『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑦

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑦


 これまで①~⑥の妖怪を紹介してきたが、妖怪⑦~⑭はこの画集のポイントである妖怪街道にまつわる妖怪たちを紹介していきたい。そこでまずは妖怪街道とは何なのかを説明させていただく。

 妖怪街道(落ち延び街道)とは:尾張徳川家に万一の事態が起こった場合、藩主が名古屋城から領地の最北木曽の山中に逃げ延びる道で、名古屋城北東の堀を渡り、土居下から東区、守山区(名古屋台地のへり)を通り定光寺(尾張徳川家の菩提寺)に至り木曽へと続く道で、密かに逃げなければならないのであえて開発せず森が多く残された。そのため、そこには妖怪などが出没するという噂など、人々を寄せ付けない工夫もされたと著者、山田彊一が考え、妖怪街道と勝手に名付けた道である。
地図にしてまとめてみたからまず見て欲しい。散歩道としても楽しめるところだ。


スライド1

 さて僕が名古屋の妖怪にこだわり出した理由の一つが、生まれた場所のすぐ脇を走る妖怪街道(落ち延び街道)の存在に気付いたことだ。僕が生まれたのは名古屋城から北東1キロ程にある清水だ。終戦の半年前近くまでここに住んでいた。家は酒問屋だったので、遊び場は離れ座敷や大きな倉庫、いたるところにおかれた大きな木製の酒樽だった。だが商売に忙しい親にとっては子供が邪魔だったらしく、僕はいつも女中さんに連れられて外へ出歩くことが多かった。その女中さんが決して行くことのない場所があった。南側数百メートル先にみえるこんもりした森(名古屋市東区尼ケ坂近辺)で、僕の両親から近寄らないようにきつく言われていたようだ。「切られた首が飛んでいくし、妖怪がいっぱい出る」「辻斬りや、試し切りがあった」「追いはぎもよく出る」「首つり自殺が多い」「毒蛇がいる」等々、親は女中さんや僕にいつも言っていた。
 
 敗戦の1年前近くになる頃は、手代さんも女中さんも我が家からいなくなり、商売より戦争の備え一色になる。スターウォーズの仮面のような防毒マスクが国から配られたが、子供の僕にはサイズが合わなくて親たちは困っていた。だがこの頃大人達は爆撃機から身を守るための大きな防空壕を掘るのに必死で、子供などそっちのけだった。

 僕は近所の悪ガキ数人に連れられ一度だけ妖怪の森に立ち入ったことがある。小学高学年だったいたずら小僧たちはマムシを捕らえるのだと言って竹を半分に裂いた竿を持っていた。マムシは高く売れると言う。そして本当に暫くして捕まえたのだ。捕まえた蛇が本当にマムシだったか単なるヘビだったか、6歳の僕には分からなかったが「頭が三角だからマムシだ」と叫びあっていた。ここから数キロ東には俗にマムシ神社と呼ばれている神社もあるから、かつてはマムシがたくさんいたかもしれない。

写真下左:首塚霊神   右:蝮ケ池八幡
首塚霊神 蝮ケ池八幡宮

 僕の親は終戦後、酒屋の建物が焼失したため商売を辞め、そこから1キロ程東に自分たちの家を建てた。元々そこは山田の土地で借家が建っていたが戦争で燃えてしまったためその跡地に自分等の家を建て、今もそこに住んでいる。この場所は曽祖父が江戸末期に沼を埋めて作り出した土地で、妖怪街道沿いに当たる場所で、名古屋城と前述した尼ケ坂を結んだ線をその倍だけまっすぐ東に延長したあたりだ。僕も妻も娘もそうだが高校は名古屋城の東にある明和高校だ。親父は孫娘が自転車で高校へ出かける折は、尼ケ坂付近は危ないから通ってはいけないと言い聞かせていた。

