北斎もこの頃の人で代表的な浮世絵もこの頃にたくさん描がかれている。日本が誇るアニメ文化もこの時代があったからだと思う。中国や韓国に妖怪話や浮世絵的な文化が少ないのはこのような時代が無かったからだろう。
 
 戦後この森の100m北西に大きな市営のプールができ夏休みになると毎日のように僕らはやってきた。けれど誰も森へ遊びに行くとは言わなかった。蝉もたくさんいたと思うが、子供たちがセミなどを捕らえるのはもっぱら徳川園であった。妖怪が昭和になっても侵入を防いでいたのであろうか。幼い頃、一度蝮取りに入って以来、実はこの妖怪本を書き始めるまで70年近く僕はこの森に一度も来たことがなかったのだ。50m程東にある市工芸高校には知り合いの教師がいて何十回と訪ねているのに。

 ここを歩くと自然に母を追いかけ亡くなった幼児の妖怪が僕に語り掛けてくる。だから妖怪画のイメージはすぐに湧いた。幼児なのに黒い唇をして頭には枯れ尾花のような妖怪の毛が生えている。首にはしゃれこうべのネックレス。右手には亡者を救う錫杖を握り、指に絡ませた1本の蜘蛛の糸は、自分の様に罪もなく葬られた人を助けようとしている。このカンダタの糸は切られることもなく、死界に伸びているようだ。

⑩妖怪坊ヶ坂

妖怪坊ヶ坂
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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