楽しい!森村泰昌展&大阪国立国際美術館

楽しい!森村泰昌展&大阪国立国際美術館

森村泰昌展パンフ
 今、大阪の国立国際美術館で森村泰昌展(写真右:展覧会のパンフ)が開催中だ。当初はオープニングの日に、現代美術作品を自分の美術館にも入れたいと言っている堀財団の堀会長と行く予定を立てていたが、その日に彼は忙しくて行けず、つい先日僕は仲間と行ってきた。

写真下:国立国際美術館内部
国立国際美術館内部

 さて森村泰昌展だが、なかなか面白く、説得力のある展覧会とはまさにこのようなものだと感心した。会場に入ってまず感じたことは、名古屋ではこのような美術展はできないだろうな、と言うことだった。何故できないかと言えば、名古屋では思い切った奇抜な企画をして失敗したらどうしようと、まず美術館側が自らを守ろうとする。これは一言でいえば市民性の違いから来るのだろう。大阪の人々にはこれらの作品を楽しむ心のゆとり?(何でも受け入れる寛容さ)があると思われる。
 美術館の学芸員の新しい企画をやりきろうとする意欲もすごい。文句が出ないようこじんまり展示するのではなく、スケールが大きくて分かりやすく、観客にまず見せて感激させることを作品の狙いに据えた展示にしている。その目的のためか会場での写真撮影もアメリカの美術館並みにすべてOKである。美術館の貴重な宝物や作品を見せてやるのだから撮影禁止と言った上から目線の雰囲気がない。

森村自身の裸像写真
 森村の作品の中には、他国の政治家や有名人をモチーフにして仕上げた作品もある。マイケル・ジャクソンは亡くなっているがマドンナはまだ生きている。名古屋人なら彼女に訴えられたらどうしょうと勝手に自分に規制をかけ、ビビってしまうのではないか。また森村は自分の全裸を写真に撮り展示してもいる。
写真右:森村泰昌自身の裸体写真 (実際は全裸でオチンチンも見える作品だが、名古屋人思考で隠してみた。でもこの方が愛知県美術館の場合と同様に卑猥に見えると思うのだけど。)
これも名古屋なら性犯罪法に引っかかるのではないか等々と考え展示を引いてしまう。

鷹野隆大作品
 事実2015年8月1日からの愛知県美術館の企画展「これからの写真」展に出品された鷹野隆大の作品(裸体写真)をめぐって一悶着があった。問題が起きることを想定した美術館側は、この作者の裸写真のある部屋だけはカーテンで仕切り、その入り口に「裸の作品があるから見たくない人は入らないでください」という趣旨の注意書きをはり、係官をわざわざつけて観客に説明していた。これは他県に美術後進国、田舎愛知を証明する興ざめで恥ずかしい行為だと僕は思う。
 ところがこの展示方法に対しても納得せず、警察に訴えた観客がいた。それを受けた警察は性犯罪になるとして美術館と作家側に撤去を言い渡した。これに対し作家は腰から下にカーテンを付けて展示することで抵抗した。
写真上:愛知県美術館で撤去を申し渡され、腰部分にカーテンを付けて展示した写真作品
まあこの出来事がニュースになったことで逆に観客は増え、館側とすれば喜ばしいことにもなったが。
 名古屋、愛知にはこのような人が多い。何度も記すが、僕が関わった例のごみ作品アート事件もアメリカや東京、大阪では堂々とごみが作品として通用している(ジャンクアートといわれ1950年頃から世界で公認)のに、この愛知ではごみはごみであるとして撤去された。愛知は不思議な保守的な所だ。

 またこの裸体写真の件では「有罪にした警察署長が悪い」という指摘もあった。警察の立場としては「芸術だからこれはいいです」とは言えない。芸術論まで踏み込めない。訴えられれば「だめだ」と言わざるを得ない。問題をオープンにして市民に問うのがいいと僕は思うが、名古屋人はこのような騒ぎを一般的には好まない。実はこの撤去を命じた警察署のM所長は僕の可愛がっていた中学の教え子。彼は他の美術の授業とはかなり違っていた僕の先端の現代美術の授業を思い出して困ったであろう。けれどまあ公務員である以上は訴えられたら違反と言わざるを得ないのがここ名古屋の現実だ。


 さて肝心の森村泰昌展に戻ろう。撮影はすべてOKなので、僕は部屋の全景や作品のアップ写真をジャンジャン撮りながら楽しんで見させてもらった。森村は実に数多くの画家や有名人に扮して写真作品におさまっている。また例えばカラヴァッジョの『聖マタイの召命』のような有名な絵の中のそれぞれの人物全てに扮装しているものもある。一見絵のように見えるが全て写真だ。

 面白いと思ったのはマネ作の『オランピア』に材を取った作品だ。
写真下左:マネ作『オランピア』   左:森村作『肖像(双子)』
オランピアマネ オランピア森村泰昌

 ベッドに横たわる裸婦はもちろん森村が扮しているが、召使の黒人女も森村が扮している。ベットサイドにいる黒猫の代わりに招き猫が、敷物の代わりに日本の着物が使われている。パロディだ。観客を喜ばせてくれる。特に興味を引くのは裸婦が裸夫になっていることだ。顔の部分はかつらやメーキャップなどで女装をしているが、胸などは男性のままだ。つまり完璧に絵を再現するのでなく、作家のセクシュアリティ、またはジェンダーに対する意図が、あるいは主張がそこかしこにちりばめられている。原画と見比べればさらにはっきりわかる。またタイトルもマネの『オランピア』に対して森村の方は『肖像(双子)』だ。人種問題も浮上してくる。こういった面白さを探しながら作品を見るのも一考だ。
 
 森村は作品のまとめとしてダ・ビンチの「最後の晩餐」を彼自身の解釈で全編60分を越える映像作品≪「私」と「わたし」が出会うとき―自画像のシンポシオン≫(写真下)にしている。
最後の晩餐
 12使徒をウォーホルやフリーダ、ゴッホ、フェルメール、ルブラン、レンブランド、ベラスケス、カラヴァッジョ、デューラー、ファン・エイク、ダ・ビンチ、デュシャンの自画像を描く芸術家に変え、それらの人物に森村が扮したものだ。それに森村自身を加えた13人の登場人物の独白が入る。

最後の晩餐1 最後の晩餐2
左から森村、(デュシャン)、ルブラン、レンブラント、 カラヴァッジョ、デューラー、ダ・ヴィンチ
最後の晩餐3 最後の晩餐4
左からファン・エイク、ベラスケス、フェルメール、ゴッホ、フリーダ・カーロ、ウォーホル
デュシャンだけは描かず透明人間にしているところが憎い。上手い演出だ。だがそこまで読めない観客もいる。まあサービスに森村が便器に小便をしているところか(彼は便器の作品『泉』で知られる)、パリの空気を詰めたカプセルでも(パリの空気をカプセルに詰めてニューヨークの友人に送った行為は有名)置いたらどうだろうか。謎解きの様で面白いのではないか。

 圧倒的な数の作品数と遊び心やパロディ満載の展覧会は、美術鑑賞は上品で堅苦しいものという一般常識を覆してくれる。何よりも森村自身が扮装を楽しみ、やりたいことを思いっきり楽しんでいることが伝わってくる。美術に封建的な名古屋人も是非訪れて大阪人のこの面白さを堪能してほしい。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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