雪舟神話の欺瞞-その2

雪舟神話の欺瞞-その2
『雪舟』の名はどのようにして生まれたか。


 雪舟が田舎武士の家に生まれてから寺に預けられ、48歳で遣明船に乗るまでの期間については、歴史的に信頼できる資料は非常に少ない。それは彼が僧侶としてたいした位も持たないただの坊主だったから当然と言えよう。遣明船に乗る10年程前には、彼は京都の相國寺を出て大内氏の山口(周防)に来ていた。彼は何故京都を去らねばならなかったのだろうか。

 室町時代の3代将軍、足利義満は自分の権力を強固にするため、五山十刹の寺の官制化を図って僧録司を設け、幕府と強いつながりを持つ政僧を作りだしていた。幕府の財政が厳しくなると、お金でこの位を売るようにもなった。僧侶側から見ればお金で地位と名誉を買えるようになったのだ。当時荘園領主化していた五山禅寺の教団は巨額の資金を動かす力を持ち、幕府内での発言力をますます増していった。(この伝統が今の日本でも芸術の世界を中心に悲しいけれど続いている。)お金で禅寺院内の地位が得られるようになると寺内の宗教道徳的な秩序は崩壊し、五山の老宿(長く修業した有徳のある老師)の中にも、禁じられていた女犯にも手を出し(当時男色は禁じられておらず、寺内では当然のこととして行われていた)、お金を得るため豪商の茶坊主と化していった者も多く見られた。商人等も五山十刹の僧と交流すればお金はかかるが権威は上がると喜んだ。
 雪舟が青春時代を過ごした15世紀半ばの京都は義満の死後、幕府権力の低落にともなって、細川、山名、大内等といった有力大名の絶え間ない勢力争いがあり、五山勢力、公家、有徳人などの流動化が進み、僧・公・武がかつてないほど自由な交流の場を持った時代であった。やがて来る応仁の乱前夜の不穏な空気を孕みつつも、否それが故に狂乱するが如くに五山文化が花開き、連歌、宋学(朱子学)、禅画(詩画軸)、茶、庭園、能等様々な芸能が隆盛を見た。
 そういった中で雪舟も五山文化の洗礼を受けたことは想像に難くない。しかし、名もない家柄で、禅寺内の位も低いため商人からのお声もかからず従ってお金も稼げず、当然画家としての地位名声など望むべくもない立場だった。この頃雪舟は東福寺を中心とする宋学の研修を通して大内氏の周防との人脈を築いている。当時の相國寺内は、幕府と細川氏の勢力が中心で、この派閥に入らない僧たちは、朝鮮貿易により西国で凄じい勢いで力を増していた大内氏や、その他の有力な伝手を探し求めて頼ろうとする気運に傾いていた。有力大名をはじめとする武家や公家の争いが絶えない京都で、明日の我が身がどうなるやも知れぬ時代、誰もがなんとか活路を見出そうとしていたのだろう。
 雪舟も、足利幕府の脆弱な体制や有力大名の勢力争い等で衰退してゆく京都の情勢をみて山口に下る決意をしたと思われる。この移住を可能にしたのは、雪舟が相國寺内で来客の案内をする知客という位の役柄だったためだ。案内をすることで大内氏に関係した高僧とも知り合いになれたことや、更に前述した宋学仲間の人脈が考えられる。しかし彼の最終目標は山口で大内氏の庇護をうけることではなかったと思う。彼の眼は遥か彼方の明に向いていた。相國寺にいて遣明船に乗ることは望むべくもなかった。しかし海外交易を盛んに行っている大内氏のもとにいれば明に渡れる可能性は一段と増す。雪舟が山口へと下向したのはそんな様々な条件が折り重なったからであろう。
 その山口で10年程暮した後、京都から旧知の翺之(こうし)慧(えい)鳳(ほう)や龍崗眞圭等の訪問を受けた。彼等は幾度となく下級僧の雪舟を訪問している。それは懐かしさもあっただろうが、本当の理由は互いに利用できプラスになると判断したからだろう。京都東福寺の僧、翺之慧鳳は大内氏側とのパイプがあることを知っていた幕府に細川方の使者として大内氏訪問を命じられ、半ば不承不承、山口に赴いている。というのは大内氏と幕府・細川氏はライバル関係にあり、ここ山口で慧鳳の肩身は狭く、唯一気軽に話ができる相國寺の雪舟を訪ねた。そういうわけで翺之慧鳳が幾度も雪舟を尋ねたのは当然の成り行きだったが、ここに来れば大内氏の重役陣との話し合いもしやすく、新しい大内氏の情報も得ることも大であったからだろう。
この折に翺之慧鳳は『竹居清事』と『竹居西遊集』を書いている。『竹居西遊集』には雪舟に関する詩文が記されている。その中で慧鳳は雪舟について、中国の名高い顔輝や牧谿の画風を受け継いだ正統派の画人であると称え、ここ山口での雪舟は、子供や小間使いまで誰もが知る存在だと記している。そして雪舟を如拙、周文につながる画僧と持ちあげている。
 今、世間で紹介される雪舟関連の文を見ると、ほとんどが室町時代の水墨画の大家として如拙、周文、雪舟の名を挙げ、それぞれが師弟関係にあったような書き方をしているが、それはこの慧鳳の説明を鵜呑みにしているからだろう。周文は幕府の御用絵師であり相國寺内においても雪舟との直接の師弟関係はなかったと思われる。勿論当時の相國寺は周文を中心にした禅林水墨画の発祥地であり、ここの僧は大なり小なり影響を受けたであろうが我々の思うような直接の師弟関係はないと見るのが正しいだろう。もしあったなら、雪舟の絵におけるデッサン力はもっと優れたものになっていただろう。周文の絵は格段にうまく雪舟の絵とは比べ物にならない。また如拙と周文においても子弟関係と思われるような接点は見つけられない。
 しかし、さらに現在一般に信じられているこの子弟関係を裏付けるような資料がある。それは雪舟75歳の折り、破墨山水画の作品の中へ「吾が祖、如拙、周文」と記していることだ。雪舟はどうにかして自分に箔をつけたかったのだと私は推測する。結局雪舟は生前絵を特に傑作と評価されることなく生涯を終えたのではなかろうか。現代でもある彫刻家がイサムノグチに師事と経歴に書き自分を売り込んでいるが、実は1度イサムノグチを訪ねただけであった。私の家に1度訪ねてきた評判の似顔絵師も「山田の弟子だ」と言っていると同級生の企業家に教えられた。
 前述したように慧鳳は『竹居西遊集』の中で雪舟を持ちあげられるだけ持ちあげている。それは彼が快く思っていない京都の画壇に対する抵抗と雪舟に対する友情と、大内氏に近づきたい願望もあったと思われる。しかしこの私情まぜこぜの詩文『竹居西遊集』の中でいかに雪舟が持ち上げられようとも京都において雪舟の名が広まることは全くなかった。

