藤田嗣治展始まる

藤田嗣治展始まる
藤田嗣治、伊藤若冲、具体美術に共通するもの

藤田嗣治展パンフ
 藤田嗣治展が4月29日より名古屋市美術館で始まった。写真右:藤田嗣治展パンフ
美術館へ行くと藤田嗣治そっくりに変装したおかっぱ頭に丸眼鏡をかけた美術館員が出迎え、案内してくれる。写真をとってもいいですよと大サービスだ。日頃はお固い美術館のこの変わりように僕はびっくりした。

写真下:藤田に扮した美術館員と
藤田に扮した美術館員と
 こののりで藤田嗣治展を見ると、藤田の作品と彼の生き様を新しい視点で理解させてくれるのでなかなか楽しい。展示方法も時代を追ってうまくなされている。因襲に縛られた日本の伝統や決まりから解放されて、パリで独自の画法を生み出した藤田が1919年頃から認められ、エコールドパリの一員として華々しく活躍していく姿が再確認できる。

 藤田は何故パリで評価され世界の美術史上に残ったのか。当時パリ帰りの日本人画家はパリ帰りと言うだけで箔が付き、日本へ帰れば美術大学の教授職が待ち受けていた。そのため彼らのほとんどはパリで(当時芸術の中心はパリだったから言い換えれば世界で)、名を上げようとする努力をしなかった。箔を付けるためだけのパリ留学だったのである。一方ヨーロッパの各地からパリへやってきた画家たちは、日本のように有名美術大学を出て文展等の大きな組織に入ることが目的ではなく、美術界で一旗揚げることを目的にしていた。そのためには創造的なこと、人のやらないことをやらなければ認められない。そのことを理解していた藤田は、ヨーロッパでは知られていない、日本人だからできる技法を使って絵を描くことに挑戦していった。

藤田作裸婦写真右:面相筆で描かれた乳白色の裸婦
 藤田の絵の特徴である『乳白色の肌』の秘密について、近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表された。タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上する。

 乳白色の下地と面相筆、藤田はこれでもってパリ美術界の寵児になったと言ってもいい。この材料、藤田が深く考えて編み出したように思われるが要は身の周りにあるもので試行錯誤を繰り返しながら作りだしたのではないか。僕も絵面に味や個性を出すために食用寒天や工藝で使う砥の粉などを塗ったものだ。
 デッサン力のうまさも彼が認められた要因かと思う人が多いが、そうではなさそうだ。人が言うほど彼はデッサンがうまくはない。例えば彼の絵によく登場する猫の表情や人の腕の描き方はコピーを取ったようによく似ている。
写真下左:自画像 右:猫のいる自画像 ともに全く同じポーズの猫が描かれている
藤田の猫といる自画像作品 藤田の猫作品

 彼はきっと、最初に描いた原画を現代のコピーやプロジェクターのような方法を用いて写し取っていたのではと思われる。そういったことはあのアングルやクールベたちもすでにやっていた。勿論このことによって作品のレベルが落ちるとは僕は全然思っていない。
写真下:すべて同じように写真を使ったと思われるアングルの作品「トルコ風呂」
アングル作トルコ風呂

 藤田は日本に返った折、具体美術を大阪で立ち上げた知り合いの吉原治良に会い「人のやらないことをやれ!」と吉原にアドバイスしている。藤田からのアドバイス「人のやらないことをやれ!」の号令のもと吉原が集めた具体美術集団は日本の美術界を変え、白髪一雄や元永定正らのヒーローを産むことになった。 白髪は足を筆代わりにして作品を描き、数か月前ヨーロッパのオークションでは作品が数億円で売れたというし、絵具をキャンバスに乗せてからキャンバスを立てて垂らした元永の作品も高い値段が付くようになってきている。このような現象も、もとはと言えば藤田が元祖だと言える。

写真下左:足を使って描いた白髪一雄作品 写真下右:絵具をたらした元永定正作品
白髪一雄作品 元永定正作品






 藤田も具体の者たちも一時期日展、二科展といったような団体に属していたが、彼らの独創性や個を重んじる主張は、他の会員と相いれず、そんなわけで二科展では岡本太郎や吉原治郎、山口長男たちと自由で審査のない9室会を作って発表していた。

伊藤若冲作品
 そう思って近頃盛んに取り上げられている江戸時代の画家伊藤若冲(写真右:伊藤若冲作品)を見ていると、藤田や具体集団との共通性が見られる。彼も狩野派とか大和絵派とかに属さず、単独で、自分しか描けない作品を描いている。これまで評価されず最近になって彼がやっと評価されたのは流派に属していなかったからでもあろう。彼の作品の多くがアメリカにあるのも我が国の芸術の保守性を示している。これまでの日本美術界は歌舞伎や文楽、茶華道等に見られるようにと何々流の家元制のようなシステムで動いていた。遅れている日本は今でも人間国宝に選ばれるのはこの系列の人だ。

 「藤田が戦争画を描いたのをどう思いますか?」と質問されたことがある。それについては僕も藤田同様、彼の立場なら同じことをしているかもしれないと思う。彼は連合国側のフランスからの帰国者だから、きっと軍部から嫌疑をかけられていたであろう。戦争画を描くことを承諾しなかったら当時配給制だった絵具はもらえないし、家族への嫌がらせもあったのではないか。やむなく彼は戦争画を受けたと思う。だが軍部が望む作風にせず、ぎりぎりの線で妥協した作品にしている。
 この気持ちも僕にはよくわかる。後輩の絵描き達が出品したごみ作品が裁判になり、彼らを応援したがため周囲の者たちからの攻撃を受け、耐えられず権力を持っている絵描きの誘いに僕も乗ってしまったことがある。罵倒も僕だけなら辛抱出来るが家族にもいろんな制裁を加えるから負けざるを得ない。現在はこの僕のマイナス面が逆に若い美術評論家から「これがあるから山田はすごいのだ」と評価される様になり歴史のおもしろさを知らされている昨今だ。少し前に有名なある美術関係者N氏がごみ事件に自分が関係していたとありえない嘘を言い、さらにごみ作品の芸術性を述べ始めたのを見て、僕はあっけに取られてしまった。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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