花見と妖怪

花見妖怪

 お花見シーズンも終わり桜は散ってしまった。いつもこの頃になると、一抹の寂しさを僕は覚える。僕もいずれ散って死を迎える。桜と違って散ったらどうなるのだろうか。あの世はあるのだろうか。ある筈ないよね、などといったことを考えてしまう時期でもあるのだ。

岩木山と満開の桜
 以前桜まつり見学を兼ね弘前の友人を訪ねたことがある。彼方に岩木山を望み、咲き誇るソメイヨシノは名古屋で見るお花見なんて問題にならないほど素晴らしかった。写真右:満開の桜の向こうに姿を見せる岩木山
 花びらが乱舞する花群の間から覗く岩木山は仏教でいうあの世の山、須弥山にも思われた。まるで天国の園のようだ。だが須弥山には天国もあれば地獄もあると言われている。とすると地獄はどこにあるのか。

弘前桜まつりお化け屋敷
 この花見に浮かれる僕を驚かせたことがある。桜は岩木山(須弥山)を背景に咲き誇っているのだが、今度はその桜を背景にお化け屋敷の小屋(写真左)が並び建っていたのだ。みたらしやぜんざいを出す茶店ではない。なんと夏祭りに登場するいわゆる「お化け屋敷」なのだ。これが須弥山の地獄なのだろうか。鉢巻をしたお姉さんが客を呼び込み、その後にはろくろ首や生首が並ぶ。
 名古屋人の感覚としてはお花見とお化け屋敷はミスマッチだ。だが弘前の民は桜も待ち遠しいが、化け物屋敷も春を祝う行事として待ち遠しいようなのだ。「山田先生、どうして名古屋のお花見にはお化け屋敷がないのですか」と逆に友人から質問されてしまった。

片山神社の桜
 名古屋辺りでは桜はほとんど散ってしまったが、弘前ではまだこれからだろう。写真右:名古屋の妖怪銀座と言われる尼ケ坂にある片山神社の桜
 ここ数年妖怪にとりつかれて?妖怪画を描いている僕は、僕の妖怪画と弘前のお化け屋敷との不思議な偶然の一致をあの満開の桜とともに思い出したのである。さらにそこから、ひょっとして花見習慣が定着したのと、妖怪話が語られ妖怪画が描かれるようになった時期は同じではなかろうか、つまり花見と妖怪には何か相通じるものがあるのではないだろうかと思い至った。

 では、この花見の習慣はいつから起こったのだろうか。平安前期に嵯峨天皇が催した花見の宴がルーツと言われるが、庶民までが桜見物に浮かれるようになったのは江戸時代からではなかろうか。世の中が平和で落ち着き、ゆとりができると遊び方にも思考が及ぶ。家族うちそろって楽しめる娯楽として花見の習慣が広まった。

北斎百物語之図
 同じ時期、岡場所遊びや賭博に飽きた大棚の旦那衆は平和でさしたる心配もないがゆえに、逆な遊びを考えだす。仲間が集まって恐怖を遊びとして楽しみ始めたのだ。蝋燭を100本立て集まった仲間が怖い話を一つ終えるごとに蝋燭を1本ずつ消していく。いわゆる百物語で、最後に暗闇になると本当のお化けが現れると言われ、その恐怖を人々は楽しんだ。
写真右:北斎百物語之図より

 中国や韓国にはこのような妖怪話がほとんど無い。他国と陸続きの国では何時侵略があるかもしれない。常にそのことに備えねばならない。襲われたらすぐに逃げられるよう金製品をため込んでおく。のんびりと遊ぶ思考はない。島国で社会がまとまっている日本ではそんな恐怖が大陸に比べて少ないゆえに、平和が飽和状態になると逆に恐怖を創り出した。実際に身に危険が及ぶような恐怖ではなく仮想のお化けや妖怪という恐怖だ。人間というのは常に何かの危険に備えたい生き物なのだろう。何もないと自分で作りだすのだ。
 このような理由で江戸の町民文化が栄えた元禄、文化文政の時代に妖怪話がたくさんできた。その頃からお花見も盛んになった。だからお花見と妖怪出現の根は同じで、その陰が妖怪、陽が花見という形をとって現れたのではないかと僕には思われる。

 実は僕が『現代餓鬼草子』というタイトルの妖怪的な絵を描いたのは1962年頃で、これで京都アズマギャラリー記念展の大賞をもらっている。
写真下:現代餓鬼草子シリーズより
現代餓鬼草子

 その後画題はいろいろ変わったが、僕の頭の中には常に生と死の問題が存在しており、2011年頃から再び妖怪に興味を持ち、僕独自のオリジナルな妖怪の絵や文を書き、尾張の妖怪本『名古屋力・妖怪篇』を2013年に出版した。その後僕の妖怪探索&創作は、ニューヨークに飛び妖怪シリーズ2冊目の『妖怪インニューヨーク』を2015年に出版した。この本のために描いた妖怪をさらに大きく描き直し、昨年はニューヨーク個展を開催した。
 ここニューヨークにはハロウィンに代表される様な妖怪はいるが、新しい妖怪はあまり存在しない。今世界情勢は不安定で一触即発の危機が待ち受けているような状態だが、ニューヨークは大国アメリカ最大の都市だから紛争国から見れば平和であり、街がさらに落ち着きを取り戻したら妖怪も出現するだろう。僕のニューヨーク生まれの妖怪がその折のルーツになったらうれしい。そう思って妖怪を創ってみた。

 僕が最初に妖怪を描き始めたのは前述したように1962年、つまり24歳ごろで教師になり生活の安定を得た時だ。尾張の妖怪を描きだした少し後にはテレビで『妖怪ウォッチ』が始まり子供たちに妖怪人気が広まった。『妖怪インニューヨーク』の出版の後には『ポケモンGO』が世界を席巻した。日本の今の妖怪ブームも、ひょっとすると経済優先の政策をするアベノミクスが創り出したのかもしれない。『ゲゲゲの鬼太郎』を水木しげるが描いて当たったのは池田隼人の「所得倍増論」の後しばらくしてからだ。

 弘前の桜祭りには「お化け屋敷」の出し物が定番だと先に書いた。とすると名古屋でも桜の咲くころ「お化け屋敷」の見世物小屋を出すと当たるのかもしれない。その際、大須ういろうが妖怪花見団子や骸骨の顔をした妖怪ういろうでも出せは案外当たるのではないか。たとえ当たらなくてもほぼすべてのマスコミは面白がって取り上げる。無料でいい宣伝ができると僕には思われるのだが。

妖怪★いちご大福ついでに言うと谷中霊園の近く、日暮里駅東側にある和菓子の老舗「江戸うさぎ」では『妖怪イチゴ大福』が売られている。写真右:ちょっぴり妖怪っぽい 妖怪イチゴ大福
イチゴ=春=妖怪の図式が成立するのだろう。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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