化野念仏寺と失恋

化野念仏寺と失恋

化野念仏寺
 僕のところへは学生達がよく身の上相談にやって来る。そんな時失恋した子には「京都嵯峨野の化野へ行くといいよ」と助言することが多い。
写真右:化野念仏寺
ここ化野には野ざらしになったような多数の石仏が打ち捨てられ、生も死も超越した無常感が漂っている。そんな情景の中に立つと、人生の様々な営みの全てが漂白され、ある意味で諦めさせてくれるような気がし、死にも匹敵すると思っていた失恋がちっぽけで大したことではないと悟らせてくれる。

1965年頃の渡月橋
 実は僕は55年前、失恋した折、渡月橋を通ってここへ始めてやってきている。写真左:当時僕が撮った写真(1965年頃)
何故ここへ来たのかは漠然としているが、化野(あだし=仏教用語で儚い、虚しい)という文字を雑誌か何かで見て引き付けられたことと、そこに数千の無縁仏が野ざらしになっていることを知って行ってみようと思ったように記憶している。ここへ行けば化け物がいて死の恐怖で失恋のショックなど吹き飛んでしまうのではないかと思ったかもしれない。失恋した者はなぜか京都に来たがると聞くが、僕の場合、化野が偶然京都にあったから京都に来てしまったにすぎない。

化野石仏群 化野念仏寺は811年、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。鎌倉、室町時代には飢饉や動乱で亡くなる人が多く、亡くなっても埋葬する者もいなくてそのまま放置され(風葬と呼ぶらしいが)ていたという。ここにある石仏はそれを後の人が憐れんで供養のため簡単に人体状に彫った石を遺体の脇にでも置いたものだろう。境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものだそうだ。
写真左上:化野念仏寺の石仏群

表情のある石仏
 とは言っても僕が訪れた当時の化野念仏寺は薄汚れた侘しい寺で、囲いもない茫茫とした境内の野原に無数の石仏が転がっているだけであった。その殺伐とした情景が僕に強烈なインパクトを与えた。僕はここで、苦痛の内に死んでいった無縁仏たちのそれぞれの叫びを聞いたような気がした。そう思って石仏を見るとすべてに喋りたいような表情があるように感じられた。写真右上:表情を持った石仏
僕の失恋をはるかに超える大きな苦悩、人間として生きることの悲しみがそこに渦巻いているような空気が流れていた。
 
 この時の衝撃をもとに描いた僕の作品が、世界美術全集にも載った餓鬼草紙(妖怪群像)シリーズである。この作品群のおかげもあり、僕の作品はみなさんに知ってもらえて励ましてもらっている。化野へ訪れたことで、僕は失恋を克服し、僕の内なる感情を吐き出す作品を生み出すことができた。そんなこともあり失恋した学生たちにここを紹介しているわけだ。

良縁髭ダルマ ただ残念な?ことに、現在の化野は非常にきれいに整備されていて、転がっていた石仏は整然と並べられ、周りは紅葉時期には美しく彩られた木々に囲まれる。若い女性ならば小さな石仏を見て「かわいい!」なんて声をあげそうだ。無常感は感じないかもしれないし、失恋も回復しないかもしれない。また寺の周りにはお土産店もいっぱいあり全てが観光客向けに整備されてしまったのでかつての化野の寂寞感はどこかに行ってしまっている。
写真左上:お土産店で見つけた妖怪のようなダルマ、化野の怨念が作らせたのか?

 ところでこの化野念仏寺は京都でのベスト3の心霊スポットに入るという。この他は三条河原や京都御所の境内にあるトイレ付近だという。三条河原は石田三成や近藤勇、大泥棒の石川五右衛門がさらし首にされたところで、有名人の怨念銀座のようなところだ。御所トイレ付近は近年なって焼身自殺や首吊り自殺が続いた所だという。きっと死神妖怪が招くのだろう。このトイレのすぐ横の10台ぐらいしか置けなかった駐車場はかつて僕の京都での定宿だった。
個展の折の写真 50年ほど前、僕はほぼ毎年京都で個展をしていたがホテルに泊まるお金がなく、作品を積んできた車をこの駐車場(当時は無料)に置いて夜はここで寝ていた。すぐ隣にトイレがあるから顔を洗うにも便利だった。一般の人から見えにくく、隠れ家みたいで安心して夜も過ごせた。自殺者がここを選んだのは、僕がここを選んだのと同じ理由だったかもしれない。
写真右上:個展を見に来てくれた知人に撮ってもらった僕の写真

 今回の仲間との嵯峨野への旅はこの化野も予定に入っていて、一人で来た折の自分を思い出していた。この時に覚えた徒然草の一説「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つる習ひならば、いかにものの哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」を今でも時折思い出す。常に死が隣り合わせの世にあって、定めなき世を受け入れる無常感を表わした文である。僕は小学校の5年から死の恐怖にとらわれ、虚無感、無常感に押しつぶされそうに感じた時もあったがしばらくすると、この感情に乗っ取られたらここで僕の人生は終わる、生きようと望むならこの、あるがまま諦めて生きるという無常感に抵抗しなければと思うようになった。55年前の失恋の折も化野でその再確認をしたわけだ。そして抗戦が終わるのは定年時でも後期高齢者年齢の75歳でもなく、動けなくなる死の瞬間までだと決めていた。

 60歳になった時の同窓会で製薬会社の理事である男が挨拶で「もう人生の4分の3は終わった。もう何をしても遅すぎる。あの世に呼ばれるまでのんびり畑でも耕して野菜作りでもやるから空いている土地があったら貸してほしい」と言うのを聞いて、僕は驚いたことがある。僕は55歳で仕事を辞め再出発した最中だった。77歳になった今、同窓会に行くとほぼ全ての者が彼の言葉と同じ行動をしている。現役を退き時間があるのでたくさんの者が同窓会に来るようになったが、ほとんどひまつぶしの者ばかりだ。これは僕には信じられない。残り少ない人生だからこそペースを速め、やるべきことをたくさんするべきだ。

レディダダ制作中の僕
 僕など来年はニューヨークで個展をするし、展示してある作品の中の「レディダダ妖怪」作品はどうにかしてレディガガの何か(ハンカチや下着等)と交換でもできたらと目論んでいる。こうなれば世間の話題をさらいアメリカの美術の歴史の1ページに残るかもしれないと、虎視眈々と狙っている。
写真左:今、描き始めているニューヨークの妖怪レディダダ。どう直すとレディガガに喜んでもらえるか皆さん教えて下さい。
ガガがダメでも作品の1点でもニューヨークの人達に妖怪の1匹として語られる存在になれば、まあいうことはない。再来年はロシアのエルミタージュ美術館での展覧会をもうすでに企画している。無常感に打ち勝つためには常に刺激的な目標を立てて動くしかないと思っている。




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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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