「謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボス」を見て

謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボスを見て

『ヒエロニムス・ボス』パンフ
 試写会で「謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボス」を見てきた。すぐ見に行く気になったのは、ボスが僕の若い時の憧れの画家だったからだ。
写真右:「謎の天才画家 ヒエロ二ムス・ボス」のパンフ

 僕は小さい頃から死に対する恐怖心が強く、特に24,5歳の頃は毎日死神にとりつかれたような感覚に陥った。何故かというと、丁度その頃に生きる目標を失ったからだ。絵を描き始めた頃は「よし画家として有名になるぞ。そうすれば女性にももてる筈だし」等々、人生をそんなに難しく考えていなかった。だが大学卒業の頃にはその有名になると言った目標は僕なりに達成されてしまった。19歳の時に愛知県主催の美術展で大賞を取り、22歳の頃にはニューヨークの日本人画家14人展の一人として日本全国から最年少で選ばれたのだ。我が家にもアメリカからギャラリストがやってきて、新聞などでも報じられ、目標を達成してしまった気分になった。アメリカでの展覧会が終わると、進むべき次の道が見つけられず、虚無感に襲われ、このままだらりと生きて死んでいくのかという恐怖に憑りつかれたのだ。

 これに追い打ちをかけたのが当時の世界美術界の動向だ。ニューヨークの14人展に選ばれた僕の作品は大胆な構図に原色の赤を用いた抽象画で、自分では構図も技法も個性的で独創的だと思っていた。だがこの直後アメリカからポップアートが入り、日本の美術界もその影響を大きく受けるようになる。それまで日本では見た目がきれいで構図もまとまっている絵が良しとされたが、ポップアートにおいては独創的なのは当然、見た目も人があっと驚くような斬新さできれいにまとまっているなんてことは問題にされていない。むしろ破壊的なくらいだ。僕の作品は独創性、個性はあってもきれいにまとまっている。こんな作品を創り続けていいのだろうかという疑問も沸き、人生に行き詰ってしまった。

 これではよくないと美術関係の会合や自身の個展開催などで東京へ頻繁に出掛けるようになるとますますそのことが気になった。ギャラリー等で出会う、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった評論家の針生一郎さんが僕の作品を見ても完全に無視だったのもつらかった。どうも公募展などに作品を出している画家は彼の眼に入っていないようだった。僕の同級生たちはアートに行き詰ったら恩師である大学の教授たちに教えを乞うていたようだが、全て公募展である日展所属の画家で、きれいに色を塗っているだけの教授たちに、そんなことを聞きに行っても無駄なことはよく分かっていた。僕は突破口を求めてもがいていた。

 これが冒頭に書いた生きる目標が見えなくなり、死神に取り付かれた24,5歳頃の僕だ。そんな状況を打破すべく図書館へ行き美術雑誌や美術関連の本を読み漁るうち、僕の心に大きく引っかかったのが、地獄絵図を描いたボスとボスを手本にしたようなブリューゲルだった。
 さらにびっくりしたのが末法の平安末期から鎌倉時代にかけて描かれた日本美術の餓鬼草紙だった。人の糞を食べ骨をしゃぶり腹だけがでかい異様な身体が僕に迫った。腹が膨らんでいるのは極端な飢餓状態だが、若い僕には貪欲な食欲の結果か性欲の果ての膨らんだ腹で、出てくる子供はどうなるのだと思わされた。ボスの絵もまさしく食欲と性欲にとりつかれた醜い人間たちの世界を連想させた。
写真下:餓鬼草子より 部分
餓鬼草子より部分 (1) 餓鬼草子より部分(2)
 
 これ等の絵の強烈なインパクトから、その後僕が描き始めたのは「餓鬼草紙シリーズ・太郎と花子」だった。この作品は小野ヨーコや篠原有司男がよく使っていた東京新橋の内科画廊で個展発表したら美術雑誌等で大きく取り上げられた。

僕の『餓鬼草子シリーズ』より 内科画廊 
写真上左:僕の描いた『餓鬼草子シリーズ』
写真上右:東京新橋内科画廊で左から滝口修造、一柳慧(オノヨーコの元夫)、サム・フランシス 1964年 当時の美術の最先端を行く画廊で、著名な外国人アーティストも個展を開いていた


 自信を持った僕は、その当時僕や僕の主任教授が所属していた春陽展(日展や二科展よりレベルが高い)に出してみた。その前年に僕は春陽展で賞を取っていた。今度は更に新しい技法の作品で自信があったのだが、見事に落選してしまった。この僕の「餓鬼草紙シリーズ」作品は京都で大賞をとり、東京や京都では認められたのだが、世界の現代美術の潮流から遅れていた名古屋ではまだ認められなかった。1960年代のことで名古屋では公募展がまだ美術の王道と言われていた時代だった。僕は年功序列の旧態然とした公募展に決別する道を選び、春陽会を脱会した。

 僕の若き日の人生を決定づけた一因となったボスは今でも僕の好きな画家である。ボスの作品は祭壇画が多く、大きな画面に動物や人物がびっしり細かく描いてある。だから画集などで見る場合、彼の絵は全体を見てしまい描かれた一人一人まで確認することができない。どうしても周りや全体に気を取られてしまうのだ。
 今回の試写会の映画は、それらをすべて解消してくれていた。細部が大きく映し出されてさらにクローズアップされた作品はすごい迫力で僕に語りかけてくる。カメラの技術進歩がアートを面白くしていた。この作品に関してはもう20年も前にスペインのプラド美術館で僕は本物を見ている。だがそれを見た時の興奮より今回の映画で感じた興奮の方がはるかに優っているという気がする。細かく描かれている人物を等身大で見せられると、よりリアルになって僕に迫ってくるのだ。

写真下:ボス作『快楽の園』より部分
ボス『快楽の園』より部分(1) ボス『快楽の園』より部分 (2)

 ヒエロニムス・ボスは15~16世紀のネーデルランドで活躍した天才画家といわれているが人物像の詳細はおろか生年月日も不明の謎に満ちた人物である。この映画は彼の作品中、最高傑作で最も異彩を放つと言われている作品、プラド美術館所蔵の三連祭壇画『快楽の園』について各界の知識人が語るドキュメンタリーで、彼らの言葉に合わせて、ボスのエロティックでグロテスクな天国と地獄の快楽の園が画面いっぱいに映し出される。不可解で奇怪なボスの絵が、僕の若き日の死神と同化していた。




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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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