晩秋の嵯峨野散歩から 「美しい景色は写真に任せよ」

晩秋の嵯峨野散歩から
「美しい景色は写真に任せよ」

紅葉の美しい嵯峨野風景
 12月に入ってすぐ風景画の仲間たちと京都嵯峨野に出かけた。
写真右:紅葉の美しい嵯峨野風景
 渡月橋でバスを降り化野念仏寺まで歩き、清凉寺内で豆腐料理を食べ、祇王寺から滝口寺、二尊院、落柿舎と続くコースで最後は竹林のトンネルを歩くのだ。銀杏や楓が冴え、落ちそうな柿の実が風情を醸していた。この風情ある美しい景色をスケッチブックに収めようとたくさんの日曜画家が道端で筆を運ばせていた。僕らも風景を描くメンバーだが、それを尻目にカメラに気にいった風景をおさめるだけで通り過ぎていった。

清凉寺写真左:清凉寺
 僕らのメンバーは相当絵の腕を上げ、コンクールや公募展に出す人が多い。一枚の絵をのんびり、数時間で描いて納得する日曜画家レベルではなくなっている。そんな時間を使うよりも、現代の最新カメラで被写体は映しておいて、さらに自分自身の印象なりを加えて工夫をしようと思っているのだ。みな内容のある作品作りに燃えているから後からじっくり風景を料理しようという人がほとんどだ。
写真右下:もうほとんど残っていない柿の実が晩秋を告げている

落柿舎

 絵画史的に考えるとヨーロッパの画家達が風景を見ながらじっくり絵を描いていた情景が思い浮かぶ。しかしカメラの出現後(18Ⅽ中頃)、写実的な絵はカメラがやってくれて、画家の出番がなくなる。(実際職にあぶれることを心配した画家たちは、多くが写真家に転職したといわれている)そうなると写真では表現できないものを描こうとして、光を絵画で表そうという印象派の登場になる。印象派、そしてそれに続く様々な芸術の潮流(ナビ派、立体派、抽象絵画等)、そして今につながる現代美術の変遷を知っている我々にとって、もはや、風景をありのままに写す、いわゆる写実は、今の画家にとって旧態然の芸術形態なのだ。

竹林のトンネル
 嵯峨野の散歩道は何しろ美しい風景の連続だ。深緑の中でグラデーションとなった黄色や橙色、鮮やかな紅色が生えている。写真左:竹林のトンネル
 誰かが「もう1万4千歩、歩いたよ」といったが、仲間たちの多くは常に万歩計(ほとんど男性)を持って、歩いた実績を確認している。美しい風景や鮮やかな色に染まる木々の癒しがあると全然疲れを感じないのがうれしい。
写真右下:彩やかなもみじと山茶花
紅葉と山茶花

 これらの景色をまともにただ風景画教則本に書いてある通りにスケッチしていては、この風景を越えることができない。この美しさを表現するためには、現地で自分の目が捉えたものと写真をもとに、五感をフルに働かせ独自の思考を込めて描き上げるしかない。美術というものは個性を出し、自分の世界へ持ち込んで仕上げるもの、というのが僕のいつも主張していることだ。


 大学1,2年の頃の僕は教授が日展系の人ばかりで独自の思考を入れる必要がなく、ただ教わった通りにまともに描かないと単位がもらえないからやむなく描いていたが、少し美術史の勉強をしたらそれが間違いであることに気付いた。そのため教則本的な写実絵画の絵から脱皮することを試みた。

ターナー作品
 今一般大衆(美術関係者だけでなくすべての人)にとってうまいと思われている絵は、代表的な画家を挙げるとするならば、イギリスのターナー(1775~1851)風の絵であろう。(写真左)
 1960~70年代のスーパーリアリズム絵画は別として、当時写実的な絵が写真に近づこうとしても限界があった。それをターナーは写実的な風景をぼかして美しく描き、絵画的な良さを残しながらより実際の風景に近づけた。彼の絵にはぼかしに寄る空気が感じられる。ダ・ビンチの空気遠近法をもっと発達させた感じがある。
 ターナーはこの手法の絵画の創始者だからすごいし評価されて当然だが、200年以上経った今、それの真似をする絵描きがいて、さらにそれを唯一の正しい絵の描き方として教えるのは問題だ。
 美大の同級生で日展教授を信じ、この風景に挑戦して水彩の公募展に所属している者もいるが、彼はいまだに仲間から軽視されている。時折彼は絵具を転々と塗る点描画作品を描くこともある。これはもっと悪い。分かりやすい技法だからすぐに点描画の元祖、スーラやシニヤックを連想してしまう。完全にパクリと思われてしまう。彼は要するにアートが分かっていないのだ。

 芸術は全てが自由で、数学のように正しい答えがあるものではない。本屋や図書館には「風景画や静物画の描き」方という本が多いが、これに従って満点をとっても、書道教室でお手本そっくりに書いて褒められるのと同じになってしまう。芸術性は薄い。
僕が気付いたことで面白いのはこのような教則本を買って作品作りをするのは圧倒的に男性が多いことだ。万歩計同様何かの実証を得たいのだろう。本の通り描けるようになると、その達成感に満足するようだ。この行為は芸術の論理に逆行することに気付いていない。

 僕はたくさんの地域で美術展の審査をしている。そこではこの教則本的模写作品が多いことに気付かされる。これらの作品はまず賞に入らない。すると見に来た人から「何故こんなに上手で美しい作品が賞に入らないか」と質問を受けることが多い。僕はそれに逃げることなく丁寧に答えているが、ここでその質問の答えをまとめて書いてみたい。

①絵は誰かの真似をするものではなく、自分の世界を描くものだ。だから美術の場合、入門書を買う人はまず大成しないといっていい。
②皆が美しいと思うものを描くことは、それだけ自分で選んだという個性を失ってしまう。
③きれいといわれる水彩画の作品を見ると、みな描き方が似ていて誰の名前を作品に入れても違和感がないように感じる。作者の匂いがなくてはだめだ。  
④コンクールに出す場合審査員はいい作品を見ると、その良さを作者が自分の目で探し創り出したかををまず考える。

 上記のことをひっくるめて個性のないただ美しいだけの作品を僕は「ただうまいだけのマネキンアートだ」と言っている。いくら美人でも血が通ってなくてはどうしょうもない。
 これらのことをさらに4人の風景画家の作品で検証してみよう。

作品A

A 無名の風景日曜画家の作品・・・お手本どうりただ描いただけの作品。上記したがこれらの作品、まず女性は描かない。男性は教則本が示す到達点という目標を目指し、女性は今の自分の感情、感性によって行動するからなのだろうか。

作品B

B 安野光雅の作品・・・安野さんが見つけ出した技法で少し個性のある作品。彼は日曜画家の評判がいい。コンクールでは弱い。

作品C

C 杉本健吉の作品・・・自由なタッチでのびのびした杉本スタイルの作品。少々のデッサンの狂いなど気にしない。まねしづらいためか日曜画家に好かれないが。

作品D

D 佐伯祐三の作品・・・誰もが美しいと思わない場所を見つけて、味のある作品に仕上げた作品。誰が見ても佐伯の作品だと分かる。人物デッサン等下手でも堂々と個性で描き切るから気にならない。

 僕がこれらに勝手に値段を付けるならAは1万円、Bは10万円、Cは百万円、Dは1千万円となる。Dはもっとするかもしれないが単純にするためこうまとめた。まあ画商たちが評価しても僕と大きな違いはないと思う。

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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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