 雪舟の数少ない資料のもうひとつが相國寺の鹿苑僧録である龍崗眞圭の文だ。それによれば雲谷(雪舟の前の名)は38歳頃、中国の元の学者である楚石梵の文の中に雪舟の文字を見つけた。雲谷はその文字を見た瞬間、これを新たな自分の名にしたいと思ったのであろう。雲谷=雪舟はその後しばらくして渡明している。新しい名前で心機新たに明へ渡ろうと言う雪舟の決意が感じられる。
ヴィーナスの夢
 雪で造った舟なんて存在しない。浮かべれば直ぐに溶けて沈んでしまう。この発想はおもしろくすごい。ダリやマグリットのシュールリアリズムにつながる発想だ。室町時代に生きた雪舟がそんなシュールな発想を持っていたかどうか疑問だが、もし雪舟が現代に生きていたなら美術作家として十分に通用する。加えて今はデッサンの善し悪しだけで芸術的な価値を決めることはないから、もし雪舟が現代美術作家であったなら、きっと名を成していることと思われる。
写真右:ダリ作「ヴィーナスの夢」1939作(ぐにゃぐにゃに伸びた時計は人間が作った時の概念を打ち砕く。雪で造った船も然り)
写真下:マグリット作「帰還」1940作(鳩が風景では鳩にならないというパラドックス)

帰還
 さらに、これと同じ発想で述べれば、雪舟が日本で最初の写生画(『天橋立図』や『鎮田滝図』のスケッチをしている)をやったことも現代美術的評価で言えば大きいと思う。写真下:雪舟作『鎮田滝図』(毎日新聞刊「雪舟」より)
鎮田滝図

 雪舟はこの文字を相國寺鹿苑僧録司(僧侶の人事を取り仕切る権限を持つ)である龍崗眞圭に見せ、文字の解説をしてもらい、彼から雪舟という画号が授けられたように繕っている。その折りのことを『雪舟二大字』で龍崗眞圭が書いている。眞圭は「雪舟」の文字を「雪」は清らかなる心の体、「舟」は動くもので心の用、「雪舟」とは帰するところ人の心だと解釈している。雪舟は一旦はこの依頼を断った眞圭に対し強引に頼み込んでいる。鹿苑僧録司という肩書を持つ眞圭に雪舟の号の字説を求め、自分のこの名前に箔をつけようとしている。これもまた彼の自己顕示欲の強さを示している。現代でも物書きが本を出版する場合、帯や解説文を著名人に書いてもらい箔をつけているのと同じことだ。
縛った石
 雪舟が龍崗眞圭へ強引に名付け親を頼めたのは、五山における親大内派の実力者として眞圭も反幕府側の人間で雪舟に親近感を待っていると思ったからだ。龍崗眞圭はその立ち位置から幕府や細川派から嫌われ、鹿苑僧録の位を排除すべく罷免要求を突き付けられている。そしてその後彼は相國寺から行方をくらませてしまっている。

写真右:山田彊一作「縛った石」10年前、大阪難波、ABCギャラリー個展作品。刷った石なのに底がへこんでいる。作られた重力。・・皆雪舟の字と同じ思考。

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まとめteみた.【雪舟神話の欺瞞-その2】

雪舟神話の欺瞞-その2『雪舟』の名はどのようにして生まれたか。雪舟が田舎武士の家に生まれてから寺に預けられ、48歳で遣明船に乗るまでの期間については、歴史的に信頼主だったから当然と言えよう。遣明船に乗る10年程前には、彼は京都の相國寺を出て大内氏の山口(周?...

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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