雪舟神話の欺瞞-その1

雪舟神話の欺瞞-その1
「本堂の柱に縛られた雪舟が、涙を使い足で本物そっくりのネズミを描いた」という逸話は誰が何のために捏造したのか?

雪舟さん紙芝居画
  雪舟画聖神話の始まりは、この上記の偽話が全ての根源であると私は思っている。写真右:総社市の図書館にある『雪舟さん』大型紙芝居画より
 実はこの話を創作し書いたのは、狩野山楽の長男である狩野永納だ。永納は父、山楽が亡くなった後、狩野派の編纂の仕事を受け継いでいる。親の山楽は秀吉の小姓であったが絵が得意だったため、秀吉の命により狩野元信の養子にさせられ、また学問も得意としたため狩野派を盛り上げる編纂本(本朝画史)作りをさせられた。彼の亡き後、息子の永納が引き付いて仕上げている。安芸(広島)の医師で歴史家の黒川道祐も手伝ったようだ。
 これは、狩野派の画業の歴史を通して日本の画人伝本を作ると言う体裁だが、結局は狩野派を日本画の頂点におき、未来永劫に栄えさせるための家系づくりだった。そこで狩野派のルーツを元信の父、狩野正信に求めるがそれでは世間を納得させるには弱く、補強する必要があった。そんな中、目に留まったのが相國寺出身の雪舟だった。その当時雪舟については、はっきりした業績はわからないものの、作品の中に作者名として「四明天童第一座・雪舟」と書かれてあるのを見て、これは使えると思ったのであろう。天童寺といえば中国にある巨大な禅寺で、京都・相國寺の親寺のようなものだ。この寺の第一座なら狩野派の元祖の肩書として申し分ない。そこで狩野永納は本朝画史の中へ狩野正信と雪舟を狩野派の創始者として書き込んだのだ。さあ何者かもはっきり分かっていない雪舟を、どうすると全ての民が驚嘆のまなざしを向け、狩野派の元祖としてふさわしい画師に見せられるのか?誰にも負けない画聖に雪舟を祭りあげれば狩野派の未来は安泰だ。

ピカソ作「科学と慈愛」
 常識的な答えだが、絵の分からない一般民衆を絵画で感動させるには、描く対象を神業的にそっくり写真のように(写実的に)、表現すればいい。要するにデッサンが正確であると言うことだ。これは昔も今も変わらない。ピカソですらこの方法を使って自分を大芸術家に見せようとしている。「本当は神業並みの本物そっくりの絵が描けるのに、わざと崩しているのですよ」。ピカソは有名になるまで常にこの手を使っていた。バルセロナにあるピカソ美術館の学芸員も上記の手を使ってピカソの天才ぶりを語る。ピカソの作品で、デッサンが正確だといわれる写実画は、彼が若い時に写真機を使い描いたものだ。(だからうまいのは当たり前である)バルセロナのピカソ美術館ではまず、その写実画を見学者に見せている。そして青の時代やピンクの時代を示し、キュービズム作品の鑑賞に入る。つまりピカソはデッサン力に長けていたけれど、新しい手法に挑戦し、デッサンを重視しなくなったのだと、説明するのである。写真上:ピカソ作「科学と慈愛」15~16歳に描く。(写真機を用いている)

