福島原発

福島原発
1.芸術家よ、「福島の語り部」になろう
2.斑目委員長の償い


南相馬松だけ残った
 「3・11」追悼式の1周間前、福島原発に関する原稿の依頼を2か所から受けたので4月にボランティアを兼ねて福島へいく予定であったのを繰り上げて、雪降る福島の南相馬に出かけた。寒さで人がいなくてホテルもすぐ取れると思ったらとんでもなかった。どこも満杯で「ふろもトイレも共同の元社員寮なら空いてる」とのことで、相馬に宿は取れた。国道6号線を登ると途中検問があり原子力発電所へ行く道の通行を拒否されるが、海岸側の裏道を行けばある程度入ることができる。寒さのためか裏道には「入るな!」の標識だけだった。裏道と言っても何もなく原爆を落とされた広島がこんなではないかと想像できる廃墟が広がる。このあたりへ来ると身体が銭湯の電気風呂に入ったみたいにびりびり震えだす。本当に震えているのではない。頭が恐怖して震えているように感じるのだ。ここには避難して誰もいないが、子供でもいたら親として耐えられないだろうことが想像できる。写真上:内陸側から何もなくなった南相馬の町を見渡して。
 3日後にはここから200キロ離れた女川原発へ向かった。時速70キロで走れば3時間で到達できると思ったがとんでもなかった。仙台に入ったら車は1時間で数100メートルしか進まなくなった。復旧の工事の職人たちの車で進めないのだ。これではボランティアどころでなく、復興の足を私が引っ張っているのではと後悔しきりだった。
この時の思いと私が感じたことをANET の東日本大災害の特集号と新聞報のコラムに載せたので読んでいただけたらと思う。


1.芸術家よ、「福島の語り部」になろう  (ANET)

 3月5日、昨日から降り続いた雪がみぞれに変わり非常に寒い。原発事故で進入禁止になっている南相馬市の崩れた防波堤に私は立っている。寒さのためかあたりには人一人いない。秋に来た折にはあれだけたくさんあったガレキがもうほとんどなくなって、更地になっている。復興が進んでいる証しだろうか?だがよく見ると、家の土台や茶わんのかけらなど人間が暮らしていた痕跡がそこかしこに残っている。この情景は何故か虚しい。日常生活の復旧、更に人々の心の回復となるとまだまだ時間がかかるという気がする。それでも人は生きている限り、前に進み続けなければならないし、我々は様々な形でそれらの人々を支援しなければならない。
福島の砂に印刷
 この東日本大震災の後、私は芸術家としてカンパ以外に何ができるか考えた。そこですぐ思い当たったのが戦争の悲惨さを描いたピカソの「ゲルニカ」だった。私もこれに習い直ぐ創り始めたのが大震災の立体作品だった。福島の砂の上に悲惨な被害の情景を版画のシルクスクリーンで刷ったものだ。砂の中に特殊な硬化剤を入れ炭酸ガスを吹きかけると砂は硬化する。その上に刷るわけだ。写真右:セシウムを含む福島の砂を固めその上に崩れいく海岸風景をシルク版画で刷ったもの。いずれどこかで発表するが物議をかもしそう。そしてこの作品を出す場所として選んだのが、新潟の豪雪地帯で毎年夏に開かれる国際的なアートの祭典『越後妻有トリエンナーレ』だった。アートを都市に集中させず大地とのコラボレーションで見せようとするものだ。同様の祭典が瀬戸内海でも催されているがいずれも大成功で世界からも100人を超すアーチストが常に集まり美術展を盛り上げてくれる。
 私は越後妻有へ自分の作品を出そうと応募書類を出したが拒否された。私の作品に使われている福島の砂が問題のようだ。全国の自治体が福島のガレキを一端受け入れることを決めながら住民の反対で諦めたことと同じ次元であろう。私の作品の砂にも少しは有害物質が入っているだろう。だが福島では全ての住民が毎日その上で生活をしているのだ。勿論作品の砂に含まれるセシウムは国の基準以下に抑えるつもりだ。だがここの行政はそれも怖くて許せないのだ。せっかくの世界的なアートの祭典を催しながら、拒否とは何だろう。結局新しいアートの祭典と言いながら問題のない、どうでもいいものの展示に終わるのかと悲しくなる。いつの時代も歴史に残るのは問題のある作品群なのだ。ゲルニカなど今でも物議をかもし、作品の前には屈強な二人のガードマンが立って見張っている。

 ここ福島で「皆さんが今一番、他府県の人に望むのは?」を知り合った沢山の人々に尋ねて回った。多くの人が「福島を、この大災害を忘れてほしくない」であった。「一番気になるのはガレキを受け入れてもらえないように、今後私たちが他府県の人と接する折、ガレキのような扱いを受けるのではないか」という恐れだとも付け加えてくれた。
 福島のため、芸術家に何ができるか。この答えを見つけようとの2回目の旅だったが、やはり結論は作家がその作品を通して福島の語り部になることだと強く感じた。帰りには今回も東北の砂を持って帰る予定だ。


2.斑目委員長の償い    (新聞報)
 
 東北大震災・追悼式の1週間前、僕は南相馬市にいた。福島原発近くになると国道は警察官が交通規制をしていて入れないが、細い裏道を行けばかなり原発寄りの地域まで入ることができる。雪やみぞれで寒く、警戒が緩かったから入れたかもしれない。遠くを走っていく1、2台の車は見たが、どこまで行っても人ひとり出会わなかった。津波に襲われた町は瓦礫がほとんど撤去され、数か所に種類別に分け摘んであるだけだった。見渡す限りの広大な面積が更地になっていた。だが地面をよく見ると屋敷の土台跡や茶碗のかけらなどがそこかしこに見られる。ここに1年前までは家屋が並び、人々の雑踏があったと思うと胸が締め付けられる。黒く焼け焦げた跡が生々しい一角もある。これらは原爆後の広島の街のイメージとも重なる。原爆は米国によって落とされたけれど、この原発事故は権力を持った政治家や学者が落としたと言えるのではないか。彼等は権力を維持するために研究や努力をするだけの人間になり下がっている。
南相馬市
写真上:南相馬の崩れた海岸から町を見渡して。写真中央上に私の車が見える。
 「原発は爆発することはない」と言い切った斑目委員長もその一人だろう。今は反省していると聞くが、まだその責任を取っていないのではないか。反省すれば許されると言うのなら大量殺人者も反省すれば許されることになる。まだ報道はないが原子力発電のトップ学者だから給与は勿論、償いとして資産のほとんどを福島にカンパして当然と思うのだが、その事実を知りたい。
 それを調べられるのが中日新聞だと思う。他社よりはるかに多額の震災カンパを集めている。勿論出したのは中日新聞の読者たちだ。私の知り合いには1千万円を出した者もいる。それらの者が私と同じように斑目委員長を含む原発村学者達がどう償いに向き合っているのか知りたがっている。



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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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