グルジアの映画『ミカンの丘』を見て

グルジアの映画『みかんの丘』を見て

ミカンの丘パンフ
 グルジア(現ジョージア)の映画『みかんの丘』(写真右パンフ)を見て来た。僕は十数年前ここジョージア、(当時はグルジアと呼んでいた)に旅している。世界中の賞をたくさんとっている評判の映画である。でも日本では宣伝もなくあまり知られていない。そんなマイナーな映画を知ったのは映画の宣伝をしている会社が連絡をしてくれたことによる。なんでもパソコンでアブハジアを検索したら僕の名前や朝日新聞に書いた原稿がヒットしたという。凄い世の中になったものだ。一瞬で見知らぬ人の過去まで分かってしまう。記憶力なんてものも必要ない。パソコンやスマホが覚えていてくれる。

難民の住居となった高級ホテル
 さてここグルジア(僕にとってはこの名前の方が懐かしいのでこの名で言わせてもらう)への僕の一人旅もいつも通り大変ハードなもので、今度こそもうだめだと何度も身の危険を感じた旅だった。日本の旅行雑誌で紹介されているトビリシ(グルジアの首都)の大ホテルに泊まろうと思って行ったら、1階ロビーはガラスが割られて砂や石が散乱し、目つきの悪そうな男が数人こちらをうかがっていた。後から知ったが、このホテルはアブハジアから逃れてきた難民の宿舎になっていたのだ。他のホテルも同様だった。国にお金がなく大ホテルを難民に開放するしか方法がなかったのだろう。
写真左上:首都トビリシにある高級ホテル、難民の住居となり洗濯物が翻っている

朝日新聞の記事 毎日新聞記事
写真上左:僕の書いた朝日新聞の記事(1999.1.30朝刊)
右:毎日新聞1999.2.3朝刊


 またある時は電燈一つない暗闇の中、誰もいない地下鉄の入り口で、銃を持った軍人の二人に「アゼルバイジャン人か。どこへ行く?」と怒鳴られ、銃を突き付けられた。夜中の12時におかしな風体で一人うろつく外国人をスパイとでも思ったのであろう。深夜の行動になったのは観光地に出かけたがホテルが見つからず、首都の僕の泊まっているキチン宿に帰らざるを得なかったことによる。英語で喋ってくれというつもりで「イングリッシュ」といったら、イギリス人と思われて難を逃れた。また郊外では4,5人の軍人に捕まり地下2階に連れ込まれ、ズボンやシャツを脱がされたこともあった。僕は常に現ナマは最小限にしていたから、やられなかったと思う。日本円札は見ても手を出さなかった。これはアフリカ等、他の国でも同様だった。逆にタクシー運転手と話が弾み、少しの謝礼で彼の家に留めてもらったという親切な思い出もある。

写真下左:一泊させてもらったグルジア人のタクシー運転手の家族と一緒に、後列中央が僕
右:ギターを弾いてくれた運転手の娘

タクシー運転手の家族と一緒に ギターを弾く運転手の娘

 10日間の滞在の中で、グルジアの中ではより風光明媚で長寿者が多いといわれるアブハジア(僕はそもそもグルジアに長寿の調査に行ったのだ)に行こうとしたが、列車は終点アブハジアへは行かず途中の駅までしか行かなかった。僕はこの時は知らなかったが、このアブハジアは数年前に内戦が起きグルジア人がロシア系住民に追い出されてアブハジア共和国となっていたのだ。そこを追い出されたグルジア人に国は高級ホテルを全て開放し使わせているのだった。僕は旅の間、トビリシのビルの壁に今も残るロシア軍の打ったという弾丸跡や難民の現状を見たりしてグルジア人にすごく同情していた。最後の滞在になったのは前述のタクシー運転手の家だが、彼が僕の長寿研究のために紹介してくれた近所の老人に、僕はその時着ていた服以外は全てあげてしまった。また腕時計も飛行機に乗ってしまえば必要ないから泊めてくれた運転手にあげてきた。
 