 また今の僕の家から東1キロ程にある六所神社の2月にあるお祭りには、へその緒の付いたような飴が売られる。これは前述の僕たちが妖怪の森で捕まえた竹に巻き付くマムシそっくりだ。だからマムシ飴にすればいいが、それでは売れないのでへその緒飴として安産をひっかけて売っているのだろう。

 だがどうして名古屋城から東に延びるエリアには怖い、暗い話ばかりが多いのだろうか。明治の頃の航空写真を見ると城からこの森を抜け長母寺に向けて雑木林のような森が連なっている。現在はこの地に学校や公共施設が多い。明和高校、金城学院、市立工芸高校、旭丘高校等がある。何故これ等の学校が連なっているのか。ここのラインは尾張の殿様の長野へ逃げる落ち延び街道で、民家が少なかったからだと僕は思う。だから明治以後、ここにたくさんの学校を建てることができたのではないか。ただし明和高校は付家老成瀬家の屋敷跡、金城学院高校は中級武士の屋敷跡に建てられている。

 尾張の殿様はこの逃げ道に人々が入らないよう怖い、暗い話を作り上げ人々を寄せ付けないようにしたのだろう。面白いことにはこの妖怪街道が名古屋市で人口の一番少ない東区にすっぽり入るということだ。そんなこともあり僕はここを妖怪街道と命名し、その中心の森(尼ケ坂)を妖怪銀座と呼ぶことにしたのだ。否、僕が名付けたのではなくもう言われていたような気がする。実際にこの地に来て実感して欲しい。どこにも見られない異様な霊気を皆さん、感じられるだろう。行かれたら不自然に切られた大木やビルの名前等を確認してほしい。妖怪銀座と呼ぶ僕の気持ちも分かって頂けると思う。

さて今回は妖怪街道にまつわる妖怪⑦を紹介させていただく。

⑦飛び首
出現場所:東区尼ケ坂、延命閣地蔵院付近
 
 女中さんとたまに久国寺方面へ散歩に出かけると「夜、あの森から光る首が飛んでいくのよ」と言って僕を脅す。ここが妖怪の森との結界らしく、彼女はこれ以上南には行かない。どんな首が飛んでいくのか尋ねることも怖くて僕にはできなかったが、幼いながら僕の想像は膨らんだ。妖怪「飛び首」の原点はこの時に遡る。

 50年ほど前、僕は一人インド側から開通したばかりのバスでチベットの奥地のラダックに入った。バスは2日かけて一気に4千メートル以上まで上がるため、僕は高山病になりバスの中で意識を失った。運転手等に介抱されどうにか近くの民宿に担ぎ込まれることになった。その夜、僕は死を覚悟した。頭は割れるように痛く、脈は運動会で100メートル走った時のように打ち続け、空気が薄いから窒息しそうで,風の入る窓の隙間に顔を付け金魚のようにパクパクやっていた。もともと空気が70%程しかなく吸ってもすっても苦しみは同じだったが。夜明けになりヒマラヤ山系に朝日が昇るのを見て「ああ、生きていた!よかった」と感じたことを思い出す。光は生の実感を演出するようだ。

チベットラダックの寺院壁画
 身体が少し回復すると、直ぐに各所に散らばるゴンパ(寺院)の探索に出かけた。土と木で造られたゴンパはカラフルな壁画に囲まれ、さながら妖怪の里の様であった。年間雨量が10ミリのため食べ物に恵まれず、そのための混乱を防ぐため怖い脅しの絵が必要なのだろう。一妻多夫は食料が少なく人口を増やさないためであろう。これらの絵を見ながら、ふとこの首、どこかで見たような気がする。そうだ幼い頃、近くの森から飛んでいく首、当時勝手に想像した首に似ていると思った。らんらんと輝く目、燃え盛る炎のような髪、平たい大きな鼻、壁画の絵は僕の幼い頃の想像と重なり、妖怪画「飛び首」のイメージとなった。
写真右:チベット・ラダックの寺院壁画


⑦飛び首

飛び首
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR