クラーナハ展(国立西洋美術館)を見て

クラーナハ展(於国立西洋美術館)を見て
2016年10月15日〜2017年1月15日

上野駅のカフェテラスから
 クラーナハ(1472~1553)に興味があったので、東京の国立西洋美術館まで見に行った。上野駅を降りて公園周辺のラーメン屋やカレー店で腹を満たし美術館に向かうというのが、僕のかつての定番だったが、昨今は駅構内のラウンジでガラス越しに通り過ぎる人々を目で追いながら、コーヒーとサンドイッチで済ましている。東京で雑踏を眺めていると、若き日々とあの頃の葛藤を思い出してノスタルジックな気分になる。
写真右上:上野駅構内のカフェテラスからの風景。クリスマスツリーが飾られていた。

 国立西洋美術館は先ごろ世界遺産に登録されていて、改めて建物を見るとなかなか面白かった。これまで何とも思わなかったのが、そういえばすごいよなと思えるのだった。世の中、お墨付きをもらうことが重要かもしれない。世界遺産の価値があるというと皆が注目して、よりしっかり見るようになる。あのボブ・ディランも結局はノーベル賞を拒否しなかった。拒否したとしてもノーベル賞というお墨付きで多くの人が彼の歌詞をもう一度しっかり読み返したはずだ。

クラーナハ展パンフ
 ところで今回のクラーナハ展(写真左:パンフ)は世界10ヵ国以上から集めたクラーナハ作品が見られる日本初のクラーナハ大回顧展ということだ。僕はこれまで彼の作品を写真で数点しか見ておらず、何故たくさん見られないか気になっていた。それになんとも表現しにくい不思議な映像が頭にこびりついて、すごく興味をそそられる作品であることも気になる要因だった。
 
ヴィーナス(1532年)
 代表的な裸婦作品の「ヴィーナス(1532年)」(写真:右)など胸から腰にかけて異様に細く、ある意味で異常な作品だ。デッサンが未熟だったと言えばそれまでだが、写実的な表現を求められたルネッサンスの時代にあの作品は不思議だ。しかも彼は大きな工房を持ち、たくさんの弟子がいたからデッサン力が未熟だったとは信じられない。他の作家と違ってこういった作品を描く狙いが他にあったとも考えられる。男の性(さが)を頭にいれ、売るためにわざとあのような表現にしたのではないか。とすると日本の春画に似ているともいえる。もちろん巨大なペニスやバギナを描いた浮世絵ほど大胆で直接的ではないが、少しだけ淫靡なところがおもしろい。

写真下:正義の寓意(1537年)
正義の寓意(1537年)
 ルネッサンス時代は裸婦像が解放されていたとはいえ、神話や聖書に関するものに限られており、ポルノ本のように性欲をそそる裸を描くのではなく、自然で優美、理想的な身体を写実的に表現しているのが常であった。ルネッサンスの裸婦作品は陰毛表現がなくあの部分はパイパン状態であった。ところが写真でみるクラーナハの裸婦は陰毛があるように見えてしょうがなかった。このあたりにも僕は興味を持ちわざわざ上野まで足を運んだとも思える。目を皿のようにして、近くで確認したが黒くぼかしてあるが陰毛は確認できなかった。
 「山彊先生!そのために東京まで行ったんですか」「陰毛が描いてあるかどうかは美術の歴史にとって大きなこと。1,2本でも描いてあれば超卑猥になるし社会の通例への挑戦でもあり、それによって画家の評価がまた変わるからね。」陰毛のある実在の女性の裸婦が初めて描かれたのは(一般的に言われているのは)、ゴヤの「裸のマハ(1797年)」で当時大問題になり裁判沙汰になった。その結果100年間プラド美術館の地下にしまわれる破目になったのは有名な話だ。
 僕が思うにクラーナハは世の動きに挑戦する気はなく、男心を研究しわざとぼかして売れるような作品にしたのではないか。工房を作って大量の作品を世に送り出しているという。とするとそれらの大量の作品がもっと我々の目に入っていいはずだ。今残る作品数が少ないとするならば、卑猥で嫌らしいと人々が理解して、エロ雑誌が各家庭で早く処分されるように、歴史から追いやられてしまったのかもしれない。

 彼と同じ時代にはティツィアーノとかジョルジョーネ、同じ北欧ルネッサンスにはクラーナハが気にしていた1歳年上のデュラーもいたが全て正統派であり写実的であった。
写真下左:ティツィアーノ ウルビーノのヴィーナス(1538年) 右:ジョルジョーネ、眠れるヴィーナス(1510-1511年頃)
ティツィアーノ ウルビーノのヴィーナス(1538年)  ジョルジョーネ、眠れるヴィーナス(1510-1511年頃)
写真下:デューラー アダムとイブ(1507年)
デューラー アダムとイブ(1507年)
 クラーナハの作品は浮世絵でいうとあぶな絵(一般の美人画と春画との中間的な絵)と同じ効果を狙ったのではないか。まあ浮世絵がクラーナハの絵と大きく違うのは、浮世絵は庶民を狙い、クラーナハは金持ち相手の作品だったことだろう。

 僕は正統派の絵よりクラーナハの作品により面白さ楽しさを感じる。次の時代を作品から勝手に感じてしまう。会場を歩きながらふと、伊藤若冲を思い出した。狩野派や土佐派等から無視されていた若冲。同じく遠近法を使うルネッサンスアートからはじき出されたようなクラーナハ。このあたりも僕が確認したい課題だった。

森村泰昌
 国立美術館の展示もそれを意識してかピカソの作品を並べたり、中国、深圳の近郊にある似絵づくりの作家たち50人に同じクラーナハの作品を模写させて出したり、ご存知有名作品に自分をはめ込む森村泰昌のコラージュ作品(写真右)を展示したりして、クラーナハと関係のある現代美術の作品が展示してあるのも、その辺りを狙ってのことだろうか。

 美術館の帰りは若き日、夢を追いかけた銀座の画廊街を回ってみた。僕が50年ほど前毎年のように個展をしていた村松画廊、サトウ画廊、夢土画廊等はすでになく、知らない画廊ばかりであった。当時銀座の画廊には美術評論家やマスコミ関係者、美術雑誌記者などが頻繁に訪れており、彼らの目に留まり、新聞雑誌に取り上げてもらえればそれで一躍有名になれるという時代だった。友達がよく個展をやっていたシロタ画廊や樟画廊が現在も健在だったのがうれしかった。いま発表している作家たちは東北や北陸方面の人が多かったのにも納得した。彼らは終焉を向かえたといわれる現代美術にまだ白けていないのだ。
 
80歳の女性画家
 シロタ画廊では80歳前後の夫人(写真左)がアブストラクトの大きな作品を描いて個展をしていた。もし彼女がしわのない20代のような顔をしていたら、周りの雰囲気から僕は60年前にタイムスリップしたように感じたに相違ない。彼女はその若い日に思いをはせて個展を開いているのだろう。今では美術評論家は半ば死語となり、訪れる人もほとんどいない会場で、よく頑張っていると僕は感心した。彼女はまた公募展である自由美術協会の会員だとか。「自由美術協会なら当時の審査長の井上長三郎(美術界の当時の大御所)を知ってみえるよね」と声をかけたら、彼女の顔色がバラ色に変わって、当時の美術界のことに関する話が始まった。僕も相槌を打ちながら、若き日を思い出していた。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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