みかんの木の下で語らう老人
 だが帰国後調べたら、この国、実はその前にエストニア人がいてそれをグルジア人が追いだしていたのだった。その三つ巴戦をベースにして映画『ミカンの丘』は作られている。グルジアとアブハジア間に紛争が勃発したが、多くの村人が避難する中、この地にとどまってこっそり山の中でミカンを栽培しながら暮らしていた二人のエストニアの老人がいた。
写真右:みかんの木の下で語らう老人

老人の家の前に止まるジープ写真左:老人の家の前に止まるジープ
 ある日彼らの家の前で戦いが始まり、重傷になり打ち捨てられたグルジア人兵士と、それに敵対するロシアに雇われたチェチェン人の傭兵の二人を偶然助けることになる。最初二人の兵士は敵同士なので憎しみ合うが、一緒に暮らすうち友情が生まれる。最後は捜索に来たロシア軍が味方であるはずのチェチェン人傭兵を殺そうとする。ロシア語が話せないため敵と思ったのだ。それを見た病気あがりのグルジア兵が彼を助けようとして銃の打ち合いになり、結局、老人の一人とグルジア兵、ロシア人兵士全員が死に、チェチェン人傭兵と老人の二人だけが生き残るというストーリーだ。友情と戦争をテーマにしたいい作品だった。

 このような紛争国に僕は何も知らずによく行ったものだと後から驚いている。だが僕がグルジアに行く直前まで日本ではこういった情報は全くなかった。さらに当時の日本の旅行案内書によると、グルジアからからチェチェンにバスで行くことができるとも書いてあった。だから僕はトビリシのバス停でチェチェン行きのバスを探した。どこにもチェチェン行きという文字を見つけられず、やむなくタクシーの運転手にチェチェンに連れて行ってくれと頼んだら笑われてしまった。その時は何故笑われたのか分からなかった。今は誰でも知っているが、過激派の巣窟になり身代金目当ての誘拐もたびたび起きている場所だったからだ。当時グルジアは日本ではあまり知られておらず、旅行する人もほとんどいなかったので観光案内書はほとんどなく、紛争が起こっているという実情を知っている出版社は先行きが分からないので、新しい観光案内書を出すこともできなかったのだろう。もちろん買う人もいないから出版しても無駄だと考えたのだろう。

 僕は映画を見ながら記憶の中のグルジアを思い出し、そうだったのかとすべてが納得のいくのを感じていた。戦争の悲惨さ、不条理さ、その中にありながらも生まれた友情、人の愛を映画は表現していた。大自然、その中で生きる人間の営み、そして人間そのものまですべてを破壊してゆく戦争とは何なのかを問ういい映画だった。

礼拝の後キリスト教会から帰る人々
 ところで僕のここへの旅行目的は先にも書いたように、長寿の研究のためだが、ここコーカサスの国グルジアは以前世界三大長寿郷の一つと称され、老後の研究もしている僕としては行かなければならない場所だったのだ。(他の二つの長寿郷、南米エクアドルのビルカバンバ、パキスタンのフンザ王国はすでに旅行済みだった)
 トビリシにあった老人ホームを訪れたくさんの人にインタビューをしたことも思い出す。その食堂では半ば腐りかかったみかんの山があったことも思い出した。グルジアは黒海に面した温暖な気候でみかんの栽培も盛んで、老人ホームには売れ残ったものが持ち込まれているようであった。老人ホームの玄関ではたばこ等のちょっとした日用品も売られ元気のいい老人が店員をやっていた。老人には社会とつながる仕事もやらせるべきだとも思った。これは日本のホームでも参考になるではと思う。
写真右上:キリスト教の教会から礼拝を済ませて帰る人

 かつては温暖で風光明媚なヨーロッパの保養地として栄えたこの国は今どうなっているのだろう、僕が訪れたころよりよくなっているだろうか?映画を見ながら僕は思いを巡らせていた。



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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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