僕にとってのアール・ブリュット 「アドルフ・ヴェルフリ展」に関して

僕にとってのアール・ブリュット 
「アドルフ・ヴェルフリ展」に関して  
於名古屋市美術館  2017年3月7日〜4月16日

アドルフ・ヴェルフリ展パンフ
 今、名古屋市美術館でアール・ブリュット(Art Brut)の原点と言われるアドルフ・ヴェルフリ(1864~1930)の回顧展が催されている。(写真右)
フランス語でBrutは「生(き)の」Artは「芸術」であり、まとめれば「生の芸術」、正規の美術教育を受けていない人が自発的に生み出した、既存の芸術のモードに影響を受けていない芸術ということだ。ビールでいえば生ビールということか。変に味を加えたり寝かしたりした細工のない味と思えばいいのか。
 「お酒を飲まない山彊さん、ビールは変に味を加えるのではなく、おいしくするための工夫をしているのですよ」。分かってますよ。終戦前まで我が家は酒問屋であって、戦時中酒の入荷が少ないと「3割までは水で薄めても酒税法違反にならない」と親父は水で割って販売していた。親父は酒問屋に養子に来たのだが全然酒が飲めず、したがって酒の味もよくわからない。酒が飲めないから養子に決まった親父は酒のみの気持ちが分からないから平気で水を加えたのだろう。無論戦時中の物資不足が大きな要因ではあったろうが。父に似て僕も酒が飲めない。

 ところでアール・ブリュットの存在を最初にはっきり意識したのは僕の30歳の折であった。当時はアール・ブリュットという名もヴェルフリも日本ではほとんど知られていなかったので、僕が意識したというのはアール・ブリュット的な作品という意味でだ。美術大学で僕らを指導してくれた教授は、そのまま写すだけの日展や抽象画が多い春陽会の画家であったため、それらが優れた絵画と教え込まれ、他の作品、例えばアール・ブリュット系の作品に出会っても当時の僕は評価しなかった。
 今の僕は草間弥生の作品もアール・ブリュットの一環として大いに評価している。でも1960年代当時は、彼女のニューヨークでの芸術行為は「頭のおかしい日本の金持ちのじゃじゃ馬娘が裸で街頭パフォーマンスをして目立っているだけ」くらいの認識しかなかった。その頃、芸術家のほとんどに読まれていた「美術手帳」誌でも僕の思考の外に出ることはなかったと思うし、スキャンダラスな扱いはすれ、芸術的価値を評価していなかったと思う。

 これらの作品を完全なるアートとして僕が認識したのは70年になってからだ。それは戦後初の講談社の世界美術全集によるところが大で、その3巻(僕の作品もこの巻に掲載されているが)にあるジャン・ デュビュッフェ(1901~1985)の作品を見てからだ。

写真下左:ジャン・ デュビュッフェ作「バラを持っての小躍り」 右:「帽子の飾り結び」
バラを持っての小躍り 帽子の飾り結び

 子供の様に描いてあるが、何か表現できない幼い頃の原点を見せられているような郷愁を含む魅力ある作品だ。ご存知のように彼がヴェルフリを称賛したアール・ブリュットの提唱者である。

 他に同じ全集の2巻に掲載されている色鉛筆画のゾンネンシュテルン(1892~1982)の作品も普通人の理解を越えたものが僕の心をとらえた。この作家は経歴もアドルフ・ヴェルフリに似ていると僕は理解したが、ものすごく魅惑的だ。

写真下左:ゾンネンシュテルン作 「シュルレアリスム的な構成」   右:「おこない」
ゾンネンシュテルン 「シュルレアリスム的な構成」 1965  おこない
 
ゾンネンシュテルン 
 青木画廊の青木氏がゾンネンシュテルンを訪ねたら、はるばる日本から来てもらったのに何も見せるものがないから、これでもと言ってズボンを脱いで下半身を見せたのは有名な話だ。(写真右)

 アール・ブリュット系の作家は自分の作品が見られることを意識せず、お金を得ようとか認められようとかせず作品を創り続ける者たちだ。だがこのゾンネンシュテルンは見る人を少なからず意識して描いているように僕には映った。誰しもこの絵には目を止めるほど魅力的だ。出版社が画集に取り上げる作品は、画集がたくさんの人に買ってもらえるように視覚的に惹きつけるものを重要視する。世界美術全集にゾンネンシュテルンが選ばれ、すでに評価されていたアドルフ・ヴェルフリが取り上げられなかったのはその違いかもしれない。それ故、ヴェルフリは我々の目に届かなかったのだろう。僕は今回初めて彼の作品を目にした。

 名古屋市美術館が、ここ最近のアール・ブリュット人気が高まる中、満を持してアドルフ・ヴェルフリを取り上げたのはなかなかだ。視覚的に分かりづらい作家だから、生の原稿や作品を見ないとそのすごさが伝わってこない。そんな作家だからこそ展示する意味は十分にあると思う。名古屋の保守性に合わせた展覧会の企画ばかりしていたら、この地はいつまでもローカル芸能から抜け出せない。だがこの視覚的に分かりづらい展覧会に保守的な名古屋人がどれだけ興味を持つか少々心配だ。

ヴェルフリ部分拡大
 さて会場に入りまず驚かされたのは、さらりと見て通り過ぎることができず、作品の前で釘づけにされる自分がいたことだ。「生きるとは何だ」「芸術とは何だ」を考えられされる。文字や数字、幾何学模様の似たような絵柄作品が延々と続く。まるで人生の迷路に踏み込んだようだ。
写真左:ヴェルフリ作品部分拡大

ヴェルフリコラージュ作品
 彼の作品にはコラージュ作品(写真右)も多く、それは1915年ころから始まっている。コラージュというと第1次世界大戦を避けて1916年チューリッヒに集まったダダの芸術家達を連想する。彼らは既成の秩序や常識を否定した運動を起こし、コラージュを主たる技法にしていた。アドルフ・ヴェルフリがダダの作家達からの影響を受けてコラージュを始めたか、ダダの絵描き達が同じ頃スイスの精神病院にいて知られ始めていたヴェルフリの影響を受けたのか気になるところだ。それとも既存の芸術を否定しようという気運が満ちてきたこの時期に偶然の一致が起こったのだろうか。1920年代半ば以降はダダの姿勢や方法論の一端はパリのシュルレアリスム・グループへと継承され、ダダとシュルレアリスムは20世紀の前衛芸術の二大潮流を形成することになる。

 アドルフ・ヴェルフリで僕がすごいと思ったのは死ぬまで作品を創り続けていたことだ。ピカソ(1881〜1973)も同様で亡くなる間際まで作品を創り続けた。僕の周辺の絵描き達は自分の作品が何の需要もなく、死んだら捨てられることを意識した途端に制作を辞めてしまう。死を忘れるために常に何かに挑戦し続けるのが人生だと考えている僕は、常々ピカソを見習いたいと思っていたが、このアドルフ・ヴェルフリ展を見てもう一度、死ぬまで制作を捨ててはいけないと再確認した次第である。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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