 当然だが永納は雪舟にもこの手を使った。雪舟の頃にはより本物に近く描くための写真機などある筈もなく、勿論雪舟は写実画を一枚も書いていない。彼の山水画は理想の風景を象徴的にとらえているものだ。雪舟を元祖に据えるためにはよりまことしやかな偽物語を創らなければならない。雪舟はもと寺の小坊主。そこで考えた偽逸話がお寺の本堂と、どこにでもいるネズミを小道具として使うことだった。きっと永納はいろいろ考えたに違いない。「雷の夜、龍が天空を舞っていた。なんと屏風に書かれた龍がその間いなくなっていた」「早朝、雀のさえずる声がやかましく目を覚ましたら、屏風に描かれた雀が部屋の中をさえずりながら舞っていた」等々と。だがこれらは使いづらい。その屏風がどこかにある筈ではないか、となる。涙で描いた絵ならば、消えてなくなるのが当然だからその必要もない。永納は知恵者だ。その結果創られたのが、皆さんご存じのネズミ話なのだ。
「幼いころの雪舟は暇さえあれば大好きな絵ばかり描いていた。ある日修業を忘れ画を描いていたら和尚さんに見つかってしまった。そのおしおきで本堂の大きな柱に雪舟は縛り付けられた。夕方になり和尚さんが本堂を覗くと、雪舟の足もとにネズミがうろうろしていた。縛られた雪舟が噛まれでもしたら大変と和尚さんは箒で追っ払おうとする。だがネズミは逃げようとしない。よく見るとそのネズミは雪舟が縛られていない足を使い涙で描いたものだった。和尚さんは雪舟の画の才能に気付き、その後は自由に絵を描かせたという」。
これが代々伝わる雪舟話。嘘に決まっているから雪舟についての講演や本から削除すべきだが、人々を感動させやすいからこの話を使って学者達もまず話に入る。ピカソ美術館の案内人が、写真機を使ったとは言わずに「ピカソもホントはすごく絵がうまかったですよ」から始まる説明と同じ効果を狙っている。

雪舟贋作報道雪舟贋作報道読売新聞
 さてこの「本朝画史」が出版され雪舟が御用絵師である狩野派の元祖の師となると、各大名や大商人は競って雪舟画を求めだした。だが雪舟が描いていたのはその当時から100年以上前のことであり、又彼の作品はほとんど無く、需要の増大に応じて作られた偽物を買わされるはめになる。その結果、雪舟作といわれて現存する物の99パーセント以上が偽物だという。つい20年程前にも長谷川等伯の大作で、等伯の文字が消されその上に雪舟の文字が載せられている作品が見つかり、新聞等で話題になっていた。この方が高く売れるのだろう。
写真上:等伯作を消して雪舟作にした作品が見つかった事件の報道‘92年4月5日) 

 狩野永納は雪舟と狩野派との関係をさらにもっともらしく見せるため次のようなことも記している。「雪舟は宗湛の後、室町幕府の御用絵師になることを勧められるが《金殿の絵は僧の筆に適せず》と辞退し、狩野正信を推した」と言うのだ。これは明らかにつじつまが合わない。と言うのは、まず雪舟が京都にいた頃、彼は位の低い立場の坊主であり人々に知られていなかった。48歳で明へ渡り日本へ帰って来てからは筑紫や豊前(九州)で暮し、京都へは戻らなかった。もし永納が書いたように御用絵師に押される程のすごい絵師であったならば、幕府も相國寺もほっておかなかったであろう。明から帰って来たと言っても、彼の存在はやはり当時の京都では知られていなかった。その彼を永納は「四明天童第一座」(雪舟は自分で誇らしげにこの肩書を書いている)なら使えると御用絵師の最大候補に祭り上げ、狩野派の補強に使ってしまったのである。
永納が書いた偽ネズミ話の舞台となったお寺は、岡山県の総社市にある宝福寺であると言われているが、これとてはっきりしていない。

歌舞伎雪姫
 その後、江戸時代になってこのネズミ話をヒントにした歌舞伎の『雪姫』が大ヒットした。主人公の雪姫は雪舟の孫娘という設定で物語は始まる。足利氏に謀反を起こした松永大膳に将軍の母や雪姫が捕まり桜の散る木に縛り付けられる。雪姫は縛られたまま、足で桜の花びらを集め、それでネズミの絵を描いた。するとその絵は生きたネズミに変身し、雪姫を助けるべく縛られた縄を食いちぎってしまうというものだ。これは金閣寺の場面で登場し、歌舞伎の名場面として知られる。この場面は雪舟のネズミ絵が下敷きにあったから成功したと言える。これによって雪舟の名は江戸中に知れわたり、彼は押しも押されぬ大画聖となっていったのである。

写真上:歌舞伎、雪姫の金閣寺舞台。桜の花びらでネズミを描く。

スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR