ゴッホ、ゴーギャンの真実

ゴッホ、ゴーギャンを裏から見る

ゴッホとゴーギャン展
 現在名古屋市ではゴッホとゴーギャン展が開催されている。二人の友情に焦点を当てた様なキャッチコピーが目につくが真実はどうだったのか。30年以上にわたって調べた資料の中から二人に関する面白い裏話などをまとめてみた。講義のために作ったものなので箇条書きだが、ブログでもちょっと紹介させていただきたい。

<ゴッホ>
・1869年、16歳のゴッホは親類の紹介でパリの美術商グーピル商会のハーグ支店に就職する。その後ロンドン支店に。この折、弟テオに出した手紙―—「テオよ、この店はハーグより面白くないが、ここにいるのは僕にはいいことだ。そのうちに絵画の販売がさらに重要になって、接客がうまくなれば、僕も少しは役に立つようになってくるだろう。近頃店にはたくさんの油絵や素描があり、売る方もたくさんさばいたがまだ十分でない。絵はもっとたくさん永久的に売れる様にならなければだめだ。イギリスではまだ大いにやるべきことがある。」

写真下左:牧師をしていたゴッホの父  右:父が牧師を務めた司祭舘、これに付随する家でゴッホは生まれた
ゴッホの父 父の牧師館

・ゴッホはこのグーピル商会を1876年首になるが、その後グービル商会のオーナーに200〜300通の手紙を出している。内容は自分の絵を買ってほしいといった類のものだが、グーピル商会オーナーの息子のその後の証言では、親はほとんど読まずにストーブで燃やしてしまったとのことだ。オーナーの娘が亡くなった折にはお悔やみの文とあの『跳ね橋』の作品をお悔やみで送っていた。

テオ・1880年ブリュッセルにいたゴッホからテオへの手紙――「テオよ。父から今後は当分1か月60フランまで送ると言ってきた。ここの生活費はそれより少しかさむが仕方がない。絵の材料費や解剖学の研究で相当費用がかかる。これ以外に成功する見込みはない。いろんな衣装を調えていこう。その衣装をつけたモデルを描くのが楽しみだ。これが成功への唯一の道なのだ。」
写真右:弟テオ
・1885年11月、テオに出した手紙――「テオよ、僕はここでたくさんの写真を見た。写真屋にはその写真を見て描いたらしい肖像画作品もあった。だがどれも月並みな目と鼻を持ち蝋細工のように冷たい。どれも皆、生命が感じられない。本当に描かれた肖像画は芸術家の魂から出てくるものだ。この町には美しい女がたくさんいる。これらの女を描けば金が儲かるような気がする。」
・ゴッホのアルル滞在は、1年2か月しかない。このわずかな期間に油絵だけでも190点完成させている。(この折「タンギー爺さん」等の作品数点と油絵具の交換をやっていた。)
・ある画商は「ゴッホは金と出世の権化となり混乱した芸術家となっていく」と言った。

ゴッホの入った精神病院
・この後有名な耳切り事件を経てゴーギャンはアルルを去り、ゴッホは精神病院に入った後自殺する。
写真左:ゴッホの入った精神病院
・ゴッホの死は弟テオに無限の悲しみを与えた。全身全霊を傾けて支援してきた兄を失い、人生の目標を無くしてしまったかのようだ。兄の葬儀場で卒倒して以来、健康に優れずオランダに帰国後、妻と子供を残して半年で狂い死にをしてしまった。
・死後11年、ゴッホの回顧展が催され有名になっていく。そうするとゴッホの生家や教会の倉庫や廃品業者に売られていったデッサン等探す大ブームが始まった。
・ゴッホが死んだ時、テオの部屋にはゴッホの遺作がいっぱいあった。有名になり出したゴッホの絵に画商が目を付けた。作品の数が膨大だからヒットすれば大儲けできる。

※ここで言えることはどんなにうまい画家であっても作品の量がなければ近代以後の歴史には残れないということだ。ゴッホ作品は彼が生きている間ほとんど売れなかったのに現在は全て数億の値がついて売れる。
※私が名古屋芸術大学で教えていた時、東京芸大出身の同僚にこんなことを言われた。「山田先生は学生たちに『コンクールで賞を狙え、有名になれ、お金を稼ぐすべを身につけろ』と言っているけれどゴッホを見てごらん。有名になろうとか、売れる絵を描こうとか、お金を稼ごうとか言ったことなど全く考えず黙々と作品創りをしていた。しかし彼は有名になった。ゴッホを見習うべきだ」と。僕は美術教師である彼がゴッホの人生についてあまりに何も知らないことに驚いた。ゴッホは自分を売り出すべく、手紙を書きまくり、自分を売り込み(テオもそれに大いに協力する)絵を描きまくった。しかし生前は目が出なかった。彼のある意味頑固な性格が災いしたとは思うが、それでも画家として認められ、有名になって絵が売れる様に弟テオと全力を注いで努力したしていたことは間違いない。


<ゴーギャン>
ゴーギャンの家族
写真右:ゴーギャンの妻と5人の子供たち
―ゴーギャンから妻メットへの手紙―
「君が僕に証券所に帰ってほしいと願っていることは知っている。最近の君の沈黙は異常です。」
妻からゴーギャンのもとには1か月の間、1通の手紙も来なかった。・・38歳頃。
「僕の画家としての評価は日に日に高まっている。それなのに3食も食べられない日が続く。だからパナマに行くのです。」
「出発する前に一度でいいから君と寝たい。まだ君を愛している愚かな男。2~3行でいいから手紙をください。」
「君に接吻を送ります。我々を別れさせた君の憎むべき性格を思い出すとき、私は君を憎まないわけにはいきません。」
「奇妙なことだが君の手紙にはいつも私の手紙の内容に関する文が欠けている。私の手紙を読んでないか飛び読みをしているのではないか。」
「愛するメットへ。船便が何回か着たが君からの便りはありませんでした。何も言ってこないのは君の愛情がないんだね。どんなに忙しくても30分もあれば書けるはずだが。君に書く気がないんだね。」

ポン=タヴァンの家
写真:1886年パリからブルターニュ地方のポン・タヴァンに移って住んだ家
―妻についてのゴーギャンの言葉―
「私は人民のもう一人の敵(妻)を知っている。その妻は夫に従わなかったが、父を知らぬ子どもたちを立派に育て上げた。その父(ゴーギャン)はオオカミの住む地にあって「お父さんと呼ぶ声が聞きたかった。だが一度も聞いたことが無かった。私が死んで遺産が入れば、きっと現れるであろう。もう愚痴はよそう」
「私は芯からデンマーク(妻の出身国)が嫌いだ。その気候も国民性も・・」

―ゴーギャンの日記から(ゴッホとアルルにて)―
「我々はカフェに出かけた。彼はアブサンを少しひっかけた。その時突然、彼は僕にそのコップを投げつけた。僕はさっと身をかわし彼を抱き止めた。その後広場を通り過ぎたと思った瞬間、僕が振り返ると髭剃り刀を持ったゴッホが僕にとびかかってきた。その後ゴッホは家に帰ってから自分の耳を根から切り落とし封筒に入れ、「これ僕の形見だよ」と言って、なじみの娼婦に渡していた。」
・ゴーギャンは、「私がゴッホと居てよかったのは自分より不幸な人間が身近にいるという安心感があったことだ」と言っている。

※最近はゴーギャンがゴッホとアルルで共同生活を始めたのはテオの支援を当てにしたためとはっきり言われている。

―画商からタヒチにいるゴーギャンへの手紙―
「あなたはタヒチから帰ってきてはいけない。あなたは偉大なる死者の特権を与えられているのです。今では歴史上の人物です。」 
・これに対するゴーギャンの言葉が残っている。「私の帰国をなぜ嫌がるのだ。私はパリを通り過ぎるだけでスペインに行きそこで数年生活したいだけだ。私の視力もおかしくなった。見えるうちにヨーロッパに帰りたい。」
だが画商はそれを許さなかった。パリから遠く離れた異国の地にいるから人々が作品に興味を示すのであって、帰国したらただの絵描きになり作品は売れなくなる。そう考えて画商は帰りの船賃を送らなかった。

※1906年にピカソの『アビニヨンの娘たち』が出るまでゴーギャンの技法はナビ派と言われその時代をリードした。画商にとってはゴーギャンがタヒチに留まる方がよかった。日本の荻巣高徳も似ていて、芸術の都パリ在住の画家ということで評価が上がった。逆にパリ時代は有名だった菅井汲は帰国したら騒がれなくなった。

―タヒチで暮らすゴーギャンから友達への手紙―
「毎晩のように不良娘たちが私の寝室に侵入してくる。昨夜はそのうち3人で用を済ませた。こんなでたらめな生活はやめて、一人の真面目な女を置いて仕事をしたい。この前の女は僕が帰国している間に再婚してしまった。ダンナから奪い返したが8日目に逃げ出してしまった。」
・1891年(43歳)でタヒチに移ったゴーギャンは、13歳のテフラを妻とする。その後も多くの女性と関係を持ち、生まれた子供も何人いたか定かでない。そのうちの一人の男子が成長してデブになり、毎日樹の下で酒を飲んで訪れる観光客に自分はゴーギャンの息子だと言って写真を撮らせお金を得ていたという有名な話も残っている。

―タヒチでのゴーギャンの言葉―
「おそらく私の姓を名乗っている4人の家族以外にも,同じ姓を名乗る女や子供が出るだろう。ゴーギャンは酋長であったからたくさんの妻や子供がいたと言って。お笑いだ。」
「希望を持つことは生きることだ」この言葉をゴーギャンは自分に言い聞かせたと言われている。
「土民たちがどうして何時間何日も、一言も言わず悲しげに空を見上げられるのか理解に苦しむ」

ゴーギャンの墓・1893年パリに帰国し、展覧会を開いたり、売り込みをし、ある程度絵も売れたが、ゴーギャンに対する批判もあり孤立し再び彼はタヒチへ戻る。その後梅毒に罹り、モルヒネを常に打たなければならなくなる。55歳で亡くなる少し前、大量のヒ素を飲んで自殺を図ったが、あまりにたくさん口にほおり込んだため、吐き出してしまい助かった。

「人生とはわずか一瞬の一コマにすぎない。それほどわずかの間に永遠の用意をしなければならないとは?私はむしろ豚であればいいと思う。人間だけがおかしくなるのだ。私の人生は芝居であった。」
写真右:ポリネシア、ビバオア島にあるゴーギャンの墓

―その他―
・ゴーギャンの別れた妻がクリスマスにコペンハーゲンで開かれるコンクールにこっそりゴーギャンの作品を出したが落選してしまった。

※これは日本でもいえる。日本の全美術館にコレクションされている荒川や河原温の作品を公募展や名古屋のコンクールに出しても名前が伏せられていたら落ちるであろう。藤田嗣治の1億円する作品を日展に出しても落ちるであろう。彼らには個性、独創性の意味が分からない。

・タヒチには女装をした男(レイレイ)が多い。ここは女系社会で家を継ぐのは女だから、男しか生まれなかった場合、家系を絶やさないために末の男の子を女として育てるからだ。

※僕がタヒチに一人旅をした時、当地の市場の入り口に数千円で入れてもらえる入れ墨屋があった。入れるかどうか迷っていた時に、レイレイの数人を見た。タヒチには蛇等、どう猛な生き物はいない。だから女社会になったとも言われている。
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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